笠松村(読み)かさまつむら

日本歴史地名大系 「笠松村」の解説

笠松村
かさまつむら

[現在地名]笠松町上新町かみじんまち中新町なかじんまち下新町しもじんまち新町しんまち西宮町にしみやちよう東宮町ひがしみやちよう天王町てんのうちよう西町にしまち下本町しもほんまち上本町かみほんまち司町つかさまち港町みなとまち宮川町みやがわちよう二見町ふたみちよう若葉町わかばちよう西金池町にしかないけちよう東金池町ひがしかないけちよう門前町もんぜんちよう泉町いずみまち清住町きよずみちよう弥生町やよいちよう如月町きさらぎちよう大池町おおいけちよう朝日町あさひまち美笠通みかさどおり中川町なかがわちよう春日町かすがちよう松栄町しようえいちよう常盤町ときわちよう東陽町とうようちよう月美町つきみちよう緑町みどりまち友楽町ゆうらくちよう瓢町ひさごちよう羽衣町はごろもちよう桜町さくらまちなど

木曾川が西流から北流へ向きを変える地点の右岸に位置し、岐阜町を発して加納かのう(現岐阜市)を経、熱田あつた(現名古屋市)へ向かう道(通称御鮨街道・名古屋街道)が通る。天正一四年(一五八六)の木曾川筋氾濫後に開かれた村と伝え、開発の主体は宝江ほうえ(現本巣郡穂積町)の者で、三ッ屋みつや村などの一向宗徒が多く移住したという。慶安三年(一六五〇)の枝広洪水後、その復旧工事を担当した美濃国奉行岡田善政は当地(地籍は徳田新田)に休憩所を設けた。復旧工事は木曾三川の中・下流の全域にわたる国役普請で、大工事であった。当地は工事の指揮・監督、それに工事用の資材を調達するのに最適の立地条件であったとみられる。ついで寛文二年(一六六二)美濃代官名取長知は、可児かに徳野とくの(現可児市)にあった陣屋を引払い、先の休憩所を陣屋とした。以後陣屋町として、また木曾川舟運の湊、御鮨おすし街道の宿として町場化が進み、江戸後期には「笠松村・徳田新田并田代村之内柳原分共、家居続町場ニて三郷と唱、前々より毎月四・九之日市相立」(「美濃郡代貸付演説書」県立歴史資料館蔵)と記されるように、近郷の中心地に発展した。なお寛文二年以前は笠町と称していたが、同年笠松村に改称されたと伝える。笠松の地名はこれ以前からあり、慶長三年(一五九八)の宗庵書状(野々垣文書)や寛文二年以前とみられる九月二一日の粟津勝兵衛書状(浄安寺文書)にみえ、後者から念仏集団が形成されていたことが推定できる。

笠松村
かさまつむら

[現在地名]三雲村笠松

雲出くもず川とあお川に挟まれた下流低地に位置し、星合ほしあい村の南にあたる。小字名に南垣内・中垣内・北垣内の垣内地名や辰新田の新田地名がある。永享五年(一四三三)三月の将軍足利義教の伊勢参宮を記した尭孝の「伊勢紀行」に、

<資料は省略されています>

とみえ、室町時代には参宮路が通っていた。天正一一年(一五八三)の内宮神領本水帳写には「一 弐斗五升 氏晴 かさ松」とあり、内宮へ供米二斗五升を供進している。

文禄検地帳を転記したものと思われる伊勢国中御検地高帳に笠松とみえ、石高二八九・六六石とある。元和五年(一六一九)和歌山藩白子領となり、小船江組に属した。慶安郷帳(明大刑博蔵)には田一六・七八六石、畑一七八・七九四石とあり、新田・塩浜・旱損所・塩入所があった。新田は天和年中(一六八一―八四)以前に開発された西太さいだい新田五一一・七〇二石、四五町余や東太とうだい新田二五六・七七二石、二三町余があった(寛保三年覚書帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の笠松村の言及

【美濃郡代】より

…江戸時代,美濃国と伊勢国桑名郡の幕府直轄領を支配した役職。1662年(寛文2)以降は,羽栗郡笠松村(現,岐阜県羽島郡笠松町)に陣屋があり,笠松郡代とも呼ばれた。ただし美濃郡代は必ずしも常置される職ではなかった。…

※「笠松村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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