福井(県)(読み)ふくい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「福井(県)」の意味・わかりやすい解説

福井(県)
ふくい

中部地方の北西部、日本海沿岸にある県。北陸地方の南部に位置し、北東は石川県、東から南にかけては岐阜県、南から西にかけては滋賀県、京都府に接する。県庁所在地は福井市。

 1881年(明治14)越前(えちぜん)、若狭(わかさ)の2国をあわせて福井県が成立。県央南寄りの木ノ芽(きのめ)山地によって嶺北(れいほく)、嶺南に大別される。嶺北は敦賀(つるが)市を除く越前国の地域、嶺南は敦賀市と若狭国の地域である。両地方は自然的基盤を異にするだけでなく、生活慣習や言語にも明らかな違いがみられる。嶺北が北陸的であるのに比して、嶺南は近畿地方の影響を強く受けている。

 福井県は古来近畿と北陸をつなぐ位置にあり、早くから畿内(きない)の文化の影響を受け、古代には北陸の先進地であり、土地の開拓も進んだ。中世は道元(どうげん)、蓮如(れんにょ)の布教に異色をみせ、とくに蓮如は今日の真宗王国の基を築いた。一方、経済的には日本海側諸地方の産物を京都へ送る中継交易で栄えたが、近世になって西廻(にしまわり)海運の発達で打撃を受けた。新田開発の余地がなかったことも停滞の一因である。明治以降、織物王国となったが、農業県としては後進的であり、とくに土地狭小な嶺南にはみるべき産業がない。近畿・中京に近いことはかえって独自性を失わせている面がある。

 1871年(明治4)の人口は約54万6000人、20年後には61万8000人に増加したが、その後は停滞し、第1回国勢調査時(1920)は59万9000人に減少した。第二次世界大戦後の1950年(昭和25)の人口は75万2000人で、その後減少傾向が続いたが、1975年から増加し始め、2000年(平成12)の人口は82万8944人に達した。人口の多い地域は福井平野で、平野に位置する福井、坂井(さかい)、越前の3市で県総人口の50%を超える。就業者人口では第三次産業が全国平均より低く、後進的色彩をぬぐえない。2020年(令和2)時点で、人口76万6863人、面積4190.52平方キロメートル、9市7郡8町からなる。

[島田正彦・印牧邦雄]

自然

地形

嶺北は飛騨(ひだ)高地西縁の両白(りょうはく)山地が広い面積を占め、九頭竜川(くずりゅうがわ)の谷を境にして北は石川県境の加越山地(かえつさんち)、南は岐阜県境の越美山地(えつみさんち)に分かれる。ともに中生代の地層を主とし、1200メートル前後の定高性を示すが、加越山地は上部に小火山体をのせるものが多く、越美山地は火山を欠くが、断層谷の発達が著しい。両山地の間には大野盆地があって、奥越地方の生活圏の中心となっている。加越山地の経(きょう)ヶ岳(1625メートル)などは白山(はくさん)国立公園の一部に含まれ、また奥越高原県立自然公園に指定されている。西部の日本海沿いには第三紀層の低い丹生山地(にゅうさんち)があり、その東に福井平野が展開する。南北約80キロメートル、東西の最大幅約15キロメートルで、日野川、足羽(あすわ)川など九頭竜水系の河川がつくった沖積平野であり、穀倉地帯をなすとともに県下最大の人間活動の場となっている。平野の北端に加越台地があり、西の三里浜砂丘とともに九頭竜川の排水を妨げ、平野の低地湿地性を強めている。嶺南は本州の折れ曲がる所にあたり、断層が集中して複雑な地形をみせる。柳ヶ瀬(やながせ)・熊川両断層に挟まれた破砕帯はその典型で、それが沈水して若狭湾のリアス海岸となる。背後には野坂山地と丹波(たんば)高地の縁辺が迫り、大きな平野はない。日本海沿岸の北部は越前加賀海岸国定公園、南部は若狭湾国定公園に指定されている。

[島田正彦・印牧邦雄]

気候

嶺北は北陸型の気候に属し、冬季に降水量のピークがある。福井市の年降水量は2238ミリメートルで日本有数。同市の1月平均気温は3.0℃で、富山市より0.3℃以上高く(以上、1981~2010年の平均値)、これが重い湿雪を降らせて思わぬ雪害を生み、年によっては雪とならず、恒久的な対策を遅れさせる原因ともなっている。対馬(つしま)暖流の影響を受ける越前海岸は、冬も温暖でほとんど積雪をみずミカンが栽培されるが、奥越など内陸の山間地は福井市よりも1~2℃低く、積雪も2メートルを超えることがある。嶺南の冬は嶺北よりも温暖で、降雪量も少なく、若狭湾の岬には暖帯林が茂る。1月と並んで6月にも降水量のピークがあり、山陰と同じ特徴を示す。

[島田正彦・印牧邦雄]

