福羽美静(読み)ふくばびせい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「福羽美静」の意味・わかりやすい解説

福羽美静
ふくばびせい
(1831―1907)

幕末・明治期の国学者通称文三郎、号は木園、硯堂(けんどう)など。津和野(つわの)藩士の家に生まれる。1853年(嘉永6)より大国隆正(おおくにたかまさ)に国学を学び、さらに平田鉄胤(ひらたかねたね)(1799―1880)にもついた。1860年(万延1)帰藩し藩校養老館教授。1862年(文久2)上洛(じょうらく)して尊攘(そんじょう)派有志と交際。翌1863年、八月十八日の政変のあと七卿(しちきょう)とともに西下帰藩し、以後藩主亀井茲監(かめいこれみ)の内命を奉じ、長・芸・因諸藩に応接するなど幕末期に活躍。1868年(明治1)徴士神祇(じんぎ)事務局判事、翌1869年侍講となり、1870年神祇少副(しょうふ)に任じられ神道(しんとう)国教化政策に努めた。その後は元老院議官などを歴任し、1887年子爵、1890年貴族院議員。著書は『古事記神代系図』『近世学者歌人年表』など多数。

沼田 哲 2016年7月19日]

『加部厳夫編『福羽美静小伝』(1908)』

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朝日日本歴史人物事典 「福羽美静」の解説

福羽美静

没年:明治40.8.14(1907)
生年天保2.7.17(1831.8.24)
幕末明治期の国学者。名は初め美黙。通称は文三郎。号は木園,硯堂など。石見国津和野藩(島根県)代官福羽美質の長男。家を継ぐ。初め藩校養老館で岡熊臣に学び,京都に上って大国隆正に,さらに江戸で平田銕胤について皇国学を修業した。その間帰国して養老館の教師を務めたりしたが,文久2(1862)年,藩命により上京,諸藩の尊王の有志と交わって情報収集に奔走した。同3年8月18日の政変で七卿と共に西下して帰国,中国地方の諸藩の間を往来して七卿の嫌疑を解くことに尽力した。明治1(1868)年,神祇事務局権判事となり,また明治天皇に『古事記』を進講した。以後,制度寮,神祇官,教部省,文部省などに出仕。元老院議官,貴族院議員などを歴任。<参考文献>加部厳夫編『木園福羽美静小伝』

(白石良夫)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「福羽美静」の解説

福羽美静 ふくば-びせい

1831-1907 幕末-明治時代の武士,国学者。
天保(てんぽう)2年7月17日生まれ。石見(いわみ)(島根県)津和野藩士。大国隆正,平田銕胤(かねたね)にまなび,尊攘(そんじょう)運動にくわわる。文久3年八月十八日の政変で帰藩し,藩政改革につくす。維新後は神祇大輔,元老院議官,貴族院議員。明治40年8月14日死去。77歳。通称は文三郎。号は木園,硯堂。著作に「古事記神代系図」など。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「福羽美静」の解説

福羽美静
ふくばびせい

1831.7.17~1907.8.14

「よししず」とも。幕末~明治期の国学者。石見国生れ。通称は文三郎。木園・硯堂と号す。津和野藩校養老館に学び,22歳のとき京都に出て大国隆正に入門。のち江戸に行き平田鉄胤(かねたね)に学ぶ。1862年(文久2)上洛して尊王攘夷派として奔走。維新後,徴士・神祇事務局権判事となり,神道政策を推進した。明治天皇に「古事記」を進講。元老院議官・貴族院議員を歴任。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の福羽美静の言及

【招魂社】より

…靖国神社および護国神社の旧称。1862年(文久2)福羽美静(ふくばびせい)(1831‐1907)らが討幕運動で非命の最期をとげた尊皇の志士を京都東山の霊山(りようぜん)にまつり,63年八坂神社境内に小祠を建立したのが最初である。討幕諸藩でも招魂慰霊がなされ,長州藩では64年(元治1)に藩主により山口市赤妻に設置され,慶応年間十数ヵ所に増加した。…

※「福羽美静」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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