禅海(読み)ぜんかい

朝日日本歴史人物事典 「禅海」の解説

禅海

生年:生没年不詳
江戸中期の禅僧一説に貞享4(1687)年に生まれ安永3(1774)年没。越後(新潟県)の人。最初江戸浅草で,全国66カ所の霊場法華経を納めて回る行脚僧の六十六部になる。諸国行脚の途中,正徳5(1715)年に豊後(大分県)別府至り,得度して禅海と称した。豊前国下毛郡耶馬渓の曹洞宗羅漢寺に参詣し,灌漑工事のため参詣路が水没し,断崖にかけられた桟道が通行の難所となっているのを知り,ひとり羅漢寺の塔頭智剛寺に住して開削工事を始めたとされる。以後30年余の歳月を費やして青の洞門を完成させた。禅海の業績は菊池寛の小説『恩讐の彼方に』の題材となった。

(志部憲一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の禅海の言及

【青ノ洞門】より

…大分県北部,下毛郡本耶馬渓町大字曾木字青にある耶馬渓の名勝の一つで,競秀峰崖下にある洞穴道。18世紀中ごろ僧禅海が〈鎧渡し〉と呼ばれていた難所に独力でつくったもので,このことは菊池寛の小説《恩讐(おんしゆう)の彼方に》(1919)によって広く知られた。《豊前志》によると1735年(享保20)開削を始め,16年の歳月を要して50年(寛延3)に開通したという。…

【慈善事業】より

…とくに彼が87年に鎌倉桑ヶ谷に造立した桑谷療病所においては,20年の間に病が治った者4万6000人,死者1万0450人と,治療を受けた者の5分の4が治癒したと伝えられている。忍性は94年(永仁2)には四天王寺の別当ともなり,同寺の悲田院をも再興したといわれているが,これは叡尊の他の弟子で,四天王寺における西大寺流律宗の拠点ともいえる薬師院の長老であった観心房禅海(生没年未詳)と計って行ったものであろう。禅海は叡尊が1275年(建治1)に清水坂非人に施行をした際にこれに随行し,非人873人に受戒をした人物である。…

※「禅海」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

黄砂

中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...

黄砂の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android