筑後国(読み)チクゴノクニ

デジタル大辞泉 「筑後国」の意味・読み・例文・類語

ちくご‐の‐くに【筑後国】

筑後

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改訂新版 世界大百科事典 「筑後国」の意味・わかりやすい解説

筑後国 (ちくごのくに)

旧国名。筑州。現在の福岡県南部。

西海道に属する上国(《延喜式》)。古くは筑紫国の一部であったが,律令制の成立とともに前後に分割され,その当初は筑紫後(つくしのみちのしり)国と称され,ついで筑後国となった。三瀦(みぬま)/(みむま),御井(みい),御原(みはら),山本,竹野(たかの),生葉(いくは),上妻,下妻,山門(やまと),三毛(みけ)の10郡を管し,国府・国分寺は御井郡(久留米市)に所在した。《和名抄》には田1万2800余町とある。

 景行天皇巡狩伝承には御木(みけ)国(大牟田市,三池郡),八女(やめ)国(八女市,八女郡),的邑(いくはのむら)(浮羽郡)などの名が見え,山門地方を邪馬台国の地に比定する説は有名である。5~6世紀ごろは八女地方を本拠とする筑紫君が国造として支配したが,527年の磐井(いわい)の乱後はしだいに没落した。岩戸山古墳(八女市)は磐井が生前に造っていた墓といわれ,またこれを中心とする八女古墳群はその一族の墓群といわれる。5世紀ごろから装飾古墳や石人石馬など独特の文化が発達したことも特徴的で,前者はうきは市から久留米市にかけて多く見られ,後者は阿蘇凝灰岩製で,岩戸山古墳に代表されるように,その分布は筑紫国造家の勢力圏を示すとも言われている。久留米市の高良(こうら)山と山門郡の女山(ぞやま)には7世紀に築造された山城址の神籠石(こうごいし)が見られ,うきは市から久留米市にかけての旧竹野・山本両郡域では条里制地割が今日に残り,小郡市の小郡官衙跡は御原郡衙跡に比定される。7世紀後半の百済の役には多くの人々が動員されたらしく,唐の捕虜となった上陽咩(かみつやめ)(八女)郡人の大伴部博麻は690年に約30年ぶりに帰国している。8世紀初頭の筑後守道首名(みちのおびとな)は大宝律令の編纂にも参画した学者で,肥後守を兼任して農事奨励や池溝開鑿など民政に治績をあげ,任地で没したが,当代を代表する能吏の一人に数えられる。また738年(天平10)の財政報告書である当国の正税帳正倉院に現存する。延喜式内社には三井郡の高良玉垂命神社など4社の名が見えるが,なかでも高良(こうら)神社は筑後一宮として多くの崇敬を集めた。
執筆者:

鎌倉幕府の成立とともに東国御家人が守護として入部し,筑後支配にのり出す。初代の大友能直の在職は1207年(承元1)から13年(建保1)まで確認できる。その後北条氏一門の名越時章が在職したが,72年(文永9)の二月騒動で誅され,守護職は大友頼泰に移った。建治年間(1275-78)には北条義政にかわり,義政の遁世後77年(建治3)北条時宗の弟宗政が守護となった。宗政の死後,守護は少弐経資にかわり,子の盛経に相伝された。95年(永仁3)ごろから宇都宮通房が守護となり,子の頼房に伝えられたが,鎌倉末には北条氏の手に帰した。当国の御家人としては草野氏,大城(おおき)氏,上妻(かみづま)氏,荒木氏,横溝氏,安芸氏(三池氏),酒見氏,西牟田氏などがいた。荘園としては青木荘,岩田荘,田島荘,飯得(いいえ)荘,水田荘,長田(ながた)荘,草野荘,吉田荘,船越荘などの安楽寺領荘園が多く,小家(おえ)荘,小河荘などの宇佐宮領,大石荘,山北荘などの観世音寺領,隈上(くまがみ)荘,上妻荘,原田荘などの弥勒寺領といった地方寺社領荘園も多く存在した。このほか,三潴(みづま)荘(宝荘厳院領),三池荘(近衛家領),三原荘(石清水八幡宮領),竹野荘(西大寺領),山門荘(九条家領),高良荘(長講堂領)などの中央権門領もあった。北条氏勢力は当国内にもしだいに進出し,三毛南郷堺村,竹井荘,竹野新荘などが北条氏領として確認できる。また三潴荘蒙古合戦の恩賞地として,筑後の横溝資為,肥前の白魚行覚,竜造寺家益,山代栄らに配分された。1333年(元弘3)5月の鎮西探題北条英時討滅には,三原仏見,同種昭,同覚種,宮野教心,草野円心らの筑後の武士も参加した。

