禅定寺(読み)ぜんじょうじ

精選版 日本国語大辞典 「禅定寺」の意味・読み・例文・類語

ぜんじょう‐じ ゼンヂャウ‥【禅定寺】

京都府綴喜郡宇治田原町にある曹洞宗の寺。山号は補陀洛山。正暦・長徳年間(九九〇‐九九九東大寺別当平崇が創建。はじめ華厳・真言兼宗の場であったが、延宝八年(一六八〇月舟宗胡が中興して現宗に改めた。

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日本歴史地名大系 「禅定寺」の解説

禅定寺
ぜんじようじ

[現在地名]宇治田原町禅定寺

宇治田原町域の北、田原たわら川の支流禅定寺川の上流西岸の山麓近くにある。補陀落山観音妙智院と号し、曹洞宗。本尊十一面観音。宇治田原北部の山岳地帯は聖宝が開いた山城醍醐山、奈良時代より山岳行場として知られる金勝こんしよう(現滋賀県栗東町)などとともに山岳宗教の修行場とされた。「小右記」万寿二年(一〇二五)三月二九日条にも「始従今日卅ケ日、修諷誦清水寺、為息災、大威儀師安随身平恒聖来向、件聖住田原」とあり、田原住の聖が京都清水寺で読経をしている。禅定寺の前身とされる桑在くあり(「禅定寺造営年次目録」禅定寺文書)もそのような寺院の一つであったと思われるが、そこに摂関家の援助を受けて、奈良東大寺別当ともなった平崇が禅定寺を建立した。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔造営次第・寺領〕

禅定寺造営年次目録によれば、まず永延元年(九八七)に六間二面萱葺の大房を造立。正暦二年(九九一)には本堂の「鋒始」が行われ、五年後の長徳元年(九九五)に完成。本尊として八尺の十一面観音像が安置された。長保二年(一〇〇〇)には法華八講が初めて修せられている。なお本堂造営中の正暦四年三月二六日には、三蹟の一人藤原行成が禅定寺に登り五大堂を立願しているが(権記)、この五大堂は建立されなかったらしい。当寺は初め平崇が東大寺内に建立した正法院の末寺とされたが、藤原道長など摂関家の後援を受けて広大な寺領を付せられていた。長保三年四月八日の禅定寺領田畠流記帳(禅定寺文書)によれば、綴喜つづき中村なかむら郷、久世くせ竹淵たかふち郷・拝師はやし郷などに寺領は散在していたが、中心の杣山は一千町歩あり、その地は「在綴喜郡田原郷字山田□」で、四至は「限東近江国堺綾槻大尾、限南国分寺山大譲葉岑、限西公田、限北大津尾谷」と記される。

禅定寺
ぜんじようじ

[現在地名]熊本市横手一丁目

北は旧高麗こうらい門から横手よこて村に至る道路を挟んで長国ちようこく寺、南と西に旧井芹いせり川のかねヶ淵、東は妙立みようりゆう寺の裏側に接する。玉龍山と号し、曹洞宗、本尊釈迦牟尼仏。「国誌」によると、開基は宣安明言で、天正―文禄(一五七三―九六)の頃肥後国に来て立田たつだ村の廃寺を再興して禅刹とした。その後加藤清正の家臣並河志摩守が大檀越となり、ふる町に一寺を建立して禅定院と号した。その後現在地に移し、玉龍山禅定寺と改称したという。異説として「国誌」は「陣迹志」を引用し、「当寺ハ初ハ熊本古町ニアリ、境内狭キ故三世融山長祝和尚住持ノ時、並河志摩守佐々備前ヲ憑ミテ清正侯ニ乞ヒ、今ノ所ニ移シ、並河氏堂舎再興シテ山号ヲ改メ玉龍山ト称ス」と記している。現在地に移転したのは元和―寛永(一六一五―四四)頃と思われる。「肥後見聞雑記」には、並河志摩守が寄進した禅定寺の山門について「同寺外之かぶ木門ハ宇土城ニ有シ黒門也シ、宇土落城之節並河持来て建ると云、於于今其節之柱其外瓦等迄残レリ、破風之瓦ニ小西氏ガ紋于今有リ(中略)此紋剌刀そり請ト云由」と破風瓦に小西氏の剌刀そり請の紋所が入っていたことを伝えている。

