わらんべ,わらわ,わらわべ,わろうべともいい,童部とも表記した。普通には男女を問わず元服以前の児童(童子・子ども)をさした。童というのは10歳前後とする考え方もあるが,そのように限定してしまうと,かえって童の語にふくまれていた豊富な内容が見失われかねないともいえる。なぜならば,成人女性は謙遜して自分をさすのに〈わらわ〉の語をもちいたし,また,年齢的にはけっして児童ではないにもかかわらず,髪風もふくめて姿形が〈童形(どうぎよう)〉(後述)であるものを童・童子などと呼んだ。ちなみに,現行の法律,児童福祉法では満18歳未満のものを児童とし,乳児・幼児・少年に区分している。また,労働基準法では,特例を除き満15歳未満の児童を労働者として使用することを禁止している。ともに,法・制度によって健康保全・福祉の面で〈保護〉されるべき対象として児童を位置づけている。
児童が一般に〈童〉と称されていた時代には,それらは,こんにちの感覚では容易には推しはかれない意味をもって見られていた。とりわけて古代・中世においては,童のもつ自由奔放さ,闊達(かつたつ)さ,率直さ,いたずら好み,乱暴さかげんなどの特性が,信仰とも深く結びつきながら,現実の俗世間を超越した別世界にあいかよう力のあらわれと考えられ,童のつぶやき一つにもなにかの予兆をくみとり,成人には理解しかねるような童の不可思議な行動一つにも神の憑依(ひようい)を感じとっていた。そして,一定の年齢に達するまでは〈産神(うぶがみ)〉の加護のもとに童が置かれているものと信じ込んでいたのであった。その年齢は,おおむね7歳であり,これをすぎると〈産神〉の霊力が弱まり,危険に遭遇すると予測されていたらしい。また,女子の場合には,生理のことにかかわって,13歳が重視された。能楽の大成者として名高い世阿弥は,《風姿花伝》の〈年来稽古条々〉で芸と年ごろのことを説き,稽古始めの歳を7歳としたあとは,12,13歳,17,18歳,24,25歳というふうに区切っている。むろん,風情・体格・音声などの条件に照らしての区分ではあるが,こうした年齢階梯意識の基礎にも,奥深い習俗の世界が存在していたことが推察される。
血縁集団・地域社会において,童が一人前の成人として扱われるようになるのは,おおむね15,16歳であった。このことは,史上に聞こえた室町時代の〈山城国一揆〉にさいして,寄合の合議に参加した一揆衆の年齢の下限が15,16歳であった事実や,荘園領主のもとでの〈落書起請(らくしよきしよう)〉で責任能力者として認定されたのが,やはり同様の年ごろであった事実からも容易に察せられる。この年齢に達すると,各自が文書に添える〈書き判(花押・略押)〉が公的に効力を発したし,垂髪(長い垂れ髪)を特徴とする〈童形〉を脱して成人の風体へと変身したのである。この区切りは,近世社会にもうけつがれて,〈若者組〉への加入が認められもした。
実際には児童の域を超えているにもかかわらず〈童形〉姿のままで生きた人々もいて,これもやはり童・童子と呼ばれた。牛車(ぎつしや)を扱った〈牛飼童(うしかいのわらわ)〉もその一例であるが,ほかには公家・武家に仕えた小舎人童(こどねりわらわ)も児童(少年)に限らず,さらには大寺院には〈稚児(ちご)〉とは別に,〈堂童子(どうどうじ)〉など〈童子〉と呼ばれる人々がおり,〈童形〉であった。また,京都の北,八瀬(やせ)の地には往古〈八瀬童子〉と称される集団があり,男女を分かたず長髪の〈童形〉姿であった。また,説話のなかにも壮年・老年の童がしばしば登場する。〈大江山の酒呑童子(しゆてんどうじ)〉というのもその一例であろうが,そうした〈童形〉のものたちは,共通して別の世界との交流を明示するか暗示するかして,この世のものならぬ,ただならぬ霊力・呪能を身に備えている場合が多い。仏教説話や寺社縁起にしきりと現れて活躍する〈護法童子(護法)〉もその好例の一つといえようが,虚構のなかに生きる〈童形〉のものたちと,現実の社会に生きたそれとのかかわりはどのようであったのか,その意味するところがなにであったのかについては未解明な点が多く,文字どおり児童としての童のこともあわせて,今後の研究にまたねばならない。そして,現代社会における児童観にたいしても,有益な示唆がもたらされるよう望まれる。
→京童(きょうわらべ) →子ども →落書(らくしょ)
執筆者:横井 清
仏教行事における童子
特定の仏教行事において,半僧半俗の立場で法要の進行を把握する重要な役割をいう。子どもを神聖視する思想からか童子と記すが,幼児が担当するとは限らない。むしろ複雑な作法を伴うので特定の家筋の成人による例が多く,〈堂子〉とも記す。悔過(けか)系の行事(東大寺修二会,薬師寺修二会など)には欠くことのできない役割で,東大寺修二会の場合は,参勤僧の随伴諸役の筆頭に堂童子が挙げられている。僧侶の掌握の及ばない堂の内外を整え,法要の進行に即してもろもろの所作をこなしていくが,東大寺修二会には単に童子と記す役も十数名設けられており,参勤僧と堂童子にも配属されて,上堂や下堂に付き従うなど蔭の仕事に従事する。四天王寺聖霊会の舞楽法要では,盛装した堂童子役の幼児を抱きあげて,行事の区切りとなる鐘を打たせる例が残されている。
また能面の〈童子〉と呼ばれる面は,妖精的な少年の面で,《田村》《小鍛冶》の前ジテなどに用いられる。
執筆者:高橋 美都