歴史

先史・古代

福井県史の黎明(れいめい)は、米ヶ脇遺跡(こめがわきいせき)(坂井(さかい)市三国(みくに)地区)出土の遺物により旧石器時代の狩猟採集生活から始まることがわかる。福井県は本州日本海沿岸部のほぼ中央に位置し、縄文時代を通じて東西文化が接触し、その影響を受けてきた地域であった。県内に最初に弥生(やよい)文化が伝わったのは若狭湾の沿岸部で、日本海ルートによる可能性が強い。しかし、福井平野での米作りは弥生中期のころまで下るようである。稲作農耕が始まるとともに豊作を祈る祭儀が行われるようになった。銅鐸(どうたく)はこの祭儀に使用された青銅器と推定され、本県は銅鐸文化圏の東限にあたっている。県内には3000基以上の古墳があるが、その大半は福井平野を中心とする越前に集まっている。北陸最大級の前方後円墳が含まれており、越(こし)地方を広く支配した大首長の存在を連想させるものがある。若狭にも1000基以上の古墳があるが、越前に比べ前方後円墳の数は少なく、畿内的色彩が濃い。沿岸部からは多数の製塩遺跡が発見され、とくに若狭湾沿いに多く、古墳時代から土器製塩が行われていたことがわかる。『日本書紀』には、武烈(ぶれつ)天皇の死後皇統が絶えようとしたので継体(けいたい)天皇が越前の三国(みくに)から迎えられて皇位を継いだとある。地方豪族が皇位を継いだことは異例だけに学界の注目を浴びている。越前国名の初見は持統(じとう)天皇6年(692)で、当時の越前国には後の加賀や能登(のと)の国が含まれており、広い地域を占めていた。718年(養老2)越前国から羽咋(はくい)などの4郡を割いて能登国が置かれ、越前は角鹿(つぬが)、丹生(にゅう)、足羽(あすわ)、大野、坂井、江沼、加賀の7郡となった。823年(弘仁14)江沼、加賀の2郡を割いて加賀国を設置、同時に丹生郡から今立(いまだて)郡が独立して越前は6郡になった。若狭は遠敷(おにゅう)、三方(みかた)の2郡であったが、825年(天長2)遠敷郡の一部を割いて大飯(おおい)郡が設けられた。

 律令(りつりょう)時代の越前国府は越前(えちぜん)市府中に置かれたと推定され、若狭国府は小浜(おばま)市府中にあった。国分寺は各国府に置かれ、越前国分寺は越前市大虫(おおむし)町に置かれたという説がある。奈良時代には越前は京師の後背地としてきわめて有望視されていた。たとえば、東大寺が大仏造立の経済的基礎を固めるため越前で積極的に荘園(しょうえん)開発を行ったことでも明らかであろう。しかし10世紀の後半には多くの田地が荒廃に帰したようである。越前はまた蝦夷(えぞ)経略や大陸交渉の基地としても利用された。阿倍比羅夫(あべのひらふ)は越地方の海岸沿いに東北に遠征したと思われるし、一方、大陸の渤海(ぼっかい)国からしばしば使節が送られてきたので、敦賀に松原客館が設けられた。

[印牧邦雄]

中世

1183年(寿永2)越前は木曽義仲(きそよしなか)と平氏の戦場となった。鎌倉幕府が成立し、越前、若狭には守護、地頭(じとう)が置かれた。南北朝時代には両国とも宮方(南朝方)と武家方(北朝方)の争いに巻き込まれた。このころ両国には多数の荘園があり、公家(くげ)や社寺の支配を受けていた。越前の興福寺兼春日(かすが)社領河口荘・坪江荘(つぼえのしょう)(坂井市)、若狭の東寺領太良荘(たらのしょう)(小浜市)が有名である。

 1243年(寛元1)越前の志比(しい)荘(吉田郡)に入った道元は永平寺(えいへいじ)を建てた。また1471年(文明3)越前入りした本願寺8世蓮如(れんにょ)は吉崎御坊(よしざきごぼう)(あわら市)を拠点に布教活動をし、越前は真宗本願寺教団(一向(いっこう)宗)の教線が著しく伸び、のちに北陸各地で起きた一向一揆(いっき)の母体となった。南北朝時代に但馬(たじま)(兵庫県)から越前に入った朝倉氏は、応仁(おうにん)の乱(1467~1477)のとき、孝景(たかかげ)が主家の斯波(しば)氏から守護職を奪い、越前を支配した。孝景は一乗谷(いちじょうだに)(福井市)に居館を構え、以後一乗谷は約1世紀にわたって越前の政治、文化の中心として光彩を放った。朝倉氏遺跡は、1967年(昭和42)からの発掘調査により中世城下町の貴重な遺跡、遺物が明らかになり、特別史跡に指定されている。1573年(天正1)朝倉氏は織田信長に滅ぼされ、一向一揆も平定され、越前は柴田勝家(しばたかついえ)の治下となった。勝家は北庄(きたのしょう)(福井市)に城を構えたが、1583年には羽柴秀吉(はしばひでよし)に敗れ自刃した。

