福泊(読み)ふくどまり

日本歴史地名大系 「福泊」の解説

福泊
ふくどまり

峯相記」は乾元元年(一三〇二)安東蓮聖が数百貫の費用を投じて福泊嶋を築いたと記すが、正応五年(一二九二)と推定される蔵人所左方灯炉供御人兼東大寺鋳物師等重申状(勘仲記紙背文書)に福泊嶋とみえ、当時すでに行円が勧進となり、船別に津料を徴収して築造が進められていた。行円は叡尊弟子で和泉国久米田くめだ(現大阪府岸和田市)長老であり、その後久米田寺再興に尽力した安東蓮聖が引継いだものと考えられている。「峯相記」によれば、蓮聖は大石を積上げ、二町余沖へ島を築出したという。その結果、福泊は兵庫嶋にも劣らぬ湊となり、「富貴商買ノ輩、多家ヲ造リ、上下往来ノ船、此泊ニ付ク」(同書)という繁栄をみせた。

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百科事典マイペディア 「福泊」の意味・わかりやすい解説

福泊【ふくどまり】

播磨国にあった中世の港。播磨灘に面した現在の兵庫県姫路市的形町(まとがたちょう)福泊にあたる。古代瀬戸内海にあった〈五泊(ごはく)〉の一つ韓泊(からどまり)は,この付近に比定される。1292年頃には,律宗(りっしゅう)の僧行円房顕尊(ぎょうえんぼうけんぞん)が〈福泊島勧進(かんじん)〉上人(しょうにん)となり,福泊の風浪を防ぐための島の修築事業を進め,往来の船から1艘あたり200文から300文の津料を徴収した。《峯相記(みねあいき)》によれば,1302年顕尊の事業を引き継いだ安東蓮聖(あんどうれんしょう)が数百貫の銭を投じて2町ばかり沖へ突き出した福泊島を築き,築港を完成させた。以後,港は繁栄したが,南北朝期に加古(かこ)川河口に堆積していた砂が,波に吹き寄せられて港のうちを埋め,しだいに衰退していったという。江戸時代には播磨国印南(いなみ)郡福泊村となった。
→関連項目神崎

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改訂新版 世界大百科事典 「福泊」の意味・わかりやすい解説

福泊 (ふくとまり)

中世播磨国の港。飾磨津(しかまづ)と高砂の中間(現,姫路市的形町)にあった。古代瀬戸内海の〈五泊〉の一つ韓(から)泊は,この付近に比定されている。鎌倉時代の1292年(正応5)ころ,律宗の僧行円房顕尊が〈福泊島勧進〉上人となって,この泊に風浪を防ぐ島の修築事業を進め,往来の船から〈築料〉として艘別200~300文の津料を徴集していた。顕尊が1300年(正安2)に入滅した後,その檀那であった得宗被官安東蓮聖が事業を引き継ぎ,〈大石ヲ畳上ゲ,数百貫ノ銭財等ヲ尽シテ,二町余沖ヘ築出〉して,02年(乾元1)に築港を完成,以後兵庫島に劣らず繁栄したという(《峯相記》)。鎌倉時代の末,福泊に興福寺造営のための関所がおかれ,雑掌が関料の〈升米〉をとりたてた。しかし南北朝期になると,加古川河口に堆積した砂が波に寄せられて,泊地の島の内を埋めたので,大船が出入りしなくなり,しだいに衰微していったといわれている(同書)。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「福泊」の意味・わかりやすい解説

福泊
ふくどまり

中世、播磨(はりま)国(兵庫県)の要港。現在の姫路市的形(まとがた)町福泊の地に、1302年(乾元1)安東蓮聖(あんどうれんしょう)が築いたと伝える。兵庫島とならぶ重要港津であったが、しだいに浅くなって衰微し、現在は塩田跡地で海と隔てられている。古代の五泊の一つ韓泊(からどまり)も同地とする説があるが、『法隆寺伽藍縁起并流記資財(がらんえんぎならびにるきしざい)帳』にみえる加良止麻利山の比定などから福泊北東部の的形付近に韓泊を比定する説をとる。湾奥の埋積が進んだために韓泊の機能を福泊に移行したものと想定される。

[金田章裕]

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