禅宗建築(読み)ぜんしゅうけんちく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「禅宗建築」の意味・わかりやすい解説

禅宗建築
ぜんしゅうけんちく

仏教寺院建築のうち、禅宗様式を踏んだもの。鎌倉時代の1191年(建久2)に禅宗の開祖といわれる栄西(えいさい)が宋(そう)から帰国し、筑紫(つくし)(博多(はかた))に建久報恩寺、聖福(しょうふく)寺を建立したのがわが国における初めての禅宗建築であるが、それが純粋に宋風の禅宗様(よう)を模したものか否かは明らかではない。東大寺勧進(かんじん)職についた栄西は、13世紀初めごろ東大寺鐘楼の造営にあたっているが、この組物(くみもの)は禅宗様建築にみられる構成をもつものの、同じころ1202年(建仁2)に創立した建仁(けんにん)寺(京都)の伽藍(がらん)は後の禅宗寺院の伽藍配置とも異なっているため、かならずしも栄西によって禅宗様建築が確立したとはいいがたい。むしろその後、道元(どうげん)が1233年(天福1)に創建した深草(ふかくさ)の興聖(こうしょう)寺(京都)、また藤原道家が1235年(嘉禎1)に発願した東福寺(京都)、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)によって1253年(建長5)に供養された建長寺(鎌倉)をはじめ、各地に禅宗寺院が建立されてしだいに定着していったと考えられる。とくに宋僧の蘭渓が宋風の仏儀を行った建長寺は、宋の径山万寿(きんざんまんじゅ)寺を模すといわれ、その創立をもって禅宗様建築が確立されたといえる。建長寺の伽藍配置は、その後わが国の禅宗寺院の基準となって遵守(じゅんしゅ)された。

[工藤圭章]

伽藍配置

建長寺では正面南から中心線上に惣(そう)門・三門・仏殿・法堂(ほっとう)・玄関・方丈(ほうじょう)と並び、三門から仏殿には回廊が巡らされて、この回廊に接して東西に庫院(くいん)と僧堂があり、僧堂北には衆寮が建つ。三門の南方東西には浴室と西浄(せいちん)が配される。一般に他の禅宗寺院でも伽藍の方位は南面を原則とするが、京都の天竜寺は東面、同じく南禅寺は西面と例外もある。三門両脇(わき)の廊は山廊とよばれ、ここには三門二階への上り口がある。三門・仏殿・法堂は大寺院では完備するが、小寺院では仏殿を設けず、方丈形式の本堂庫裡(くり)、ほかに禅堂・衆寮などが設けられる例が多く、塔頭(たっちゅう)寺院の多くは方丈形の本堂と庫裡だけとなる。

[工藤圭章]

殿堂

三門は空(くう)門・無相(むそう)門・無作(むさ)門の、いわゆる三解脱門(さんげだつもん)から名づけられた。大寺院では二重門となり、楼門形式も好まれる。仏殿や法堂の本格的なものは裳階(もこし)付きの建物である。殿堂は臨済(りんざい)・曹洞(そうとう)・黄檗(おうばく)の各宗派で差があり、黄檗では仏殿(大雄宝殿(だいおうほうでん))前に天王殿を建て、曹洞では法堂を方丈形式とする。方丈は正堂(しょうどう)あるいは函丈(かんじょう)ともよばれ、住持(じゅうじ)の接客の場としての客殿の性格をもつが、臨済では中央に仏間と室中を置き、仏間裏に寝室にあたる眠蔵(みんぞう)を設ける。左右を下間(げかん)・上間(じょうかん)とよび、上間には住持間(じゅうじま)(書院間)・礼間、下間には衣鉢間(いほのま)・檀那間(だんなのま)が設けられる。

 曹洞では中央に内陣と大間(だいま)を置き、上間には室中・礼間、さらに脇に二室が付加され、住持間・茶間(ちゃのま)が設けられる。一方、一寺の住持を勤めた高僧の遷化(せんげ)後にその塔所がつくられたり、入寂(にゅうじゃく)前に寿塔(じゅとう)や住持退居の庵室(あんしつ)をつくることによって塔頭が成立した。これは高僧の門下に師資相承(ししそうしょう)されるため独立した禅院の性格が強まるが、ここにも中心的建物として方丈が建てられる。

[工藤圭章]


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