福王流(読み)フクオウリュウ

デジタル大辞泉 「福王流」の意味・読み・例文・類語

ふくおう‐りゅう〔フクワウリウ〕【福王流】

能のワキ方流派の一。福王神右衛門盛忠(1521~1606)を流祖とし、観世座付きであった。

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精選版 日本国語大辞典 「福王流」の意味・読み・例文・類語

ふくおう‐りゅう フクワウリウ【福王流】

〘名〙 能楽のワキ方の流派の一つ播磨国兵庫県三木の福王七社の神官、福王神右衛門盛忠(一五一一‐一六〇六)にはじまるもの。観世座のワキ方をつとめ、五代盛親の時、隠居して服部宗巴と改めて京都素謡専門に教えた。これが京観世の始まりとなった。

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改訂新版 世界大百科事典 「福王流」の意味・わかりやすい解説

福王流 (ふくおうりゅう)

能のワキ方の流派名。流祖の福王神右衛門盛忠(但馬守,遅斎。1521-1606)は播磨国三木の神職。観世座ワキ方の棟梁観世小次郎元頼らに学び,織田信長に召し出され観世のワキ方になったという。以後,代々観世の座付として活躍。5世茂兵衛盛親(1609-73)は観世黒雪の弟服部栖元の子で,4世盛厚に後嗣がなく(娶らなかった),中絶していた福王家を再興した。盛親は晩年,京に退隠して服部宗巴と号して素謡(すうたい)の教授を専門とし,以後,福王は京都の素謡界に地歩を固めた。7世盛信(1660-1721)は信望なく,多くの門弟を破門したため岩井,井上,林らの高弟観世流に移り,続いて高弟の薗,浅野も観世に転じた。この五家を五軒家(ごけんや)といい,のち〈京観世〉と呼ばれる。

 福王歴代では,謡曲を新作した2世盛義(1560-1625)と8世盛有(長束仁左衛門。1663-1738),英(はなぶさ)一蝶の門人で画号を雪岑(せつしん)と称した9世盛勝(1701-85)などが著名。1898年14世繁十郎盛哲の死後宗家は絶えたが,東京の花咲右衛門,野島信,京阪の江崎金治郎,中村弥三郎らが芸系を守り,1938年中村弥三郎の子が再興して15世福王茂十郎(1909-76)を名のる。現宗家は茂十郎の子の輝幸(1943- )で,84年16世福王茂十郎を襲名した。能楽協会に登録された役者は約20余名,ほとんど関西に住み,江崎正左衛門・金治郎父子らが活躍。東京には野島信の遺弟がいる。謡曲文も謡い方も観世流とほとんど変わらない。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「福王流」の意味・わかりやすい解説

福王流
ふくおうりゅう

能楽ワキ方の流儀名。流祖は福王神右衛門盛忠 (大永1〈1521〉~慶長 11〈1606〉) 。観世座ワキ方の棟梁観世小次郎元頼らに学び,織田信長に召出され,以後代々観世座付のワキ方となる。歴代では,謡曲を新作した2世盛義 (永禄3〈1560〉~寛永2〈1625〉) と8世盛有 (寛文3〈1663〉~元文3〈1738〉) ,晩年は服部宗巴と号し,のちの「京観世」の基礎を築いた5世盛親 (慶長 14〈1609〉~延宝1〈73〉) ,雪岑と号した画家でもある9世盛勝 (元禄 14〈1701〉~天明5〈85〉) が著名。 1898年,14世繁十郎盛哲没後は宗家断絶となったが,東京の花咲右衛門,野島信,京阪の江崎金治郎,中村弥三郎らが芸系を伝え,1938年中村弥三郎の子が再興して 15世福王茂十郎 (1909~76) を襲名。現宗家は 15世の長男,16世茂十郎 (1943~ ) 。詞章,節付,謡い方は観世流シテ方と大差ない。

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世界大百科事典(旧版)内の福王流の言及

【ワキ方】より

シテ方囃子方狂言方に対しての呼称。現在,宝生流福王流高安(たかやす)流の3流がある。廃絶した流派に進藤流(明治期に廃絶),春藤流(大正期に廃絶)の2流があった。…

※「福王流」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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