竈戸関(読み)かまどぜき

日本歴史地名大系 「竈戸関」の解説

竈戸関
かまどぜき

熊毛半島の先端、西海上にあるなが島の、古代中世における呼称地形が竈に似ていたところから名付けられたという(注進案)

寿永三年(一一八四)四月二四日付の源頼朝下文案(賀茂別雷神社文書)に「竈戸関」とみえるのが早く、同文書によれば、寄進年代は不明であるが、竈戸関は賀茂別雷かもわけいかずち神社(現京都市北区の上賀茂社)荘園の一つで、源頼朝が武家狼藉を停止している。また文治二年(一一八六)九月五日付の「周防国伊保庄・竈戸関・矢嶋・柱嶋等住人」への源頼朝下文(賀茂別雷神社文書)では、土肥実平ならびに大野七郎遠正に領家の進止に従うよう命じている。

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改訂新版 世界大百科事典 「竈戸関」の意味・わかりやすい解説

竈戸関 (かまどのせき)

竈門関とも書く。現在の山口県熊毛郡上関町大字長島にあった中世の海関兼海港。竈戸の呼称は地形が竈に似ているためという。地名としての初見は10世紀半ばに黒作御贄(みにえ)をささげる竈門御厨(みくりや)で,この時代には熊毛半島,佐護島,馬島,長島に囲まれた天然の良港を利した海民の基地であった。平安末には京都上賀茂の別雷(わけいかずち)社領として竈戸関の名が見えるので,平安後期に良港でかつ周防沿岸航路を扼(やく)する位置にあるところから海関となったと思われる。東大寺文書によると13世紀後半には周防東大寺領の年貢はこの関の自由通行権を得ていたことがわかるが,こういう特権を持たぬ荷船はすべて関料をとられていたということでもある。中世後期になるともっぱら上関(かみのせき)と呼ばれるようになるが,これは大内氏の本拠である海の東を守る竈戸関と西を守る赤間関(あかまがせき)(下関)という対比からの呼称だろう。この時代には海運業も営まれ,兵庫津へ700石の米を運んだ大船も存在した。室町期には大内氏の支配下に入り,毛利氏の防長征圧(1557)後は毛利氏に握られた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「竈戸関」の意味・わかりやすい解説

竈戸関
かまどぜき

山口県南東部、熊毛(くまげ)郡上関(かみのせき)町の上関の古代、中世の呼称。京都賀茂(かも)社の荘園(しょうえん)で、上関海峡を扼(やく)す西瀬戸内の要港であった。

[編集部]

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