第五共和政(読み)だいごきょうわせい(英語表記)Cinquième République

日本大百科全書(ニッポニカ) 「第五共和政」の意味・わかりやすい解説

第五共和政
だいごきょうわせい
Cinquième République

1958年6月以降今日までのフランスの政治体制。58年5月中旬にアルジェリアで起こったクーデターを誘因として、第四共和政の国民議会(下院)は、同年6月1日、329票対224票で将軍ドゴールを首相に信任した。12年ぶりに政権に復帰した彼は、特別権限により統治することを認めさせ、新憲法の準備に着手した。9月末の国民投票で圧倒的な支持を得(本土の有効投票の79%)、正式に第五共和政を樹立した。しかし、このときの憲法は、それまでの議会制の合理化、すなわち執行権の強化と立法過程の効率化を図ったにとどまる。3年10か月を費やしてようやくアルジェリア戦争を解決し、それによって新体制の能力を証明したとき、彼は年来の政治構想(ゴーリスムといわれる)を一段と鮮明にする。強い反対を排して、62年10月末の国民投票で憲法改正を実現し、国民の直接投票(2回式絶対多数当選制)による任期7年の大統領選出を定めた。憲法上すでに大きな権限を与えられていた大統領は、その権力に民主的基礎を与えられ、「ドゴールの共和政」は議会制から準大統領制(議会制的要素を含む大統領制)へ転移する。権限を制限された国民議会(下院)に対して、政府が強化されたが、その両者に対して大統領は優越的地位を占める。大統領は首相と閣僚を任免し、閣僚会議を統裁して、自己の政治方針の実現を期し、外交・国防を指導する。必要があれば、国民議会を解散し、国民投票を要請し、緊急時には特別権限を行使する。しかし、大統領の任命した内閣は、国民議会に対して政治責任を負わねばならない。むろん議会の内閣不信任手続には厳しい条件をつけている。

 こうして強力な大統領による統治体制が実現したが、その円滑で有効な統治には、国民議会に緊密で安定した多数党もしくは多数派を確保しなければならない。大統領の権力は、安定した多数党の最高リーダーとなるとき最大となり、多数派を失うかそれが不安定なとき、あるいはそれと対立するとき弱められるであろう。第五共和政の40年余の歴史はそれらのことを示してきた。

 第五共和政の政治的発展は、大統領在職者の人格要因と国民議会多数派の構成とによってくぎられる。初代大統領のドゴール(在任1959~69)は、最初の間接選挙で選出されたが、1965年末に初めて行われた直接選挙で再選された。62年秋以来、安定した多数派を国民議会にもち、彼の絶大な権威と相まって、彼独自の体制を固めた。旧植民地の解消と再編を達成したのち、米ソの間でフランスの独立と偉大さを追求したが、そのきわめて国家主義的な外交政策は、今日もフランス外交の基本線とされている。68年の五月革命(学生の反乱に端を発し、ゼネストへと発展した社会危機)で打撃を受けた彼は、翌年春の国民投票で過半数を得られず、辞任した。次のポンピドー(在任1969~74)は、若干の修正や緩和はみられたが、内外政策ともにドゴール路線の保守的継承者であった。さらに次のジスカール・デスタン(在任1974~81)は、ドゴール路線を受け継ぎながら中央寄りの立場を求め、政治・社会改革も企てたが、経済危機の打開に成功しなかった。81年の大統領選挙は、政治的「大交替」の始まりである。社会党の第一書記ミッテランが三度目の挑戦により、現職の大統領を退けた。その熱狂的効果を受けて、総選挙は圧倒的な左翼多数派をもたらし、彼の社会党は左派急進党をあわせて286名(議席率58%)に躍進した。地方分権化、大企業・銀行の国有化、その他の社会改革に着手したが、1年後には経済・財政政策を厳しい引締めに改めて後退せざるをえなくなり、共産党との関係も悪化した。86年の総選挙は、経済の好転にもかかわらず、右翼の連合多数派を復帰させた。第一党ながら野党となった社会党をもつ大統領ミッテランの下に、右翼多数派を率いるシラク内閣が生まれ、いわゆる「共存(コアビタシオン)」の実験が緊張をはらんで始まった。88年5月の大統領選挙ではシラクが敗れミッテランが再選された。首相は社会党のロカールとなりコアビタシオンは解消、以降社会党による首相が続いた。しかし93年3月の総選挙では社会党が大敗し、ドゴール派(=共和国連合。RPR)バラデュールが首相となり第2次コアビタシオンが成立。95年大統領選挙はミッテランが出馬せず、RPRのシラクが当選。首相はジュペとなり、コアビタシオンは解消した。97年5月の総選挙では保守陣営は社会党を中心とする左派に敗北。大統領シラクの下、6月社会党のジョスパンが首相となり3度目のコアビタシオンとなった。2002年5月の大統領選挙ではシラクが再選を決め、首相に自由民主党(DL)副党首ラファランが任命された。6月の総選挙では保守連合が単独過半数を獲得して圧勝。これにより第3次コアビタシオンは解消された。

