福岡藩(読み)ふくおかはん

改訂新版 世界大百科事典 「福岡藩」の意味・わかりやすい解説

福岡藩 (ふくおかはん)

筑前国福岡県)福岡に藩庁を置いた外様大藩。1587年(天正15)小早川隆景が筑前一国および筑後2郡,肥前2郡,高30万石余を与えられ,粕屋郡名島に居城を定めたのが始まりである。98年(慶長3)秀秋が越前国北ノ庄に移され,筑前は豊臣秀吉直轄領(太閤蔵入地)となったが,99年には再び秀秋が復帰した。関ヶ原の戦(1600)の後,秀秋の岡山移封のあとをうけて豊前国中津の黒田長政が怡土(いと)郡の西半分を除くほぼ筑前一国を与えられて入部した。

 長政は名島城を廃し新しい城地を博多の西隣,那珂郡警固(けご)村の内に定め,福岡と名づけた。長政は1602年より領内総検地を実施し,表高を50万2000石(内高56万6000石)とした。そして播磨時代以来の大譜代を6端城の城主に任命し,また郡奉行として農政を担当させ,07年に〈国中掟〉を公布して農政の大綱を示した。これと並行して城下町福岡の建設と中世以来の貿易都市としての伝統を持つ博多の支配の強化もはかった。23年(元和9)長政の跡を継いだ忠之は弟長興に5万石,同じく高政に4万石を分け与え,秋月および東蓮寺(1675年直方(のうかた)と改名)の2支藩を成立させた。直方藩は77年(延宝5)に藩主長寛が本藩の嗣子に迎えられていったん廃止されたが,88年(元禄1)長清が5万石を与えられ復活し,1720年(享保5)まで存続した。忠之は大譜代を始めとする家臣を統制して藩主権力を強化した。1632年(寛永9)の黒田騒動はこのような忠之の施策を背景としている。38年島原の乱に派兵,41年より佐賀藩とともに長崎警衛を担当した。17世紀後半,文治政治が展開され,儒学者,博物学者である貝原益軒や《農業全書》の著者宮崎安貞を生んだ。18世紀以降は他藩の例に漏れず社会秩序の変化にともなって財政が著しく窮乏した。これに対して用心除銀,村救銀の設置などで農村の復興をはかり,また藩札発行,櫨蠟(はぜろう)・石炭の専売制の実施で財政収入の増加をねらうなど,しばしば藩政改革を試みた。しかしついに藩政を立て直すには至らなかった。

 幕末,藩主長溥(ながひろ)は佐幕の立場をとったが,月形洗蔵らの勤王派が台頭し,とくに第1次長州戦争以後,藩内の主導権を握るに至った。そこで長溥は勤王派の弾圧を決意し,1865年(慶応1)月形ら14名を斬首したほか勤王派全員の処分を断行した(乙丑(いつちゆう)の獄)。この結果,福岡藩は佐幕的立場を守ったまま明治維新を迎えることになった。江戸後期,徂徠学の亀井南冥・昭陽父子,国学の青柳種信らの学者が輩出したが,藩主斉隆,長溥は洋学に理解を示し青木興勝,武谷元立らの洋学者を生んだ。68年(明治1)戊辰戦争が起こると政府の要請に従って出兵したが,70年にその戦費捻出のための贋札発行が露顕し,藩知事黒田長知は罷免され,有栖川宮熾仁(たるひと)親王が藩知事に任じられた。71年7月廃藩置県があり,福岡県となった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「福岡藩」の意味・わかりやすい解説

