秩禄処分(読み)チツロクショブン

デジタル大辞泉 「秩禄処分」の意味・読み・例文・類語

ちつろく‐しょぶん【秩×禄処分】

明治9年(1876)明治政府が秩禄奉還をすべての華族士族に求め、金禄公債証書の交付を代償として秩禄支給を全廃した処置。

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改訂新版 世界大百科事典 「秩禄処分」の意味・わかりやすい解説

秩禄処分 (ちつろくしょぶん)

1876年8月,明治政府が金禄公債証書発行条例を公布し,華士族への家禄支給を全廃した処置。

近世期に,幕臣・各藩武士団内部のそれぞれがもっていた厳しい身分秩序は,幕末・維新の動乱のなかで急速に崩れていった。しかし,それでも維新に功のあった一部の公家・武士は,旧来の身分にかかわりなく政府の要職につくことができた。1869年(明治2)6月,政府が領主・公卿を華族,武士を〈一門以下平士ニ至ル迄総テ〉士族と称することを達して,武士層内部の身分秩序の整理をはかったのは,以上の事情を反映したものである。また武士層は,元来〈武〉を常職としていたが,維新戦争では,長州の奇兵隊のように農商身分出身者からなる軍隊が活躍するなど武職としての地位も揺らいだ。そして,73年の徴兵令公布によって,武士層は本来の存在意義を失ったのである。しかし,領主・武士層の生活を支える家禄は,徴兵令や,封建貢租を近代的租税に転換しようとした地租改正の公布後も,引きつづき政府から支給されていた。

維新戦争による財政破綻のため,明治に入ると諸藩は例外なく家禄の大幅削減を余儀なくされ,とくに朝敵諸藩では上下の別なくわずかの扶持米を均等に給与する例もみられた。しかし一方では,政府によって,維新に功績のあった者に対し,1869年新たに賞典禄が交付され,国庫負担はさらに増大した。廃藩置県直後の政府歳計(1872,73年度)では,家禄支出は貢租収入の約40%に及んでいた。政府は,72年,外債3000万円を募り,その一部を充てて家禄を7年後に廃止する家禄処分案を計画したが,外債公募が挫折し実現をみなかった。そのため政府は,73年12月27日家禄税制(太政官布告423号)と家禄奉還制(太政官布告425号)を併せ公布した。家禄税(華士族禄税則)は,家禄5石以上の者を対象とし禄税を335段階に細分し,上層ほど高率の累進税を課すものであった。家禄奉還制度(〈家禄奉還ノ者ヘ資金被下方規則〉)は,禄高100石未満の者が家禄奉還を望むときは,希望者に家禄6年分(終身禄は4年分)を半分は現金,半分は年8分の秩禄公債で一時に下付するもので,秩禄公債は3年目から償還し,7年間で完済する計画であった。また,この資金・公債で官林荒蕪地(かんりんこうぶち)の半価払下げをうけ帰農できるよう,〈産業資本ノ為メ官林荒蕪地払下規則〉を同時に制定した。なお,奉還希望者の家禄制限は74年11月撤廃された。禄税収入額は,年間207万~294万円にのぼり,家禄奉還の成果は,出願者約13万6000人,奉還禄高は約610万円,交付額約3590万円で,家禄,人員ともほぼ20%を減少。ついで75年9月,家禄賞典禄は定額金給に切り換えられた(これを金禄という)。

 元来,家禄は現米支給がたてまえで,金給の場合も年々の貢米相場で換算していた。しかし,地租改正によって定額の租税収入のもとに予算制度が樹立されると,歳出上,30%前後の比重を占める家禄支出が,米価の変動で左右されることは政策執行上の大きな障害であった。そのため政府は,1875年から家禄賞典禄を,地方貢納石代相場の1872-74年の3ヵ年平均額で換算した金額で定額支給することとしたのである。

近代国家建設の事業が進むにつれ,家禄支出は政府当局者にますます〈無用ノ冗費〉とうつるようになった。こうして1876年3月,大蔵卿大隈重信は秩禄処分案を正院に提出し,正院は木戸孝允の反対を抑えて,これを裁可,8月5日太政官布告108号金禄公債証書発行条例を公布した。これによって従来支給されていた家禄(金禄)は廃止され,代りにその5~14年分にあたる価額の公債が交付されて,償還まで年々5~7分の利子が公債所有者に支給されることになった(永世禄の場合)。この秩禄処分方式は上層に厳しく下層に緩やかになっているが,にもかかわらず,推算すると旧領主は1人平均6万円余の公債を取得したのに対し,金禄高100~950円の旧上士層は1620円余,75円以下の旧中・下士層は410円余の公債で,年収29円余の利子収入が期待できたにすぎない。秩禄処分案の影響は大きく,政府の士族授産政策にもかかわらず,以後,士族層の多くは没落していくこととなった。秩禄処分に対する士族の不満は大きく,旧薩摩藩士族にはとくに優遇措置が配慮されたが,それでもこれを不満として西南戦争の一因となった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「秩禄処分」の意味・わかりやすい解説