[横田地弘]

『河野健二著『フランス現代史』(1977・山川出版社)』『中木康夫著『フランス政治史 下』(1976・未来社)』『舛添要一著『赤いバラは咲いたか――現代フランスの夢と現実』(1983・弘文堂)』『桜井陽二著『フランス政治体制論――政治文化とゴーリズム』(1985・芦書房)』『S・ホフマン著、天野恒雄訳『フランス現代史(1)~(3)』(1977・白水社)』『P.-M. de la Gorce et B. MoschettoLa Cinquième République (Paris, P.U.F., Coll. 《Q.S.J.》, 3e éd., 1986)』

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改訂新版 世界大百科事典 「第五共和政」の意味・わかりやすい解説

第五共和政 (だいごきょうわせい)

フランスで1958年に発足し,現在に至る政体。58年5月アルジェリア戦争のさなかに軍部や植民者の反乱によって生じた第四共和政の危機がその成立の端緒であった。この危機の中で,第2次世界大戦における国民的結集のシンボルであったド・ゴールは,期待を受けて再登場し,6月1日首相に就任するや自己の指導力強化と憲法改正を目ざすとともに,反乱勢力に理解を示す姿勢をとって事態を掌握し,反乱を鎮静化させた。新憲法は9月28日国民投票で投票総数の79%の支持を得て承認され,10月4日公布された。また11月に実施された議会選挙では新たに結成されたド・ゴール派の新共和国連合(UNR)が進出して第一党となり,さらに,憲法に基づき権限を強化した大統領の地位にド・ゴールが選出され(12月21日),〈ド・ゴールの共和国〉とも呼ばれた体制が成立したのである。これは旧来の議会における政党中心の政治運営に代わり,大統領を中心にした政府の指導力を強化した体制であり,ド・ゴールは重要な政策決定にあたっては直接国民投票に訴えて信を問う方策を多用した。大統領はその後62年に国民の直接選挙で選ばれることになった。

 こうした体制の下で58年12月の新経済政策の発表を皮切りに,経済面でも国家が指導管理力を強め,産業構造の高度化を目ざす改革が進められた。とくに農業は60年および62年の農業基本法を基礎に企業的経営力をもった農家を育成し,小農経営の統合がはかられた。また,58年に発足したEECにおいてヨーロッパの市場圏統合の中でフランスの地歩強化をはかり,核兵器開発や第三世界への接近など,米ソ二大国に対抗する外交政策がとられた。植民地に関してはド・ゴールは,第四共和政のフランス連合を憲法で改組してフランス共同体とし,その下でアフリカ植民地の多くに独立を与える道を選び,アルジェリアについては軍部の反対を抑えて1962年いわゆるエビアン協定により独立を承認した。

 こうしてド・ゴール体制はフランスにさまざまな方面の転換をもたらしたが,68年のいわゆる五月革命の後,69年4月地方制度と上院改革の国民投票に敗れてド・ゴールは大統領を辞任した。以後ポンピドゥーが大統領としてド・ゴール体制を引き継いだが,74年急死し,独立共和派のジスカール・デスタンが大統領となった。さらに81年4月の大統領選挙では社会党のミッテランが当選,続く6月の議会選挙でも社会党が躍進して新政権を誕生させ,これに34年ぶりに共産党も入閣した。この政府の下で一部大企業の国有化や地方自治体議会の権限強化による分権政策,あるいは死刑廃止(1981年9月)などの改革が行われ,第五共和政は新たな転換期に入った。
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百科事典マイペディア 「第五共和政」の意味・わかりやすい解説