[印牧邦雄]

近世

関ヶ原の戦い後、徳川家康の二男結城(ゆうき)(松平)秀康(ひでやす)が越前国68万石に封ぜられ、1601年(慶長6)に入部したが、2代忠直以後たびたび改易処分を受け、松平氏福井藩は石高(こくだか)が半減した。幕末の1838年(天保9)16代藩主となった松平慶永(よしなが)(松平春嶽(しゅんがく))は藩政の危機を打開するため積極的に人材を登用した。横井小楠(しょうなん)、橋本左内(さない)、三岡石五郎(由利公正(ゆりきみまさ))らである。幕末の福井藩は公武合体雄藩として当時の中央政界に雄飛した。

 越前には、このほか江戸中期に有馬氏丸岡(まるおか)藩4万6000石、土井氏大野藩4万石、小笠原(おがさわら)氏勝山藩2万2000石余、間部(まなべ)氏鯖江(さばえ)藩4万石、酒井氏敦賀(鞠山(まりやま))藩1万石の諸藩があり、また天領、旗本領もあった。一方、若狭では1600年(慶長5)京極(きょうごく)高次が8万5000石で小浜に入封したが、1634年松江に移封、以後酒井氏小浜藩11万3000石余で明治に至った。

[印牧邦雄]

近・現代

1871年(明治4)の廃藩置県で福井、丸岡、大野、勝山、鯖江、小浜の6県が成立したが、同年11月には福井、敦賀の2県に統合された。1873年福井県(のち足羽県)は敦賀県と合併、越前、若狭は1行政区に統合された。1876年敦賀県を廃し、嶺北7郡は石川県に、嶺南4郡は滋賀県に分割、1881年になってようやく嶺北、嶺南11郡が統合しほぼ現在の福井県が成立した。1889年市町村制実施で県内は1市9町168村となった。

 明治初期、新政府の神仏分離政策に反対して大野、今立、坂井の3郡で参加者3万数千という大規模な一揆が起こった。一揆は政府の新暦採用、断髪令などにも反対する意味合いをもっていた。一揆は死刑6名の犠牲を出して鎮圧されたが、さらに1876年には地租改正に反対する運動が起こった。しかし一揆には発展しなかったことは注目される。

 明治時代、福井は織物王国といわれたが、福井はもともと織物業地、生糸産地として知られた地ではなく、欧米視察から帰国した由利公正が、絹織物業をおこすことを蚕業家酒井功らに勧告したことに始まる。やがて織工会社がつくられ、1892年ころから福井県特産の羽二重(はぶたえ)織物の生産が活発になった。大正初期には力織機(りきしょっき)の使用で福井機業の地位は確固たるものとなった。明治末期、敦賀港は三国(みくに)港の衰微とは反対に対外貿易港として発展し、敦賀―ウラジオストク間、敦賀―清津間の航路も開かれた。

 第二次世界大戦の末期、福井市、敦賀市は空襲により大きな被害を受け、大戦後の1948年の福井地震は当時の福井市、坂井郡、吉田郡などの地域に甚大な損害を与えた。

[印牧邦雄]

産業

農林業

県の農業は稲作が中心で、2015年(平成27)の世界農林業センサスによると、経営耕地面積4万0600ヘクタールのうち水田が90%を超える。米単作地であるが、これは排水不良の沖積低地が広く、積雪のため裏作に不向きなことによる。明治初期には低地でも旧河道や自然堤防の砂地で自給用の畑作がかなり行われており、単作化は自給をやめて米の商品化を進めた結果でもある。早場米も同じで、元来、秋の冷湿を避けて早生(わせ)種を栽培していたが、関西市場での西南暖地の良質米との競合を避け、端境期に出荷するためしだいに収穫期を早めたのである。近年は品種改良が著しく、コシヒカリは福井県農業試験場の産物であり、さらに倒伏と病害に強いフクホナミを生んだ。減反下に飼料米栽培に熱心なのも農民の米への強い執着を示す。1950年代後半から米作の機械化が進むとともに農家の兼業化が急速に進んだ。2015年時点では、総農家2万2872戸のうち自営農業を従とする第2種兼業農家は1万1542戸で約50%を占める。会社員、パートなど、勤めに出、田植は5月の連休、刈り入れはお盆休みという農家が一般化し、米作は休日農業化した。暗渠(あんきょ)排水などにより湿田が乾田化し、機械化を可能にしたが、それが農業の周年化とならず、労働力の農業以外への流出となった。加越台地の野菜・果樹栽培や酪農、三里浜砂丘のラッキョウ・スイカ栽培、三方(みかた)五湖周辺のウメ・ブドウ栽培などがみられるが、いずれも小規模で、かつて全国的に知られたラッキョウ栽培も福井臨海工業用地の造成で減少した。牧畜は不振であるが、奥越の大野市六呂師(ろくろし)高原に奥越高原牧場があり、若狭(わかさ)町に若狭牛の復活を目ざす嶺南牧場がある。