建武政権が成立すると守護には宇都宮冬綱が補任され,室町幕府下でもそれが継続した。1334年(建武1)に起こった規矩(きく)高政の乱の平定には,宮野寂恵,荒木家有らが馳せ参じた。南北朝の内乱期には国人層は北朝方(幕府方)・南朝方(宮方)に分かれて争ったが,当国は九州の南朝勢力の拠点の一つになっていた。そのため幕府方は当国の宮方をしきりに攻め,38年(延元3・暦応1)鎮西管領一色範氏は菊池氏討伐のため筑後に兵を進め,40年には佐竹義尚を派遣し,またみずからも当国を転戦した。49年(正平4・貞和5)の足利直冬の九州下向によって,九州は幕府方,宮方,直冬方の3勢力に分かれて混乱したが,当国では荒木氏,三原氏らが直冬につくなど,直冬方が優勢であった。同年11月には直冬が詫磨(たくま)宗直を守護に補任した結果,幕府方の守護宇都宮冬綱とともに2人の守護が併立することになった。いっぽう宮方は53年(正平8・文和2)菊池武光が一色氏討伐のため筑前に発向し,草野永幸,木屋行実らがこれに従った。55年宮方は筑前に攻め入り,一色氏は長門に逃れた。59年(正平14・延文4)8月,幕府方の少弐頼尚と宮方の菊池武光の両軍が当国大保原(おおほばる)に戦い,少弐氏は大軍にもかかわらず敗北した(筑後川の戦)。63年(正平18・貞治2)9月には大友氏時が幕府から当国守護に補任され,守護職はそのまま子の氏継に伝えられた。71年(建徳2・応安4)九州に下向した九州探題今川了俊は守護に補任され,国内の宮方の攻略にもあたった。74年(文中3・応安7)了俊は高良山に陣をとる菊池武朝を攻め,武朝は肥後に帰国した。幕府方は当国内の荘園の半済(はんぜい)を行い,武士に給与したが,給人による荘園押領があいついだため,幕府方は半済給人の違乱停止を命じている。また懐良(かねよし)親王の跡をついだ征西将軍宮良成親王は宮方の再興をはかるため,五条氏を頼って当国黒木に滞在した。

室町期になると菊池氏が当国に勢力をのばし,国人の荘園押領の停止,国人への所領宛行,寺社への所領寄進を行った。特に当国内の太宰府天満宮(安楽寺)領荘園の保護を行っている点に特色がある。この時期の守護職は菊池氏と大友氏のあいだで争われ,1432年(永享4)幕府方についた菊池武朝が守護に補任された。62年(寛正3)には菊池為邦と大友政親がそれぞれ守護に補任されたが,しだいに大友氏の勢力が強くなり,結局守護職は大友氏の手に帰した。大友氏は家臣への所領の宛行,寺社への寄進,段米の免除等を行っている。

 戦国期にはいると,大友氏は筑後国の代官として田原親宗らを派遣して支配の強化を図り,家臣への所領宛行,所領安堵をしきりに行った。しかし在地の国人層のなかには大友氏に完全に服属しない者もおり,1550年(天文19)三池親盛,西牟田親氏が大友氏と戦うなど,大友氏の筑後経営は不安定なものであった。79年(天正7)になると肥前の竜造寺隆信が筑後に侵入し,大友氏とのあいだで戦闘が続いた。当国国人のなかには竜造寺氏につく者も少なくなかった。85年には島津氏が当国に侵入して国内を制圧したが,中央から下向した豊臣秀吉勢力の前に敗退を余儀なくされた。
執筆者:

1587年九州平定を終えた豊臣秀吉によって〈国割り〉が実施され,筑後は北部が小早川隆景(2郡。生葉,竹野等の諸説がある),毛利秀包(ひでかね)(山本,三潴等),南部が立花宗茂(山門,三池,下妻等),筑紫広門(ひろかど)(下妻)に分け与えられた。