福岡藩
ふくおかはん

筑前(ちくぜん)国那珂(なか)郡福岡(福岡市)に藩庁を置いた藩。別称筑前藩。藩主黒田氏。外様(とざま)。豊臣(とよとみ)秀吉の九州平定後、小早川隆景(こばやかわたかかげ)が筑前一国および筑後2郡、肥前2郡を与えられ、粕屋(かすや)郡名島に入封。1600年(慶長5)小早川氏は関ヶ原の戦いの戦功によって備前(びぜん)岡山に移り、そのあと豊前(ぶぜん)中津の黒田長政(ながまさ)が怡土(いと)郡の一部を除く筑前一国を与えられて名島に入り、翌年福岡に城を築いてここに移った。1623年(元和9)長政の死後、秋月、東蓮寺(とうれんじ)(のち直方(のおがた))の両支藩を分封。東蓮寺藩は1677年(延宝5)廃藩となったが、秋月藩は廃藩置県まで存続した。東蓮寺藩廃藩後の領知高は47万3000石(秋月藩5万石)。1688年(元禄1)新田5万石を分与してふたたび直方藩を立てたが、1720年(享保5)廃藩。長政のあと忠之(ただゆき)、光之、綱政(つなまさ)、宣政(のぶまさ)、継高、治之(はるゆき)、治高、斉隆(なりたか)、斉清、長溥(ながひろ)、長知(ながとも)と12代続いた。1632年(寛永9)忠之のとき黒田騒動が発生。1641年以後、佐賀藩とともに1年交替で長崎警備を担当した。享保(きょうほう)の大飢饉(ききん)(1732)後、家老の吉田栄年(まさとし)・保年を中心に藩政改革を実施。1784年(天明4)には藩校修猷館(しゅうゆうかん)(東学問所)、甘棠館(かんとうかん)(西学問所)が創立された。1834年(天保5)には眼医白水養禎(ようてい)を登用して天保(てんぽう)の改革を実施したが、失敗に終わっている。1865年(慶応1)長溥は加藤司書ら勤王派を弾圧、以後佐幕的立場をとり明治維新を迎えた。1871年(明治4)7月長知は贋札(にせさつ)事件の責任を問われ、全国的な廃藩置県に先だって藩知事を罷免され、有栖川宮(ありすがわのみや)熾仁(たるひと)親王が藩知事となり、同月廃藩置県によって福岡県となった。

[柴多一雄]

『『新編物語藩史 第11巻』(1975・新人物往来社)』

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藩名・旧国名がわかる事典 「福岡藩」の解説

ふくおかはん【福岡藩】

江戸時代筑前(ちくぜん)国那珂(なか)郡福岡(現、福岡県福岡市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は修猷館(しゅうゆうかん)、甘棠館(かんとうかん)。小早川氏による領有のあと、1600年(慶長(けいちょう)5)、黒田長政(ながまさ)関ヶ原の戦いの戦功により、ほぼ筑前1国を与えられて豊前(ぶぜん)国中津から入封(にゅうほう)して立藩。長政は手狭だった名島(なじま)城を廃して福岡城を築城し、検地を行って表高(おもてだか)50万2000石(内高56万6000石)とした。23年(元和(げんな)9)、2代藩主忠之(ただゆき)が父の長政の遺言により、弟の長興(ながおき)に5万石、高政(たかまさ)に4万石を分与、これにより秋月(あきづき)藩と東蓮寺(とうれんじ)藩(のち直方(のおがた)藩)の2支藩が成立した。32(寛永(かんえい)9)に家老栗山大膳が藩主忠之を訴えた黒田騒動とよばれる御家騒動が起きた。38年島原の乱に派兵、42年からは佐賀藩とともに長崎警備の幕命を受けた。黒田氏による支配は明治維新まで12代続き、幕末には佐幕派の立場をとり、藩内の勤王派を弾圧した。貝原益軒(かいばらえきけん)、国学の青柳種信(あおやぎたねのぶ)、洋学の青木興勝(あおきおきかつ)らを輩出。1871年(明治4)、戊辰(ぼしん)戦争出兵のために発行した贋札(にせさつ)事件が発覚して藩知事が罷免され、代わって有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王が藩知事に任命された。同年の廃藩置県により福岡県となった。◇筑前藩、黒田藩ともいう。

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百科事典マイペディア 「福岡藩」の意味・わかりやすい解説

福岡藩【ふくおかはん】

筑前(ちくぜん)国福岡に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩主は1600年入封した黒田長政(ながまさ)以来黒田氏が在封。1632年2代藩主をめぐる御家騒動の〈黒田騒動〉が起きた。17世紀後半からの文治政治をうけ,儒学者貝原益軒(かいばらえきけん),《農業全書》の著者宮崎安貞(やすさだ)を生んだ。幕末,藩主は佐幕の立場をとり,勤王派の月形洗蔵(つきがたせんぞう)等を処断した。福岡城跡の内城地区は国指定史跡,南の丸多聞櫓は重要文化財。
→関連項目黒田騒動修猷館筑前国