 山林はかつて焼畑慣行のあった共有林野が広く、雑木を薪炭に利用してきた。第二次世界大戦後、越美山地の池田町、福井市美山町地区を中心に杉の植林が進んだが、原価が高いため伐採期を前に需要がなく、労力不足で管理も十分に行われない現状である。越前市味真野(あじまの)はスギ苗、大野市朝日地区とおおい町名田庄(なたしょう)地区は薬用のオウレンを特産する。

[島田正彦・印牧邦雄]

水産業

若狭湾は中世に延縄(はえなわ)漁が行われた漁業先進地で、漁獲されたカレイは塩蒸しして京都に送られ蒸し鰈(がれい)として珍重された。明治末にブリ定置網が導入され、丹生(にゅう)、日向(ひるが)、常神(つねがみ)などの好漁場がある。また小浜はアメリカ式巾着(きんちゃく)網を日本で最初に操業し、サバ漁が盛んであったが、現在は行われていない。波静かな湾奥ではハマチ、フグの蓄養やガザミ、真珠の養殖が盛んである。嶺北は海岸線が単調で、漁業はあまり振るわない。大正期に機船底引網が導入されエチゼンガニの漁獲で知られ、昭和40年代に一時沖合イカ釣りが盛んになった。三国(みくに)港と越前町四ヶ浦(しかうら)が主要な漁港である。しかし、乱獲でカニは絶滅のおそれがあり、それにかわるアマエビも不安がある。

[島田正彦・印牧邦雄]

鉱工業

県下で唯一重要だった鉛・亜鉛の中竜鉱山(なかたつこうざん)は1987年(昭和62)に閉山。南越前(みなみえちぜん)町では珪石(けいせき)の産出がある。工業は明治以降、織物王国として知られる。西陣、桐生(きりゅう)から技術導入した羽二重(はぶたえ)に始まり、世界恐慌期に人絹、昭和30年代に合繊とかわったが、豊富な労働力を基盤にして、輸出向けに発展した。近年は開発途上国の追いあげで構造的不況に陥り、織機の廃棄や生産制限にもかかわらず、前途は明るくない。業者の多くは原糸メーカーや大手商社の系列に組み込まれ、織工賃のみを稼ぐが、不況下でもつねに設備の更新を迫られている。一方、高能率のジェット織機によって一部製品は生産過剰を生じている。染色・整理加工部門と商社機能は福井市に集中するが、製織は嶺北に広く分布し、農村にも零細工場があって、米の単作地にかつて広くみられたさまざまの農産加工が形を変えたことを示している。勝山市は明治中期のたばこ専売制実施で刻みたばこから機業に転じ、比較的規模の大きい工場があって福井市に次ぐ中心地となり、坂井(さかい)市、永平寺(えいへいじ)町、越前市ではリボン・マークなど小幅もの織物を生産する。大正期から盛んとなった鯖江(さばえ)市の眼鏡枠工業は全国の約90%を生産し、海外にも販路を広げるが、安い労賃に頼る零細手工業の本質は変わらない。工業団地もあるが、大半は家内工場で生産される。近年嶺北の各地や小浜市周辺に進出した電気機器や縫製業の工場も農村の余剰労働力を利用するものである。伝統工業には越前市(旧、武生(たけふ)市)の打刃物、鯖江市河和田(かわだ)の越前漆器と小浜市の若狭塗、越前市粟田部(あわたべ)の和紙がある。なかでも和紙はかつて奉書紙で知られたが、溜(た)め漉(ず)きの技法による局紙(きょくし)や襖(ふすま)紙、美術小間(こま)紙に新境地を開き、越前紙として全国に独特の地位を占める。

 重工業は著しく立ち後れ、織物関連の化学・機械を除くと、大正期に余剰電力を利用した越前市(旧、武生市)の化学肥料・冶金(やきん)と第二次世界大戦後の塩化ビニル、あわら市(旧、金津(かなづ)町)の製紙、敦賀市のセメント・合板などの工業がみられるにすぎない。県は重化学工業を誘致して経済基盤の強化を図るため、1971年(昭和46)三里浜に掘込みの福井新港と臨海工業用地を造成したが、経済環境の悪化で企業の立地は進まず、基幹工場となるはずだったアルミ精錬は二次加工に縮小された。苦境打開のため、県は未造成の最南部に国の石油備蓄基地を受け入れ、1986年に基地は完成したが、地元経済への波及効果は期待できず、公害の危険と起債の借財だけを背負わねばならなくなった。

[島田正彦・印牧邦雄]