 1600年(慶長5)の関ヶ原の戦の後,豊臣方に属した毛利秀包,立花宗茂,筑紫広門はいずれも改易された。小早川秀秋は備前に移され,そのあとに田中吉政が筑後一国を与えられて,三河国岡崎より入部した。吉政は柳河城におり,久留米城以下の7端城に二,三男および有力家臣を配した。しかし吉政の子の忠政に嗣子がなかったので,20年(元和6)に田中氏は断絶した。筑後の旧国人・土豪はその一部が新領主の家臣となったほかは帰農させられ,すでにその勢力は解体されていたが,この間,1595年(文禄4)の秀吉の腹心の部将山口玄蕃正弘による検地および1608年に始まった田中氏の検地等を通じて,近世的農村が生み出された。田中氏断絶後は丹波国福知山の有馬豊氏が北部8郡21万石を与えられて久留米に入り(久留米藩),一方,陸奥棚倉にいた立花宗茂が南部2郡11万石を得て柳河に再入部した。21年宗茂の甥の立花種次が三池郡の内に1万石を分与されて三池藩を立て,68年(寛文8)には有馬豊範が御原郡に松崎支藩を立てた(1万石,84年に廃止)。なお三池藩は1806年(文化3)に幕府に収公され,藩主立花種善は陸奥下手渡(しもてど)に移封されたが,68年(明治1)に旧地に復した。

筑後国の中心は筑後川および矢部川によって形づくられた筑後平野である。筑後川は筑後の〈母なる川〉であると同時に〈暴れ川〉である。しばしば洪水を起こし流域住民を苦しめてきたが,近世に入ってから治水事業が積極的に行われた。すでに田中氏によって堤防の築造や新川(放水路)の開削などが始められていたが,寛永年間(1624-44)以降,久留米・佐賀両藩によって体系的な治水事業が進められた。これと並んで灌漑事業も盛んに行われ,袋野,大石,床島等の取水堰(せき)が建設された。一方,矢部川でも独特の取水堰と回水路が作られ,筑後平野にクリーク網が張りめぐらされた。しかし治水・灌漑事業は自藩の利益を優先させたので,流域の二つの藩の間で道海島百間荒籠事件(1777)のような紛争が起こることもあった。柳河藩の地先の有明海は干拓の適地であったので,17世紀末ごろから盛んに干拓が行われ,黒崎開(約200ha)をはじめとする大規模新田ができた。こうして筑後平野は全国有数の穀倉地帯となった。他方,都市の建設も進み,北部の久留米と南部の柳河が城下町として両藩の経済の要の位置を占め,久留米領の松崎,田主丸(たぬしまる),榎津(えのきづ)等,柳河領の三池,瀬高等の在町がその補完的役割を果たした。松崎,府中,羽犬塚(はいぬづか),瀬高を経由する街道は南北九州を結ぶ幹線道路で,肥後や薩摩の諸大名の参勤路でもあった。このほかおもな街道としては久留米-柳河-三池,久留米-日田を結ぶものがあった。また筑後川は久留米領や上流の幕府領の年貢米その他の貨物の重要な輸送路となり,沿岸に城下の瀬下(せのした)ほか多くの河岸が作られ,河口の榎津や若津は貨物輸送の中継地として栄えた。

 18世紀に入ると農業技術の改良がすすみ,水田除草用の雁爪(がんづめ)や灌水車の万右衛門車などの考案もあって生産力が高まった。商品生産もすすみ,菜種や櫨(はぜ)などが広く栽培された。とくに櫨は松山種や伊吉(いいき)種などの新品種の創出があって栽培が普及し,今も各地にその名ごりをとどめている。南部の三池では1721年(享保6)に平野炭坑がひらかれ,石炭の採掘が始まった。手工業では菜種油や櫨蠟(はぜろう)のほか,山間部の八女地方で紙,茶の生産が発達し,久留米城下の井上伝による久留米絣の創案があった。また18世紀には藩財政立直しのための藩政改革が行われ,それが農民経済を圧迫したので,久留米領で1728年および54年(宝暦4)に大規模な農民一揆が起こった。文化の面では儒学者合原藤蔵,樺島石梁(以上久留米),安東省庵・節庵(柳河)らが思想界に重きをなした。また久留米藩主有馬頼徸(よりゆき)は数学をよくし《拾璣算法(しゆうきさんぽう)》を著し,久留米出身の発明家田中久重は〈からくり儀右衛門〉と称され,全国に名を馳せた。

 1871年(明治4)7月の廃藩置県で久留米,柳河,三池の各藩はそれぞれ県となったが,同年11月に三潴県に統合された。三潴県は76年4月に肥前国9郡(佐賀県)を併合したが,同8月に分離,そして筑後一国は福岡県に編入されて今日に至っている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「筑後国」の意味・わかりやすい解説

