秦逸三(読み)はたいつぞう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「秦逸三」の意味・わかりやすい解説

秦逸三
はたいつぞう
(1880―1944)

化学者、実業家。人絹工業の開拓者。広島県安芸(あき)郡海田市町(現、海田町)に生まれる。1908年(明治41)東京帝国大学工科大学応用化学科を卒業。鈴木商店金子直吉(なおきち)の知遇を受け、1913~1916年(大正2~5)、米沢(よねざわ)高等工業学校教授のかたわら東(あずま)工業株式会社米沢分工場に協力してビスコース人絹製法を研究。1916年人造絹糸業視察のため欧米に出張、1918年帝国人造絹糸株式会社(現、帝人)の創立とともに同じビスコース人絹を研究していた学友久村清太(くむらせいた)とともに同社取締役となり、同米沢工場技師長となり、広島工場を経て、1934年(昭和9)第二帝国人絹株式会社社長となった。

山崎俊雄

『丹羽文雄著『秦逸三』(1955・帝国人絹)』

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改訂新版 世界大百科事典 「秦逸三」の意味・わかりやすい解説

秦逸三 (はたいつぞう)
生没年:1880-1944(明治13-昭和19)

化学技術者。人造絹糸工業育成の功労者。広島県の生れ。1908年東京帝大工科大学応用化学科卒業,樟脳専売局神戸製造所技手,神戸税関の鑑定官補をへて,恩師河喜多能達の斡旋で1912年,開校後まもない米沢高等工業学校に赴任,応用化学科講師,ついで教授として16年11月まで在任し,新興化学工業分野の担い手たちを育てた。さらに,教育活動のかたわら大学時代の学友,東レザー(のち東工業と改名,さらに帝人となる)技師長の久村清太に協力して,ビスコース人絹の製造研究を積極的に進め,鈴木商店金子直吉の資金援助を得,東レザーの米沢人絹糸製造所を実験工場として,その工業化を成功させた。1916年,米沢高工退職とともに久村の強い勧めで技術提携の目的で約1年4ヵ月欧米に外遊,18年6月帝国人造絹糸株式会社設立にさいし取締役兼米沢工場技師長となり,34年常務取締役,第二帝国人造絹糸(株)社長に進み,42年に退任した。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「秦逸三」の解説

秦逸三 はた-いつぞう

1880-1944 大正-昭和時代前期の化学者,実業家。
明治13年12月14日生まれ。米沢(よねざわ)高工教授のかたわら,久村清太(くむら-せいた)と協力し,鈴木商店の金子直吉の資金援助で国産人絹糸の開発に成功。大正7年設立の帝国人造絹糸(現帝人)取締役となり,昭和9年常務,第二帝国人造絹糸社長。昭和19年5月25日死去。65歳。広島県出身。東京帝大卒。

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世界大百科事典(旧版)内の秦逸三の言及

【化学繊維】より

…初期のレーヨン糸は羽織の紐や菓子箱の房等,耐水性を必要としない装飾的用途に向けられた。一方,東京帝大工科大学応用化学科を卒業後鈴木商店系の東レザーの技師長としてレザーの研究・改良に従事していた久村清太は,やがてビスコースの将来に注目し,学友で米沢高等工業学校講師の秦逸三と協力してビスコース応用品として有望なレーヨン糸の研究を始め,1915年には鈴木商店の番頭金子直吉の援助を得て,東レザー分工場米沢人造絹糸製造所を設立した。この製造所は折からの第1次大戦による輸入の途絶に助けられて生産を伸ばし,18年には資本金100万円(25万円払込み)の帝国人造絹糸(現,帝人)に発展した。…

【久村清太】より

…帝人の前身)技師長に就任。15年からは鈴木商店金子直吉の資金援助と学友秦逸三(はたいつぞう)の研究協力を得て,東レザー米沢人造絹糸製造所を実験工場として人絹の国産化に先鞭をつけ,18年帝国人絹取締役,34年社長,45年会長,48年日本化学繊維協会長となり,この新興化学工業分野の発展につくした。【飯田 賢一】。…

※「秦逸三」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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