第五共和政【だいごきょうわせい】

1958年ド・ゴールの政界復帰と憲法改正により成立したフランスの政体。ド・ゴール大統領を頂点とする行政権の強大化,議会の権限縮小,直接国民投票の多用などが特徴。国際政治でも英・米とは異なる独自の道を歩み発言権を増大したが,五月革命後の1969年ド・ゴールは退陣。その後,ポンピドゥージスカール・デスタンと引き継がれた。1981年にはミッテランが当選し社会主義政権が誕生。大企業の国有化,地方自治体の権限強化などの政策が行われ,第五共和政に大きな転換をもたらした。その後,1995年にシラクが就任。国内外の反対をよそにムルロア環礁沖での核実験再開を強行。国内での支持率は下がり,国際的にはフランスの孤立化を招いた。
→関連項目アルジェリア戦争新共和国連合フランスフランス共同体

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「第五共和政」の意味・わかりやすい解説

第五共和政
だいごきょうわせい
La Ve République

1958年9月 28日の国民投票で承認され,10月5日に発布されて新憲法のもとで成立したフランスの共和政。新憲法によると大統領は両院議員,県会議員および市町村会議員の代表によって間接的 (1962年国民投票による直接選挙に改正) に選ばれ,任期7年。大統領は自由に首相を任命し,議会を解散しうる強い権限が与えられた。内閣は単に大統領の政策を施行する機関となり,議会の権限は大幅に制限された。この憲法の発案者 C.ドゴールは第四共和政 (46~58) 下の内閣がいずれも内政で強力な指導力を発揮できず,そのため外交でもフランスの国際政治上の地位を高めることができなかったという経験から制度の改革を思い立った。直接の契機は 58年2月のアルジェリア植民 (コロン) と現地軍の本国政府に対する反乱と,それに対する政府・議会の混乱による。同年6月国民議会から首相に推されたドゴールは,元首相級の閣僚による挙国一致内閣を組織し,アルジェリアの反乱軍をなだめつつ新憲法を国民投票にかけ,同年 12月の大統領選挙で当選を果したのち,59~62年にかけアルジェリア問題を解決,次いで米ソ二極体制 Pax Russo-Americanaに激しく挑戦し,西ヨーロッパ諸国を結集しつつ米ソへの対等外交に成功,フランスをはじめヨーロッパの地位を相対的に高める役割を果した。しかしこの体制はあまりにもドゴール色が強く,69年4月のドゴール退陣後,左翼から修正の要求が高まった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「第五共和政」の解説

第五共和政
だいごきょうわせい

フランス共和政

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世界大百科事典(旧版)内の第五共和政の言及

【ゴーリスム】より

…こうした意味でのゴーリスムが集約されたかたちで現れたのは,アルジェリア戦争のさなかの58年5月,アルジェリア現地派遣の軍隊を中心に起こった反乱が本国にも拡大したときである。この危機の中でド・ゴールは事態を救う唯一の人物として多方面の期待を集めて再登場し,その復権をファシズムの再現とみなしたフランス共産党の反対をよそに,〈挙国内閣〉を成立させ事態に対処するとともに新憲法を制定し,国民投票で圧倒的多数の承認をかちとり,第五共和政を発足(1958年10月)させた。新憲法のもと,ド・ゴールは大統領となり,大統領と政府の指導力を強化し,最大の難問アルジェリア戦争を終結(1962)させ,国際政治のうえでは,米ソ二超大国に対抗してフランスの威信を強調,第三世界諸国にも接近政策をとるなど独自の外交政策を展開する一方,国内では,〈指導された経済〉の名のもとで産業高度化を目指すなどの改革に取り組み,こうした第五共和政の政策体系や諸制度,あるいはそれを支える権力構造のあり方もまたゴーリスムの名で呼ばれることとなる。…

【フランス】より

…左翼では社会党と共産党,右翼では共和国連合(旧ド・ゴール派),フランス民主連合(中道)等が並立しており,政党間のかけひきやその都度の連携も複雑である。以前はこの政党分立が,頻繁な離合集散,内閣の交代を結果し,政治の不安定をもたらしていたが,第五共和政の下では7年間の長い任期をもつ,より強い権限をもつ大統領の下で,政治構造は比較的安定するようになった。多党政治の不安定さと頻繁な政権交代の下で統治の連続性を保障するうえで,フランスでは行政官僚制が大きな力を果たしてきた。…

※「第五共和政」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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