筑後国
ちくごのくに

福岡県南部の旧国名。西海道(さいかいどう)の一国。『延喜式(えんぎしき)』の等級は上国で、遠国に属す。初め筑前国とあわせて筑紫(つくし)国といい、筑紫君の本拠地であった。7世紀末の律令(りつりょう)制の成立とともに前後に分割され、分割当初は筑紫後国(つくしのみちのしりのくに)と称したが、のち筑後国となった。御原(みはら)、生葉(いくは)、竹野(たかの)、山本、御井(みい)、三潴(みぬま)、上妻(かむつま)、下妻(しもつま)、山門(やまと)、三毛(みけ)の10郡に分かれ、54郷(和名抄(わみょうしょう))が存在した。国府、国分寺は御井郡(久留米(くるめ)市)にあった。荘園(しょうえん)は、御原郡に三原荘(石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)領)、生葉郡に大石荘(観世音寺(かんぜおんじ)領)、竹野郡に竹野荘(西大寺領)、御井郡に草野荘(安楽寺領)、三潴郡に三潴荘(宝荘厳院(ほうしょうごんいん)領)、上妻郡に吉田荘(安楽寺領)、下妻郡に水田荘(安楽寺領)、山門郡に小河荘(宇佐宮領)、三毛郡に三池荘(近衛(このえ)家領)などがあった。

 鎌倉幕府が成立すると、東国御家人(ごけにん)の大友能直(よしなお)が守護として入部した。その後、守護職(しゅごしき)は大友氏から北条氏、少弐(しょうに)氏、宇都宮(うつのみや)氏を経て、鎌倉末期にはふたたび北条氏に移った。建武(けんむ)政権が成立すると、宇都宮冬綱(ふゆつな)が守護に任じられたが、南北朝の内乱には当国の国人(こくじん)層も北朝方、南朝方に分かれて争い、足利直冬(あしかがただふゆ)が九州に下向すると、北朝方、南朝方、直冬方の3勢力に分かれて混乱した。1359年(正平14・延文4)征西将軍宮懐良(かねよし)親王を奉じて北上した肥後の菊池武光(たけみつ)は、大保原(おおほばる)において少弐頼尚(よりひさ)を破り、さらに大宰府(だざいふ)を占領して北部九州を制圧した。しかし九州探題今川了俊(りょうしゅん)が九州に下向すると北朝方の反攻が始まり、征西将軍宮は矢部山中に追われた。室町時代になると、菊池氏と大友氏が守護職を争ったが、しだいに大友氏が優勢となり、大友氏が筑後を支配することになった。1578年(天正6)大友氏が日向(ひゅうが)耳川の戦いで島津氏に大敗を喫すると、国人層は大友氏から離反し、肥前の龍造寺(りゅうぞうじ)氏の勢力が及ぶようになった。1585年には島津氏が侵入して当国を制圧したが、豊臣(とよとみ)秀吉の出兵によって撤退した。

 1587年九州を平定した豊臣秀吉は、北部2郡を筑前一国および肥前2郡とともに小早川隆景(こばやかわたかかげ)に与え、毛利秀包(ひでかね)を久留米に、立花宗茂(むねしげ)を柳河(やながわ)に、筑紫広門(ひろかど)を福島(八女(やめ)市)に封じた。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いののち、西軍に属した毛利、立花、筑紫の各氏が改易され、小早川氏が備前(びぜん)に転封されて、田中吉政(よしまさ)が柳河に入り筑後一国を支配した。しかし吉政の子忠政(ただまさ)に嗣子(しし)がなかったため、田中氏は1620年(元和6)に断絶し、そのあと有馬豊氏(とようじ)が北部8郡21万石を与えられて久留米に入部し、南部2郡11万石はふたたび立花宗茂に与えられ宗茂は柳河に入部した。翌21年宗茂の甥種次(おいたねつぐ)が1万石を分与されて三池(みいけ)藩が成立したが、1806年(文化3)幕府に収公され、1868年(明治1)旧地に復した。また1668年(寛文8)には久留米藩の支藩松崎藩1万石が立てられたが、1684年(貞享1)廃藩となった。

 近世の筑後国は全国でも有数の穀倉地帯であり、商品作物としてはナタネ(菜種)やハゼ(櫨)などが広く栽培されていた。三池では18世紀の前半から石炭の採掘が行われており、手工業としては久留米城下の久留米絣(がすり)が有名であった。

 1871年(明治4)7月の廃藩置県によって、久留米、柳河、三池の各藩はそれぞれ県となり、同年11月三潴(みづま)県に統合された。1876年4月三潴県は肥前国9郡(佐賀県)を併合したが、同年8月にはこれを分離し、筑後一国は福岡県に編入されて現在に至っている。

[柴多一雄]

