禅宗美術(読み)ぜんしゅうびじゅつ

改訂新版 世界大百科事典 「禅宗美術」の意味・わかりやすい解説

禅宗美術 (ぜんしゅうびじゅつ)

禅宗寺院を中心に,禅僧たちが日常の修行や生活に用いた道具や施設のうち,直接間接に禅の精神に関連の深い作品を総称して,禅宗美術という。禅宗は,不立文字(ふりゆうもんじ),教外別伝(きようげべつでん),直指人心(じきしにんしん),見性成仏(けんしようじようぶつ)といって,日常の修行はもとより平常の生活のなかに自己本来の面目(めんぼく)を会得することを目的とする。一方,禅宗の教義は師資相承せらるべきものであるから,禅徒はすぐれた師に直接見参して教導を求め,自らの体験によって悟道の熟達をはかった。したがって師の容姿を写した頂相(ちんそう)が第一に尊重され,彫像,画像いずれの頂相も迫真の写照に基づくすぐれた作品が生まれた。絵画では日常修行に際しての指標を示すものとして,まず主題が問題となる。日本に禅宗文化が移入された鎌倉時代の後半から,従来の仏画に禅宗的解釈が加えられ,〈白衣(びやくえ)観音〉〈出山釈迦〉〈羅漢〉などが制作された。それらはしだいに濃麗な色彩をはなれて,墨一色による万物一如,心外無一物の自己の心象を示す表現にかわってゆく。ここに水墨画が禅的精神によって受容され,禅僧とその外護(げご)者たちが求めた思想・精神に合致し,制作・鑑賞両面において盛行する。水墨画の主題には中国禅宗の第一祖である達磨以下の祖師像,それぞれ独自の手段で悟道に到達した寒山(かんざん)・拾得(じつとく),布袋(ほてい)和尚などの行動を描いた禅会(ぜんえ)図がある。

 一方,禅寺においては中国宋元画そのものを鑑賞し,同時にその様式を意識的にとり入れた作品を制作するかたわら,牧谿(もつけい),玉澗らに連なる中国禅宗所縁の逸格的画風を尊重発展させた。足利幕府の庇護を受けた禅僧たちは,しだいに唐物崇拝の風潮を生み,本来の禅的精神とは逆の華やかな趣味をあらわしてくる。たとえば袈裟(けさ)における華麗な金襴,法会に用いる曲彔(きよくろく)や払子(ほつす)の柄(え)に堆朱(ついしゆ)の屈輪(ぐり)製品を用いるというように,中国からの舶載文物の日常使用が目立ってくる。これらは水墨画や枯山水などのもつ簡素で枯淡な味わいを逆に引き立てる結果になり,禅宗美術の全貌を把握する上で重要である。禅宗が初期の純粋な宗教性を離れて貴族化してくると,五山を中心に文人的な気風が醸成され,詩文の流行をはじめとする多様な芸能が生じてくる。一方,中国の神仙思想的隠遁趣味は,山水を基調とした書斎軸や神仙図,三教・三祖図などを成立させ,日本の伝統文化との一体化をはかり,〈渡唐(宋)天神〉を成立させる。これらの作品の多くには詩文が着賛され,中国文人への敬慕をつよめ,李白,杜甫をはじめとする詩人たちの境涯へとすすみ,禅寺は特殊な中国文物鑑賞の場に発展した。蘇東坡や林和靖,周茂叔など花鳥風月との交融を詠った詩人をとり上げた詩画の愛好は,近世の装飾感覚へつながっていく。

 建築は,中国宋代の建築様式が禅宗とともに移入され,唐様と呼ばれて室町時代の禅宗寺院建築のなかに定着する。たとえば鎌倉円覚寺の舎利殿にみられる瀟洒(しようしや)な大陸文化の結晶が明確な様式として確立し,これが簡素化して禅的空間ともいうべきものへ発展する。従来の寝殿造書院造となり,浄土を再現した回遊庭園は自然を象徴した観念的小庭園へと凝縮する。生活空間としては床の間(室町時代には押板と呼称),書院,飾棚が成立し,石庭へとつながっていく。それらは高度の精神的鑑賞空間であり,水墨画,詩画軸墨跡(禅僧の書)は床の間で,詩文の創作享受は書院で,唐物の賞玩は飾棚で,そして自然との対話は枯山水との間で行われた。このような禅寺の生活空間を基盤とした創作と鑑賞のなかから,五山文学,茶の湯,能,立花などが派生し,幽玄枯淡な芸術世界が形成されたのであり,禅宗そのものと禅宗美術はつねに表裏一体それに関与していたのである。江戸時代初期に渡来した黄檗(おうばく)宗も臨済宗一派であるが,ラマ教などの影響が顕著で,宇治万福寺天王殿にみられる濃厚華麗な造形感覚を特色とする。隠元隆琦(りゆうき),木庵性瑫(1611-68)の画像と書画は従来の日本禅宗美術に比していっそう大陸的で,近世美術の展開に及ぼした影響は大きい(黄檗美術)。
禅画 →墨跡
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「禅宗美術」の意味・わかりやすい解説