開発

嶺北では1955年に真名(まな)川総合開発、1965年に九頭竜川電源開発工事に着手した。多目的ダム築造が中心の第二次世界大戦後の開発第一期の型である。

 若狭湾沿岸では1970年日本原子力発電敦賀発電所が運転を開始。続いて関西電力の美浜、高浜、大飯(おおい)の各原子力発電所が建設され、さらに1991年(平成3)には敦賀市白木(しらき)に動力炉・核燃料開発事業団(動燃)の高速増殖炉もんじゅ」が建設された(動燃は1998年9月に解団し、同年10月より核燃料サイクル開発機構に継承。核燃料サイクル開発機構は2005年10月に日本原子力研究所と統合し、日本原子力研究開発機構となった)。「もんじゅ」は試運転中の1995年に起きたナトリウム漏れ事故や2010年(平成22)に起きた炉内中継装置の落下事故により運転を停止していたが、政府は2016年12月に廃炉を正式に決定した(廃炉作業は2018年3月から開始)。2023年(令和5)8月時点で、原子力発電所は8基が立地し、原発密集地ともいえる。この状況は、需要地の関西に近く、花崗(かこう)岩の固い岩盤と冷却用に海水を利用できるという立地条件によるが、陸の孤島であった半島の住民が道路敷設などの見返りに開発を受け入れたからでもある。しかし、生活条件は改善されず、美浜原子力発電所での緊急炉心冷却装置が作動する重大事故(1991)など、放射能漏れの不安にさらされている。

 1971年に着工した三里浜の福井臨海工業地帯は、港湾を整備して重化学工業を誘致する開発第二期の型で、名古屋港に始まり、富山・金沢新港も同類型である。福井新港、工業用地ともほぼ完成した。しかしその後、この臨海工業地帯開発計画は経済状況の変化などによる見直しが行われ、重化学工業から先端科学技術を中心とする「テクノポート福井」としての開発に変更された。

[島田正彦・印牧邦雄]

交通

嶺北、嶺南をそれぞれ縦貫するJR北陸本線と国道8号、小浜線(おばません)と国道27号が陸上交通の幹線である。国道8号、27号はかつての北陸道、丹後(たんご)街道に相当する。北陸自動車道(米原(まいばら)―福井―新潟)も通じ、1980年名神高速道と結ばれ本格的な高速道時代に入った。2014年(平成26)には舞鶴若狭自動車道が全線開通した。ほかに嶺北の海岸を縦貫する国道305号、嶺北を横断するJR越美(えつみ)北線と国道158号、大野市から勝山市を経て石川県へ至る国道157号、若狭町から滋賀県高島市に至る国道303号も重要であり、303号はかつての九里半(くりはん)越えである。また、福井市と越前市間を福井鉄道福武線、福井市と坂井市間および勝山市間をえちぜん鉄道が結ぶ。福井空港は1966年開港したが1976年以降、航空会社の定期便の就航はない。航空交通は石川県の小松(こまつ)空港に依存している。海運は近年に進展をみせ、高速フェリーによって敦賀と新潟、秋田、苫小牧(とまこまい)間を結んでいる。

[島田正彦・印牧邦雄]

社会・文化

教育文化

江戸時代後半、越前、若狭の諸藩は相次いで藩校を開き子弟の教育に力を注いだ。1774年(安永3)小浜藩の順造館をはじめ、19世紀に入って丸岡藩の平章(へいしょう)館、鯖江藩の進徳館、福井藩の正義堂、勝山藩の成器(せいき)堂、大野藩の明倫(めいりん)館などが続いた。儒学が中心であったが、丸岡藩は蘭学(らんがく)者桂川甫周(かつらがわほしゅう)を招き、福井藩も藩校を拡充して明道館と改め、適塾や長崎に学んだ橋本左内を学監にし、暦学、医学、蘭学を加え、さらに洋書習学所を設立した。大野藩も蘭学所を設け、適塾から伊藤慎蔵(しんぞう)を招き、学生は全国から集まった。『海上砲術全書』『英吉利(イギリス)文典』などの翻訳出版は小藩の文化事業として特筆される。内山良休(りょうきゅう)・隆佐(りゅうさ)兄弟と藩船大野丸による奥蝦夷(えぞ)(サガレン)開拓もこの進取の精神につながる。1754年(宝暦4)山脇東洋(やまわきとうよう)の人体解剖は、当時の京都所司代小浜藩主酒井忠用(ただもち)の後ろ盾による。『解体新書』翻訳の中心となった杉田玄白(げんぱく)、中川淳庵(じゅんあん)は小浜藩医、北陸に種痘を広めた笠原白翁(かさはらはくおう)は福井藩医であった。国学者の小浜藩士伴信友(ばんのぶとも)、福井の町人歌人橘曙覧(たちばなあけみ)も見逃せない。明治以降これらの伝統は十分に受け継がれず、高等教育機関は福井師範、鯖江女子師範と福井工業専門学校が設けられたにすぎない。それを継いだ福井大学も教育・工学部のみであったが、1980年(昭和55)に国立福井医科大学が開校された。福井医科大学は2003年(平成15)福井大学と統合、福井大学に医学部が設置された。ほかに福井県立大学、敦賀市立看護大学、私立福井工業大学、私立仁愛大学、私立福井医療大学、高等専門学校1校がある(2018)。