『『福岡県史』全4巻(1962~65・福岡県)』『竹内理三編『福岡県の歴史』(1956・文画堂)』『平野邦雄・飯田久雄著『福岡県の歴史』(1974・山川出版社)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「筑後国」の意味・わかりやすい解説

筑後国
ちくごのくに

現在の福岡県南西部。西海道の一国。上国。もと筑前国とともに筑紫国であった。『日本書紀』継体天皇 21年の条には筑紫国造磐井 (いわい) が新羅と結んで大和朝廷に反したが,当国はその本拠地であった。国府は久留米市合川町,国分寺は久留米市国分町。『延喜式』には御原,生葉 (いくは) ,竹野,山本,御井,三瀦 (みぬま) ,上妻,下妻,山門,三毛の 10郡があり,『和名抄』には郷 54,田1万 2800町が記されている。鎌倉時代には文治2 (1186) 年草野永平が筑後国在国司,押領使に補せられた。鎌倉時代の守護は,大友氏,北条一門,武藤氏,宇都宮氏の間を転々としていたが,建武中興の時代には少弐 (しょうに) 氏が守護となった。今川了俊が九州探題として下向すると,筑後はその支配下に入った。戦国時代には豊後の大友氏の勢力が強く当国に及んだが,龍造寺氏,次いで島津氏の支配となった。のち立花宗茂が柳川を,毛利秀包が久留米を領し,さらに筑前の小早川隆景が隣接の3郡を領した。関ヶ原の戦い後は一時,田中吉政が柳川に封じられて筑後全域を支配したが,その後有馬氏が久留米 21万石,立花氏が柳川 10万 9600石を領し,立花氏支族がその支藩三池1万石を領した。明治維新を経て明治4 (1871) 年7月各藩は県となり,同 11月三潴 (みずま) 県となったが,1876年福岡県に編入。

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藩名・旧国名がわかる事典 「筑後国」の解説

ちくごのくに【筑後国】

現在の福岡県南部を占めた旧国名。古くは筑前(ちくぜん)国(福岡県北西部)とともに筑紫(つくし)国を形成。律令(りつりょう)制下で分割され西海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の久留米(くるめ)市におかれていた。鎌倉時代大友氏守護として関東から入部。南北朝時代九州探題の支配下にあったが、室町時代は在地豪族が割拠した。戦国時代に大友氏が勢力を増すが、1585年(天正(てんしょう)13)に島津氏が、ついで豊臣秀吉(とよとみひでよし)が制圧した。江戸時代には久留米藩柳河(やながわ)藩、三池藩の3藩がおかれた。1871年(明治4)の廃藩置県により三瀦(みずま)県となったが、1876年(明治9)に福岡県に編入された。◇筑前と合わせて筑州(ちくしゅう)ともいう。

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百科事典マイペディア 「筑後国」の意味・わかりやすい解説

筑後国【ちくごのくに】

旧国名。西海道の一国。現在の福岡県南部。もと筑紫(つくし)。7世紀末ころに筑前・筑後2国に分けた。古くから文化が開け,一説に邪馬台(やまたい)国所在地。《延喜式》に上国,10郡。近世は有馬氏の久留米藩,立花氏の柳川・三池2藩が置かれた。→筑後川の戦柳川藩
→関連項目九州地方福岡[県]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「筑後国」の解説

筑後国
ちくごのくに

西海道の国。7世紀末に筑紫国が前後にわかれて成立。現在の福岡県南部。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では御原(みはら)・山本・御井(みい)・竹野(たかの)・生葉(いくは)・上妻・下妻・三瀦(みむま)・山門(やまと)・三毛(みけ)の10郡からなる。国府は御井郡内を三遷(いずれも現,久留米市),国分寺・国分尼寺も同郡(現,久留米市)におかれた。一宮は高良(こうら)大社(現,久留米市)。「和名抄」所載田数は1万2800余町。「延喜式」では調庸は綿・絹・布など,中男作物は油や海産物。筑紫国造磐井(いわい)の墓とされる岩戸山(いわとやま)古墳や石人山古墳,日岡(ひのおか)・珍敷塚(めずらしづか)などの装飾古墳,高良山神籠石(こうらさんこうごいし)などの遺跡がある。平安時代末には東寺・太宰府天満宮安楽寺などの荘園が乱立。鎌倉~南北朝期には大友・武藤・北条・今川の各氏などが守護となり,室町時代にはおおむね大友氏の支配をうけた。江戸時代には久留米・柳川・三池の3藩にわかれる。1871年(明治4)の廃藩置県の後,三瀦(みずま)県となり,76年福岡県に合併された。

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