穂積八束(読み)ほづみやつか

精選版 日本国語大辞典 「穂積八束」の意味・読み・例文・類語

ほづみ‐やつか【穂積八束】

法学者。愛媛県出身。陳重の弟。東大教授。東大で憲法講座を担当。天皇制擁護論を主張。フランス流旧民法施行に反対し、美濃部達吉天皇機関説を攻撃した。著書「憲法大意」。万延元~大正元年(一八六〇‐一九一二

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デジタル大辞泉 「穂積八束」の意味・読み・例文・類語

ほづみ‐やつか【穂積八束】

[1860~1912]法学者。愛媛の生まれ。陳重のぶしげの弟。東大教授。君権絶対主義の立場から民法の実施に反対。また、美濃部達吉天皇機関説を攻撃。著「憲法大意」など。

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改訂新版 世界大百科事典 「穂積八束」の意味・わかりやすい解説

穂積八束 (ほづみやつか)
生没年:1860-1912(万延1-大正1)

憲法学者。穂積陳重の弟として,宇和島藩士の家に生まれた。井上毅などに嘱望され,1883年東大卒業の翌年憲法学研究のためにドイツに留学,ラーバント師事。89年2月,帰国早々東大教授に任命され,以後貴族院勅選議員,宮中顧問官などを兼ねた。その学説天皇主権の絶対性を説く憲法理論,主権の所在を国体とし,主権発現の態様を政体として,日本を君主国体立憲政体であるとする日本国家論,また,天皇は民族の家長であるとする家族国家論などからなり,中等学校教科書の執筆者として,その説は国民教育上の正統学説となった。しかしその権力主義的・前近代的性格は諸方面から批判をうけ,また政党内閣否認論,委任立法違憲論など非現実的なところもあって,学界や実務を支配するには至らなかった。やがて美濃部達吉より全面的批判を受け,後継者の上杉慎吉が理論的情熱に欠けることもあってその学説は大正期には学界から顧みられなくなった。明治天皇の大葬に参列して風邪をこじらせ死亡。ボアソナードの起草した民法草案の施行に激しく反対し,《民法出デテ忠孝亡ブ》と題する論文を書いたことでも有名。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「穂積八束」の意味・わかりやすい解説

穂積八束
ほづみやつか
(1860―1912)

わが国で近代を代表する法学者。法学者で枢密院議長を務めた穂積陳重(のぶしげ)の弟で、四国宇和島藩の国学者の家に生まれる。藩校明倫館に学び、上京して1883年(明治16)東京大学法学部を卒業し、その翌年からドイツに留学してシュルツェ、ラーバント教授らの教えを受けた。帰国後、1889年に帝国大学教授となり、憲法学の講座を担当したが、ドイツ留学中にラーバントから受けた君主絶対主義の立場にたつ憲法論を唱え、台頭しつつあった民権学派の憲法理論に対して強硬な反対論を展開した。旧民法の施行にあたっては「民法出デテ忠孝亡(ほろ)ブ」という論文を発表(1891)して、施行延期派の旗手となり、民法に家長権尊重を盛り込ませることに大きな役割を果たした。その間、貴族院議員、宮中顧問官などの重職を歴任した。主著『憲法提要』上下(1910)。

[池田政章]


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朝日日本歴史人物事典 「穂積八束」の解説

穂積八束

没年:大正1.10.5(1912)
生年:万延1.2.25(1860.3.17)
明治時代の憲法学者。宇和島藩(愛媛県)出身。父は穂積重樹。陳重の弟。明治16(1883)年東大文学部政治学科卒。井上毅に嘱望され,17~22年ドイツ留学,ラーバントの影響を受けて,憲法発布直前に帰国,東大初代の憲法教授となる。「天皇即国家」であるとして天皇機関説を攻撃,祖先崇拝論によって天皇主権を基礎づけ,「民法出テテ忠孝亡フ」とボアソナード民法に反対した。天皇主権を「国体」としてその絶対不変を唱え,政党内閣を憲法違反とするなど,保守的・権力的憲法論は学界で孤立したが,貴族院勅選議員,宮中顧問官,また教科書執筆者としても影響力を持った。明治44~45年の天皇機関説をめぐる美濃部・上杉論争に際しては,奥田義人文相に介入を働きかけ,新聞に匿名の美濃部攻撃文を掲載した。明治天皇の大葬に参列した際の風邪をこじらせ死亡した。馬で登校するなど逸話も多い。<著作>『憲法提要』<参考文献>長尾龍一『日本法思想史研究』

(長尾龍一)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「穂積八束」の意味・わかりやすい解説

穂積八束
ほづみやつか

[生]安政7(1860).2.25. 宇和島
[没]1912.10.5. 神奈川,鎌倉
憲法学者。穂積陳重の弟。 1883年東京大学を卒業,井上毅の推薦で翌 1884年よりドイツに留学し,パウル・ラーバントに国法学を学んだ。 1888年帰国しただちに東大教授に任じられた。その後,貴族院議員,宮中顧問官を歴任。天皇絶対主義を唱え,フランス人学者ギュスターブ・エミール・ボアソナードが起草した旧民法を批判した論文「民法出デテ忠孝亡ブ」 (1891,『法学新報』第5号) で梅謙次郎と論争 (→民法典論争 ) ,旧民法の施行を阻止した。主著『憲法大意』 (1896) ,『憲法提要』 (1910) 。

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百科事典マイペディア 「穂積八束」の意味・わかりやすい解説

穂積八束【ほづみやつか】

憲法学者。陳重(のぶしげ)の弟。東大教授,貴族院議員。論理的・体系的な君権絶対主義を提唱。忠孝一本の義を唱えた。〈民法出でて忠孝亡ぶ〉という彼の句は旧民法典の施行を延期させる一因となった。主著《憲法提要》《行政法大意》。
→関連項目上杉慎吉政体

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「穂積八束」の解説

穂積八束 ほづみ-やつか

1860-1912 明治時代の法学者。
安政7年2月28日生まれ。穂積陳重(のぶしげ)の弟。明治22年帝国大学教授となり憲法学を担当。君権絶対主義にたち,民法典論争では実施延期派の中心として,24年論文「民法出デテ忠孝亡(ほろ)ブ」(「法学新報」)を発表した。のち貴族院議員,宮中顧問官。大正元年10月5日死去。53歳。伊予(いよ)(愛媛県)出身。東京大学卒。著作に「憲法提要」「憲法大意」など。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「穂積八束」の解説

穂積八束
ほづみやつか

1860.2.28~1912.10.5

明治期の憲法学者。陳重(のぶしげ)の弟。伊予国生れ。東大卒。ドイツ留学をへて,1889年(明治22)帝国大学教授となり,憲法講座を担当。民法典論争に際し「民法出テゝ忠孝亡フ」を著し反対した。以後法典調査会査定委員・貴族院勅選議員・宮中顧問官などを歴任。学説が権力的・概念的であったため,有賀長雄(あるがながお)・美濃部達吉などの批判を浴びた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「穂積八束」の解説

穂積八束
ほづみやつか

1860〜1912
明治時代の憲法学者
陳重 (のぶしげ) の弟。伊予(愛媛県)の生まれ。東大教授・貴族院議員を歴任。旧民法の公布をめぐって賛否両論(民法典論争)がおこったとき,「民法出デテ忠孝亡ブ」という論文を発表し,反対論の立役者となった。

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