禅宗美術
ぜんしゅうびじゅつ

禅宗の思想信仰に基づいて生み出された仏教美術。坐禅(ざぜん)と瞑想(めいそう)によって仏心を悟ることを目標とする禅宗は、6世紀初めにインドから中国に伝えられ、伝統的な道教と融合して発展した。とくに唐代になって国家仏教が衰えると、主として在野に広まり、五代から宋(そう)代にかけては江南・蜀(しょく)地方などにも普及、やがて文人の教養に不可欠のものとなって、書画や詩文にも大きな影響を与えた。禅宗は自己の内面に悟りを得ることを至上の目的とするから、従来の仏教美術のように仏像や仏画の制作はあまり行わず、悟りの境地を直観的に把握する要素があれば、画題にとらわれず、禅宗の美術として鑑賞、あるいは創作した。江南や蜀地方で盛行をみた水墨画は禅宗絵画の土台となり、道釈(どうしゃく)画(道教や仏教を主題にした絵画)や観音(かんのん)・羅漢などが盛んに描かれ、後世へ受け継がれていった。

 南宋の梁楷(りょうかい)はいわゆる減筆(げんぴつ)体の道釈・人物画をよくし、宋末元初の禅僧牧谿(もっけい)は道釈・人物のほか山水・花鳥画もよくした。元代になると因陀羅(いんだら)と雪窓(せっそう)が現れて画才を発揮、とくに雪窓の墨蘭(ぼくらん)は有名で、日本の絵画にも影響を与えている。また、禅宗は自己の体験によって悟りに達するほか、師資相承(ししそうしょう)を重んずるため、第一祖の菩提達磨(ぼだいだるま)をはじめとする祖師像や、直接の師の肖像である頂相(ちんぞう)が尊重され、絵画と彫刻の両分野に迫真の画像や彫像がつくられた。

 日本へは、鎌倉時代の初めに栄西(えいさい)が臨済禅を、道元が曹洞(そうとう)禅を伝え、同時代末から南北朝にかけて中国禅僧の渡来する者も少なくなかった。また、宋から帰朝した多くの日本人僧によって禅宗は隆盛の一途をたどり、室町幕府は鎌倉と京都にそれぞれ五山を設け、禅林文化の発展に力を注いだ。そのため、絵画、庭園、茶の湯に至るまで枯淡幽玄を表すものが、禅の精神と一致するものとして重んじられ、禅林の美術はこの時期に空前の盛況をもたらした。鎌倉末期には、可翁(かおう)や黙庵(もくあん)のように元に渡って禅と絵を学んでくる者もあり、水墨画の発展は、その初期には禅宗の受容と並行していた。しかし、愚渓(ぐけい)、明兆(みんちょう)のような専門の画家が京の禅林から輩出するに至り、室町時代になると、主として画僧の筆になる詩画軸という墨画が五山を中心に流行し、禅僧の教養の一つとなった。

 こうした中国の禅のあとを追いながらも、美術の分野では、中国絵画一辺倒に飽きたらず、日本独自の感覚を生かした水墨画の制作に情熱を燃やした画僧も少なくない。雪舟(せっしゅう)や狩野(かのう)派の画家がそれで、禅宗寺院の襖絵(ふすまえ)や屏風(びょうぶ)に、日本の自然を取り入れた山水の大画面を描いた。

 書では、禅僧の筆になるものを墨跡(ぼくせき)と称するが、禅僧の悟入(ごにゅう)の境地を示すものとしてもっともたいせつに扱われた。中国からの舶載品をはじめ、わが国の禅林の高僧の手になる名筆も多く、とくに茶の湯の世界で珍重された。