 新聞は旧福井藩士富田厚積の『撮要(さつよう)新聞』(1872刊)を最初に、『福井新聞』『越陽(えつよう)絵入新聞』『北陸自由新聞』が明治初期に創刊されたがいずれも短命に終わった。現在は1899年(明治32)創刊の『福井新聞』と『日刊県民福井』がある。放送はNHK福井放送局、福井放送、福井テレビ、福井エフエム放送、福井街角放送(Radioあいらんど)、たんなん夢レディオ、敦賀FM放送などがある(2018)。

[島田正彦・印牧邦雄]

生活文化

話しことばの違いにみられるように、より北陸的な嶺北と、近畿に近い嶺南では、生活文化を異にする場合がある。嶺南は伝承民俗の宝庫で、さまざまの伝統行事があるが、なかでも若狭は壬生(みぶ)狂言、六斎(ろくさい)念仏、地蔵盆など京都の影響が強い。敦賀市は若狭、嶺北のいずれにも共通する要素があり、嶺南のなかではやや趣(おもむき)を異にする。たとえば、同市砂流(すながれ)高岡神社の槻(つき)の木に注連縄(しめなわ)を張る勧請吊(かんじょうつる)しの行事と同じものが若狭各地にあり、同市沓(くつ)のじゅずくりは南条郡南越前町にもある。真宗信仰の盛んな嶺北は民俗行事に乏しいが、北陸や東北地方の日本海側と通じるものが所々に残る。たとえば、福井市白浜町では節分の晩に鬼の面を着けたアマメンが現れるが、これは能登(のと)のアマメハギ、秋田県男鹿(おが)のなまはげと同じである。また、越前(えちぜん)市余田(はぐり)町では田の神の祭りをアイノコトとよぶが、能登ではアエノコトという。

 以下、地域別に年中行事を追っていくと、嶺北各地の正月は、大正末まで越前万歳の門付(かどづけ)で明けた。江戸時代にも、元旦(がんたん)には各藩の大手門はこの万歳で開かれたという。いまに残る越前市の越前万歳(野大坪(のおおつぼ)万歳)は国の重要無形民俗文化財である。勝山市では1月末に年(とし)の市、2月末に左義長(さぎちょう)がある。4年目ごとの2月14日、福井市清水(しみず)地区賀茂(かも)神社で行われる睦月(むつき)神事(国の重要無形民俗文化財)は豊作祈願の予祝行事。同15日、池田町水海(みずうみ)の鵜甘(うかん)神社に奉納される田楽(でんがく)能舞(国の重要無形民俗文化財)は中世の田楽・猿楽(さるがく)の風を伝える。諸国巡回の途中、雪に閉じ込められた北条時頼(ときより)を慰めるため、里人が田楽を舞い、お返しに能を習ったと伝える。偶数年の4月18日に行われる福井市の仏の舞「糸崎の仏舞(ほとけのまい)」(国の重要無形民俗文化財)は長男の青年8人が仏の面を着けて舞うもの。4月23日から5月2日は蓮如(れんにょ)忌である。京都の東本願寺から蓮如の御影(ごえい)が旧北陸道を通って、23日の夕方吉崎へ到着する。5月初め、福井市では佐佳伎廼(さかえの)社・神明神社と春祭が続き、19~21日は坂井(さかい)市三国(みくに)神社の祭礼(三国祭)である。同社は継体(けいたい)天皇らを祀(まつ)る。継体天皇は越前では男大迹尊(おおどのみこと)として知られ、足羽山(あすわやま)の笏谷石(しゃくだにいし)の採取や越前和紙・漆器などを始めたと伝える。祭りは、港町の繁栄を伝える武者人形の山車(だし)が呼び物となり、北陸三大祭の一つに数えられる。お盆には各地に種々の踊りが伝わる。南越前町の羽根曽(はねそ)踊、福井市白山(はくさん)神社や大野市上打波(かみうちなみ)のかんこ踊(神子(かんこ)踊)、西谷(にしたに)の平家踊などである。廃村となった上打波、西谷の人々は移住先の大野市街で踊り継ぐ。秋祭は9月14日の坂井市布久溜(ふくる)神社の「表児の米(ひょうこのこめ)」、10月9日の越前町織田(おた)の越前二宮劔(にのみやつるぎ)神社の明神囃子(ばやし)が代表である。