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「福岡藩」の解説

福岡藩
ふくおかはん

筑前国福岡(現,福岡市)を城地とする外様大藩。豊臣秀吉の九州平定後,小早川隆景・同秀秋をへて,1600年(慶長5)豊前国中津から黒田長政が入封して成立。以後12代にわたる。黒田氏は城地を小早川氏の名島から福崎に移し,福岡と改称。藩領は怡土(いと)郡の西部を除くほぼ筑前一国で50万2000石余。のち分知などにより,47万3000石余。32年(寛永9)家老栗山大膳が2代藩主忠之を訴えた黒田騒動がおこるが,幕府は黒田氏の所領を没収したうえ再安堵した。41年長崎警備の幕命をうけ,以後佐賀藩とともに1年交代で勤める。生蝋・石炭・鶏卵などは藩専売品。詰席は大広間。藩校修猷(しゅうゆう)館・甘棠(かんとう)館。支藩に秋月・東蓮寺(直方(のおがた))両藩があった。1864年(元治元)の禁門の変後,一時幕府と萩藩の斡旋に努めるが,結局佐幕の立場に徹した。70年(明治3)の太政官札贋札事件で,翌年黒田長知は藩知事を免職される。廃藩後は福岡県となる。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「福岡藩」の意味・わかりやすい解説

福岡藩
ふくおかはん

江戸時代,筑前国 (福岡県) 福岡地方を領有した藩。慶長5 (1600) 年黒田長政が関ヶ原の戦いの功により,豊前中津 (福岡県) から 52万 3100石で入封したのに始る。元和9 (23) 年忠之の代に長興に5万石 (同国秋月藩) ,高政に4万石 (同国東蓮寺藩) を分与。延宝5 (77) 年東蓮寺藩長寛が福岡藩宗家の嫡子となり,東蓮寺藩は返還。元禄1 (88) 年綱政の代に新墾田5万石を長清に分与して同国直方 (のうがた) 藩を興したが,享保5 (1720) 年除封となり返還。以後代々継続して廃藩置県にいたった。外様,江戸城大広間詰。

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デジタル大辞泉プラス 「福岡藩」の解説

福岡藩

筑前国、福岡(現:福岡県福岡市)を本拠地とした外様の大藩。藩祖は黒田長政(ながまさ)。幕末まで黒田氏が統治。儒学者・博物学者の貝原益軒、国学者の青柳種信などを輩出した。

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世界大百科事典(旧版)内の福岡藩の言及

【大賀九郎左衛門】より

…福岡藩の初期に重きをなした御用商人,朱印船貿易家。大賀家は豊前中津の出身で大神氏の子孫といわれ,黒田氏の中津より福岡転封にともない,博多に移った。…

【筑前国】より

…98年(慶長3)隆景の養子秀秋のとき,筑前国はいったん秀吉の直轄領(太閤蔵入地)となったが,秀吉の死後,再び秀秋が領した。 1600年の関ヶ原の戦の論功行賞で,怡土郡西半分(唐津領)を除くほぼ筑前一国が黒田長政に与えられた(福岡藩)。長政は入部するや新城を築き,播磨・豊前出身の商工業者を集めて新城下町を建設し,福岡と名付けた。…

【津留】より

…津留は物価調節策の一手段としても実施された。1672年福岡藩は博多湊からの生魚・酒の津出しを禁ずるとともに,他浦からの生魚の迎買(むかえがい)をも禁じている。米は高値であるのでこれまで入津を認めてきたが,新米が出回ったことを理由に米・大豆の移入を禁じた。…

【長崎警衛】より

…江戸時代に長崎の警備のため近隣諸藩に課された幕府軍役。一般には1641‐1864年(寛永18‐元治1)に長崎港口の西泊,戸町の沖両番所を1年交代で受け持った福岡藩,佐賀藩の警備をいう。長崎奉行はおおむね2000~3000石以下の旗本で,家臣団を含め外事案件に対処できる軍事力は持たなかったので,1614年(慶長19)の市内の教会破壊に際しては肥前5藩の兵員を徴し,その後も停泊中の南蛮船の警備やキリシタンなど外事犯の拘禁,島原の乱時の市中警固は隣接の大村藩が担当した。…

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