禅定寺
ぜんじようじ

[現在地名]峰山町字小西 中地

山号小西山(もと小廬山)、臨済宗天龍寺派、本尊聖観音菩薩。

伝えによれば、かつてこの地にあった真言宗善城ぜんじよう寺の寺基を継いだ寺で、延宝四年(一六七六)玄甫によって再興、その時寺名・宗派を改めたという。

善城寺については、「実隆公記」永正二年(一五〇五)九月一七日条に「丹後国丹波郡吉原庄小西山善城寺勧進帳草并清書事、以玄清或僧所望之間、雖不堪之事今日草之」とあり、同月二〇日条に「勧進帳今日書之、則遣了」と認めてその全文を記している。この勧進帳によれば善城寺は、和銅年中(七〇八―七一五)遍然が草創、本尊聖観音は行基の刻彫になり、もと平城宮内に祀られていたものという。

禅定寺
ぜんじようじ

[現在地名]三刀屋町乙加宮

「出雲国風土記」に載る奈倍なべ(現在の鍋山、禅定寺山とも)中腹にある。慶向山と号し、天台宗。本尊聖観音。天平年間(七二九―七四九)行基の開山で、聖武天皇の勅願寺との寺伝をもつ。出雲三十三観音の第一〇番札所。中国三十三観音の第二四番札所でもある。本尊は像高二・二七メートル、カヤの一木造の立像で、国指定重要文化財。内仏の阿弥陀三尊像は県指定文化財。盛時には四二坊を数えたというが、現在は本堂のほか仁王門・鐘楼門・蔵王堂・五重塔・稲荷社などがうっそうとした木立のなかに点在している。安来市の清水きよみず寺、平田市の鰐淵がくえん寺などと並ぶ出雲地方における天台宗の古刹である。庫裏の庭に立つと遠くに中国山脈の雄大な景色が広がり、紅葉と朝の雲海はつとに有名。

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改訂新版 世界大百科事典 「禅定寺」の意味・わかりやすい解説

禅定寺 (ぜんじょうじ)

京都府綴喜郡宇治田原町にある曹洞宗大乗寺派の寺。山号,院号を合わせて白華補陀洛山観音妙智院禅定寺という。991年(正暦2)に東大寺別当だった平崇が,摂関家の援助によって創建した。1001年(長保3)に杣山1000町歩を施入し,十一面観音像(重要文化財)を本尊として運営した。2世の利原は藤原道長の運命を占い,藤原伊周(これちか)の呪詛事件に連座した宿曜師(すくようし)であった。1071年(延久3)には平等院の末寺となった。鎌倉時代は,殿下渡領となっていたことが〈近衛家所領目録〉にみえている。また隣の曾束(そつか)荘と堺相論が続けられたのは有名である。室町時代後半以降衰微して,寺の下司が管理し,無住となったが,1680年(延宝8)曹洞宗の月舟宗胡(げつしゆうそうこ)が入寺し,同宗の寺として再建となり,現在にいたる。創建以来の古文書(12巻4冊)と仏像(十一面観音,日光月光,四天王,文殊,地蔵)9体が,重要文化財に指定されている。
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百科事典マイペディア 「禅定寺」の意味・わかりやすい解説

禅定寺【ぜんじょうじ】

京都府宇治田原(うじたわら)町にある曹洞宗大乗寺派の寺。991年東大寺の平崇(へいすう)が摂関(せっかん)家の援助で創建,のち杣(そま)山1000町歩を施入され,十一面観音像を本尊として運営。室町期以降衰微,1680年月舟宗胡(げっしゅうそうこ)が入寺し現宗に改宗。杣山と隣接する曾束(そつか)荘との境相論史料を含む創建以来の古文書(12巻4冊),本尊をはじめとした仏像9体は重要文化財。

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