秩禄処分
ちつろくしょぶん

1876年(明治9)明治政府が、華・士族に金禄公債を交付して、彼らに対する家禄、賞典禄の支給を廃止した処分。明治政府は、廃藩置県後も、従来の公家(くげ)、領主、武士(これらは1869年華族・士族という二つの族籍に整理された)に対し、旧幕以来の家禄と、維新の功績により政府が与えた賞典禄とを引き続き支給していた。そのための財政負担は、当初歳出の45%に達し、近代国家樹立を目ざす政府にとって家禄・賞典禄処分は差し迫った課題となった。また1873年に公布された徴兵令は、武を常職とする士族の存在理由をなくし、同年の地租改正は、家禄の源泉である封建貢租を、近代的租税の形をとった地租に変えてしまった。こうした事情を背景にして、政府は、政府内部の反対を押さえながら徐々に家禄整理を進めた。まず73年12月、家禄税と家禄奉還制度をあわせ実施し、家禄には禄高を335段階に分けた累進税を課し、奉還希望者には家禄六か年分を現金と秩禄公債とで一時に交付し、平民身分に編入した。ついで75年9月には、家禄・賞典禄をすべて定額の現金支給に改めた(これを金禄と称する)。これらの措置ののち、秩禄処分を断行し、旧領主階級を完全に解体したのである。これに対し、各地の士族は強く反発し、神風連(しんぷうれん)・秋月(あきづき)・萩(はぎ)の乱や西南(せいなん)戦争などの士族反乱が勃発(ぼっぱつ)した。反乱鎮定後、士族層の多くは窮乏し没落していった。

[丹羽邦男]

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百科事典マイペディア 「秩禄処分」の意味・わかりやすい解説

秩禄処分【ちつろくしょぶん】

明治政府が歳出の3割にも及ぶ旧武士,公卿たちの秩禄(家禄,賞典禄)を廃止するためにとった施策。1869年版籍奉還に際して公卿・諸侯を華族,家臣を士族・卒とし,知藩事(旧諸侯)の禄高を藩高の10分の1とした。次いで士族,卒,皇族以下全公卿の家禄も削減し,また帰農商を奨励,その資金として禄高5ヵ年分相当を支給した。さらに廃藩置県後の1873年からは家禄奉還者に一時賜金と秩禄公債を交付して1875年の家禄奉還中止までに有禄者の約3分の1を整理。同年米禄を金禄に変更,1876年残っていた有禄者に金禄公債を交付して秩禄を全廃した。この一連の措置は士族に深刻な打撃を与え,士族授産も行われたが,多くの士族が没落,士族の不満は大きく西南戦争など士族反乱の一因ともなった。
→関連項目井上馨国立銀行士族士族反乱

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「秩禄処分」の意味・わかりやすい解説

秩禄処分
ちつろくしょぶん

明治新政府が封建武士団に対する俸禄支給を整理,廃止した措置。明治2 (1869) 年版籍奉還に伴って,従来の藩の知行高は 10分の1に削減された。そののち,廃藩置県によって,全国の士族に対する家禄賞典禄などの秩禄は,明治新政府によって支給されることになった。しかし政府はその支出が膨大であるため,士族の授産の道を勧誘するとともに,秩禄支給を打切る政策を進めた。 1875年9月俸禄を米から金禄に切替え,次いで翌年8月金禄公債条例 (→金禄公債 ) を公布して,これまでの禄高に応じた額面の金禄公債証書を一時金として支給するとともに,以後の俸禄支給を打切った。この措置は,実業に馴れない士族層の没落を決定的にし,社会不安を引起した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「秩禄処分」の解説

秩禄処分
ちつろくしょぶん

明治初年,江戸時代の俸禄を引き継いだ家禄や維新の勲功者に与えた賞典禄を廃止した政策。廃藩置県後も明治政府は華族・士族などに家禄・賞典禄を支給していたが,歳出の3分の1を占めていたために廃止が問題となった。外国公債を利用した家禄廃止案は挫折したが,1873年(明治6)に漸進的措置として家禄奉還とともに家禄税を導入し,禄高を20%削減した。しかし米価上昇などで実質的な財政負担は変わらなかったため,75年に過去3年間の石代相場で換算した現金支給(金禄)に改めたうえで,76年に金禄公債を発行して最終的に廃止する方針を決定。地租改正とともに封建的領有権が解体され,近代的土地所有権が確立した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「秩禄処分」の解説

秩禄処分
ちつろくしょぶん

明治政府によって行われた家禄および賞典禄の整理廃止
旧封建家臣団の解体政策である。政府は,1869年版籍奉還に伴う身分制度の改革とともに旧藩主・藩士や公卿の家禄を削減する禄制改革を行い,また廃藩置県('71)後,家禄奉還者への一時賜金および秩禄公債の交付によって,全士族の約3分の1に及ぶ禄制整理を実施した。'75年秩禄の支給方法も現米から貨幣に改め,'76年には金禄公債を支給して,封建制度数百年にわたる秩禄制度を全廃した。これにより多くの士族は急速に没落した。

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世界大百科事典(旧版)内の秩禄処分の言及

【金禄公債】より

…1876年8月5日,明治政府は領主・公卿・武士らへの家禄支給を廃し,代りに公債を交付することを令した(太政官布告108号)。これを秩禄処分といい,この公債が金禄公債である。これによって,封建支配層としての領主・武士層は消滅し,彼らはすべて公債を所有する利子生活者となった。…

【知行】より

… 1867年(慶応3)大政奉還によって幕府が倒れた後も大名領は朝廷の下に維持されていたが,明治政府は69年(明治2)版籍奉還を行うとともに武士階級を華・士・卒族に編成替えし,71年廃藩置県によって大名とその家臣団の土地領有権を否定した。ただししばらくの間は,知行地の年貢や俸禄に相当する家禄を,政府が肩代りして華士族に支給していたが,やがてこれも整理にむかい,75年には金禄公債を一時に交付することによって,家禄の支給をすべて打ち切り(秩禄処分),近世的知行とそれに由来する家禄も完全に消滅した。【大口 勇次郎】。…

※「秩禄処分」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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