 建築では、中国宋代の建築様式が禅宗とともに伝えられ、これを禅宗様(かつては唐様(からよう)と称した)という。鎌倉・京都の五山の禅寺はこの様式を取り入れて建てられたが、初期の遺構としては鎌倉・円覚(えんがく)寺の舎利殿(しゃりでん)(国宝)が名高い。また建築に付属した庭園では、池泉を設けない枯山水(かれさんすい)がもっとも禅の真髄を象徴したものと考えられ、優れたものが多数作庭された。

 このほか、宇治の万福寺などに伝わる美術は、江戸初期に新たに黄檗(おうばく)宗とともに輸入されたもので、この系統のものは黄檗美術とよんで区別している。

[永井信一]

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百科事典マイペディア 「禅宗美術」の意味・わかりやすい解説

禅宗美術【ぜんしゅうびじゅつ】

禅宗では偶像を崇拝せず,堂宇の荘厳や仏像彫刻を必要としなかったので,禅宗の実践的な教理を表現するものとして,絵画や庭園が禅僧の余技の形でつくられた。中国では臨済,洞山らが現れた8―9世紀(唐代)には美術作品もつくられていたらしいが現存作品はなく,宋代に入って多数の傑作を生んだ。画題としては頂相(ちんそう),祖師図,禅機図,故事人物図,比喩(ひゆ)図などが主である。日本には鎌倉時代から入宋僧によって将来され,室町時代になって黙庵可翁明兆如拙(じょせつ),周文雪舟らが輩出して全盛期を迎えた。江戸中期に白隠仙【がい】らの禅僧が南画・俳画の筆法をとり入れ飄逸(ひょういつ)な祖師像を描いたが,これは特に禅画といい,室町時代の禅林を中心に発展した上記禅宗美術とは区別することがある。一方,禅宗の唯心的自然観が夢窓疎石(むそうそせき)らによって作庭にとり入れられ,大面積の華麗な庭園を否定し,石組みを中心とした小庭がつくられた。
→関連項目墨跡

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「禅宗美術」の意味・わかりやすい解説

禅宗美術
ぜんしゅうびじゅつ

鎌倉時代から南北朝時代,さらに室町時代に,幕府の庇護のもとで,禅宗寺院を中心に新しい中国風文化の一端として展開,成熟した中国風美術。禅林美術とも称する。作品は禅宗の教義に直接的に基づくというよりは,美術の表現内容そのものが禅宗的精神に受容されるかぎりにおいて,美術と関連づけられる。絵画では,まず頂相 (ちんぞう) と呼ばれる禅僧の肖像画があげられる。これは師資相承のあかしとして師から弟子に与えられるもので,像主の外貌ばかりでなく,精神の鋭さまで伝えようとする充実した描写力が要求された。入宋した日本僧が持帰った宋画が基本となって,13世紀後半には日本での制作が始り,次第に和風化をみせながら室町時代まで多量に制作された。同様に彫刻においても禅宗寺院に祀る祖師や開山の像が造られた。当時の中国では,禅林生活を飾る絵画は水墨画と多く結びついていた。宋元画が将来され,これに基づく日本の禅僧らの墨技も 14世紀に入って本格化し,いわゆる「漢画」様式の先駆となった。黙庵霊淵可翁などがそのすぐれた例である。主題としては従来の仏画に禅的解釈が加えられ,白衣観音,出山釈迦,羅漢などが制作され,さらに中国禅宗の第一祖である達磨以下の祖師像,寒山拾得,布袋などの道釈人物画が禅的精神に合致するものとして制作,鑑賞された。応永年間 (1394~1428) には,禅僧の詩文に水墨画を組合せた詩画軸が隆盛となった。相国寺の画僧,如拙は南宋院体画を取入れた山水表現に新領域を開き,同じく周文は禅林画壇の中心となって,周文様山水詩画軸を完成させた。山水詩画軸の隆盛には五山文学に示されるような,禅僧たちの自然観や隠逸趣味が大きく反映している。禅宗寺院建築では,中国宋代の建築様式が禅宗とともに移入され,唐様あるいは禅宗様として定着し,独特の制式によった堂宇が数多く営まれた。書院造,枯山水庭園なども,禅宗寺院の精神生活と深く結びついて生じたものである。

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