積極中立(読み)せっきょくちゅうりつ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「積極中立」の意味・わかりやすい解説

積極中立
せっきょくちゅうりつ

冷戦時代における日本社会党(現、社会民主党)の安全保障政策で、いっさいの武力を廃し、軍事条約・軍事ブロックを解消して、平和を追求する非武装中立方針。日本社会党は1959年(昭和34)「積極中立」構想を打ち出した。その後、1966年の「日本の平和と安全を保障する道」(非武装中立構想・石橋政嗣(まさし)案)で、日米安全保障条約の廃棄、中立と非武装の宣言、集団的平和保障体制の確立自衛隊廃止などを掲げ、1968年12月の「非武装・中立への道」で積極中立を党の正式政策とした。1969年の第32回臨時党大会では「日米安保体制の打破、自衛隊の縮減改組、平和中立の達成、非武装不戦国家の実現」を確認決定した。これは1970年代の対外政策の基本方針となり、日本国憲法の平和原則の擁護、日米軍事同盟の打破、自衛隊増強反対の立場を示すものであった。

 1979年9月、党国際局の「80年代の日本外交」草案は、(1)特定国を過大評価しない、(2)社会主義国を平和勢力とみなさない、として「冷静に現実をみる」との姿勢を強調した。1980年の社会・公明の両党合意以後、社会党は非核を安全保障政策の中心に据えつつも、現実路線に方針転換していった。1983年、石橋政嗣委員長は自衛隊の「違憲合法論」を唱え、1989年(平成1)9月、土井たか子委員長は「日米安保条約の継続」を認めた(「土井構想」)。さらに1990年には、党内の外交政策担当の委員会が日本の周辺防衛に限定した自衛隊「合憲」論を提起した。1991年の湾岸戦争・ソ連消滅、その後の自衛隊の国連平和維持活動(PKO)参加と東西関係の変化などで、安全保障論議の焦点が国際貢献論に移ると、社会党はより現実的な対応を模索するようになった。1993年の非自民連立内閣と1994年の自・社・さきがけ連立内閣への政権参加の過程において村山富市(とみいち)首相は党内論議を経ないで、(1)「自衛隊合憲」、(2)日米安保条約の堅持、(3)非武装中立の政策的な終焉(しゅうえん)などを表明して、従来の方針を大転換した。「95年宣言」ではポスト冷戦の安全保障政策を軍縮に置き、究極的には軍備なき世界を理想としたが、当面、自衛隊を合憲とみなしつつ、段階的な縮小と改編をうたっている。

[荒 敬]

 日本社会党は1996年に社会民主党と党名を変更した。その後、分裂による党勢縮小を経て、2006年に発表した「社会民主党宣言」では、自衛隊を改編・解消し、日米安保条約を平和友好条約へ転換するなど、非武装中立路線の復活を明らかにしている。

[編集部]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「積極中立」の意味・わかりやすい解説

積極中立
せっきょくちゅうりつ

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