 嶺南では正月15日各地で豊凶を占う綱引きが行われる。敦賀市相生(あいおい)町の「敦賀西町の綱引き」行事は国指定重要無形民俗文化財。美浜町日向(ひるが)では、日向湖と海を結ぶ水路に渡した太い藁(わら)綱を裸の若者が争う水中綱切りとなる。2月の旧正月には敦賀市野坂神社でお田植神事のダノセ祭があり、同市高野では青竹の弓で矢を射て悪魔を払い、五穀豊穣(ほうじょう)を祈る「毘沙講(びしゃこう)」がある。3月2日は若狭に春をよぶ小浜市神宮寺のお水送りが行われる。遠敷(おにゅう)川の鵜の瀬(うのせ)に香水を注ぎ、それが地下を通って奈良東大寺二月堂に着くと信じられている。4月から5月にかけて若狭湾一帯では悪魔払いの「王の舞」がみられる。4月8日、若狭町宇波西(うわせ)神社では素襖(すおう)姿に鼻高朱面、鳥甲(とりのかぶと)を着け、鉾(ほこ)を手にして舞う。舞人を突き倒すと豊作・豊漁だといい、警護の目をかすめて他村の者が襲いかかる。同町国津(くにつ)神社、闇見(くらみ)神社、美浜町弥美(みみ)神社の祭りにも行われ、由来は不明ながら宮中の舞楽の原型ともいわれる。4月3日の小浜市矢代(やしろ)の手杵祭(てぎねまつり)は漂着した唐船の姫と女官を住民が殺したが、その霊を慰めるものという。豊作の予祝と雛(ひな)祭が重なったものらしい。6月には各地にお田植祭がある。7月22日敦賀市気比神宮(けひじんぐう)の総参(そうのまい)りには対岸約5キロメートルの常宮(じょうぐう)神社へ神輿(みこし)が渡御する。神功(じんぐう)皇后の朝鮮遠征の故事にちなみ、海上安全と豊漁を祈る。8月のお盆には各地で六斎念仏が盛んに行われ、同23日は小浜市を中心とする地蔵盆で、子どもたちが「お地蔵さん」にお供え物をし、通行人にも参拝を強要する。小浜市西津では子どもたちが絵の具などで「お地蔵さん」を美しく塗り上げ、化粧地蔵とよぶ。9月2日~15日と長い気比神宮の例祭は長祭とよばれる。10月20日の敦賀市金崎(かねがさき)宮の例祭はお船遊び管絃(かんげん)祭で、新田義貞(にったよしさだ)らが尊良(たかなが)親王を慰めた故事によるという。12月2日、敦賀市曽々木(そそぎ)で霜月(しもつき)祭がある。「おんばさん」とよばれる少女が2人、笙(しょう)ノ川で禊(みそぎ)をし、新米の白蒸しや小豆(あずき)を入れたハンギリを頭にのせ若宮八幡宮(はちまんぐう)に供える。同9日、同市赤崎で山の神講がある。新築した家が講宿になり、小学生の男子がパンツ1枚で裏山の大日堂に駆け登り、ツトを供え、シトキを顔や体に塗って引き揚げてくる。

[島田正彦・印牧邦雄]

文化財

嶺南の小浜市は「海のある奈良」と称され、古代から中世にわたる文化財を集める。国指定重要文化財を中心に列挙していくと、仏像では正林(しょうりん)庵の如意輪観音半跏(はんか)像(白鳳(はくほう)期)、多田寺の薬師如来立像(奈良時代~平安初期)、羽賀(はが)寺の十一面観音立像(平安初期)、妙楽(みょうらく)寺の千手観音立像(平安中期)、明通(みょうつう)寺の薬師如来坐像(ざぞう)(平安後期)、蓮華(れんげ)寺の薬師如来立像(鎌倉時代)があり、建築物では国宝の明通寺本堂・三重塔(鎌倉時代)のほか、妙楽寺本堂(鎌倉時代)、羽賀寺本堂(室町時代)など、絵画では万徳(まんとく)寺と長源(ちょうげん)寺の弥勒菩薩(みろくぼさつ)像(鎌倉時代)、書では高成(こうじょう)寺の印可状(南北朝時代)と履践(りせん)集(室町初期)などがある。おおい町意足(いそく)寺の千手観音立像(平安後期)、若狭町安楽寺の聖観音立像(平安後期)、高浜町中山(なかやま)寺の本堂(室町初期)なども優品である。敦賀市では気比神宮大鳥居(1645年建立)、西福(さいふく)寺観経変相曼荼羅(まんだら)(鎌倉中期)、高麗末期の主夜神像などを伝える。常宮(じょうぐう)神社には太和7年(833)銘の朝鮮鐘(国宝)がある。豊臣秀吉(とよとみひでよし)出兵のときの戦利品である。

 嶺北では永平寺が文化財の宝庫であり、道元自筆の普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)、附普勧坐禅儀撰述記(せんじゅつき)(国宝)のほか、後円融(ごえんゆう)院宸翰(しんかん)、高祖嗣書(ししょ)などがある。坂井(さかい)市には瀧谷寺(たきだんじ)に金銅宝相華唐草文磬(ほうそうげからくさもんけい)(国宝、平安末期)、地蔵菩薩画像(鎌倉時代)、鎮守堂(室町時代)、性海(しょうかい)寺に地蔵菩薩画像(鎌倉時代)などがある。越前町の劔(つるぎ)神社には神護景雲(じんごけいうん)4年(770)銘の梵鐘(ぼんしょう)(国宝)、同町の大谷(おおたん)寺は不動明王立像(平安後期)、元亨(げんこう)3年(1323)銘の石造九重塔を残す。福井市は安養(あんよう)寺に阿弥陀(あみだ)如来二十五菩薩来迎(らいごう)図(平安末期)、藤島神社に新田義貞着用と伝える鉄製銀象眼冑(ぞうがんかぶと)、心月(しんげつ)寺に朝倉孝景(たかかげ)・義景(よしかげ)画像など、浄得寺に世界及日本図屏風(びょうぶ)(桃山時代)などがある。また坂井市にある桃山時代の建造物丸岡城天守(1576年築造)、江戸時代の民家建築に奥越の池田町の農家堀口家住宅、越前町では朝倉氏の一族で庄屋を務めた相木(あいき)家住宅が国の重要文化財に指定されている。

 国指定史跡には特別史跡の一乗谷朝倉氏遺跡のほか、若狭町の西塚古墳、上ノ塚(じょうのづか)古墳など、小浜市の若狭国分寺跡、南北朝時代の敦賀市の金ヶ崎城跡、南越前町の杣山(そまやま)城跡、勝山市の白山平泉寺旧境内、あわら市の吉崎御坊跡などがある。また、国指定名勝には勝山市の旧玄成院(げんじょういん)庭園、坂井市の滝谷寺庭園、敦賀市の柴田氏庭園(甘棠(かんどう)園)、小浜市の萬徳寺庭園などがある。また1991年(平成3)に一乗谷朝倉氏遺跡内の庭園が国指定特別名勝に指定されている。

[島田正彦・印牧邦雄]

伝説

福井市足羽(あすわ)山の足羽神社の主神は26代の「継体(けいたい)天皇」である。25代の武烈(ぶれつ)天皇は先帝の后(きさき)に懸想したが、后が意に従わないので「うつぼ舟」に乗せて海へ流した。越前に流れ着いた后は御子を生んだ。その御子が継体天皇だと『劔(つるぎ)神社盛衰記』に記されている。北庄(きたのしょう)城で柴田勝家(しばたかついえ)が自刃したのは1583年(天正11)4月24日である。命日の夜、大橋から毛矢町まで勝家らの首のない行列が通り、その行列を見た者は死ぬといわれ、住民は戸締りを厳重にして外出しなかったという。福井2代藩主松平忠直(ただなお)は一国にもかえがたい美しい女を得た。「一国女(いっこくじょ)」と名づけたが、女は残虐なことを好み、忠直に1万余の人を殺させた。そのことが公儀の知るところとなり忠直は豊後(ぶんご)に配流、一国女は処刑されたと『続片聾(しょくへんろう)記』は記している。「八百比丘尼(はっぴゃくびくに)」の伝説は若狭(わかさ)を中心に全国にわたっている。小浜(おばま)市男山の空印(くういん)寺の境内に八百比丘尼入定洞(にゅうじょうどう)という洞窟(どうくつ)がある。老尼は少女のころ、人魚の肉を食べたので長寿を保ち容色が衰えなかったという。諸国遊行ののち尼僧は小浜に帰り、食を断って死んだ。生前、ツバキの花を愛したので玉椿(たまつばき)姫といわれたという。八百比丘尼の伝説は、ツバキの枝を手に持つ熊野比丘尼の語部(かたりべ)が諸国へ伝えたものであろう。景勝地「東尋坊(とうじんぼう)」には、平泉寺の悪僧が仲間の僧に突き落とされたという伝説がある。東尋坊という地名はその悪僧にちなんだものという。悪僧の命日には海が荒れ、漁師は舟を出さないという。永平寺山内に「血脈(けちみゃく)池」がある。地頭(じとう)波多野(はたの)義重の愛妾(あいしょう)が本妻のねたみを受け、この池に落とされて殺された。愛妾おきちが亡霊となって祟(たた)りをするが、道元がこれを哀れみ、血脈を池に投げ入れて供養したという。港町三国(みくに)の西光寺に「三国小女郎(こじょろう)」の墓がある。「酒は酒屋で、濃い茶は茶屋で、三国小女郎は松の下」の三国節で知られている小女郎は、江戸初期の名妓(めいぎ)だった。遊女の身で親の仇(あだ)を討ち取って勇名を天下に響かせたという。

[武田静澄]

『『福井県史』全4冊(1920~1922・福井県)』『『福井県繊維産業史』(1971・福井県繊維協会)』『印牧邦雄著『福井県の歴史』(1973・山川出版社)』『杉原丈夫編『越前若狭の伝説』(1976・安田書店)』『斎藤槻堂著『越前若狭の民俗事典』(1981・銀泉書店)』『『日本歴史地名大系18 福井県の地名』(1981・平凡社)』『『角川日本地名大辞典18 福井県』(1989・角川書店)』『『福井県大百科事典』(1991・福井新聞社)』『島田正彦編『にっぽん再発見18 福井県』(1997・同朋舎)』『松原信之編『福井県の不思議事典』(2000・新人物往来社)』


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