筑後川の戦(読み)ちくごがわのたたかい

改訂新版 世界大百科事典 「筑後川の戦」の意味・わかりやすい解説

筑後川の戦 (ちくごがわのたたかい)

南北朝中期の1359年(正平14・延文4)九州筑後川流域における宮方(征西将軍宮,菊池武光)と武家方少弐頼尚ら)との合戦。とくに8月6日大保原(現,福岡県小郡市)での合戦は激しかった。現存する古文書によれば,この合戦には双方とも肥前筑前筑後など北九州の武士が多く参加している。合戦の状況は《太平記》に詳しいが,これによると宮方の主力肥後勢の菊池一族・名和一族や筑後勢で,武家方としては少弐氏の一族・被官や管国筑前・豊前・肥後などの武士が多くみえ,宮方の兵数8000余騎,少弐方の方は6万余騎となっている。非常な激戦とみえ,少弐頼尚の子息直資は戦死,征西将軍宮自身も負傷したらしい。一応,宮方が勝利したらしく,少弐軍は敗退して大宰府に帰っている。現在,小郡市や三井郡大刀洗町など,大保原古戦場とその周辺には合戦にちなむ遺跡が多い。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「筑後川の戦」の解説

筑後川の戦
ちくごがわのたたかい

1359年(延文4・正平14)8月,筑後国御原郡大保原(おおほばる)(現,福岡県小郡市)で征西将軍懐良(かねよし)親王を奉じる肥後の菊池武光ら南朝方と少弐頼尚(しょうによりひさ)の北朝方が衝突した戦。懐良親王は観応の擾乱(じょうらん)による北九州北朝勢力の分裂を利用して勢力を拡張し,55年(文和4・正平10)に頼尚が南朝に帰順した機会に大宰府に進攻し,九州探題一色範氏を追った。しかし59年春に頼尚が幕府方に転じたため,菊池武光を招き本拠地の筑後国府中の高良(こうら)山(現,久留米市)から北上,大宰府から南下した頼尚と戦った。頼尚は敗退したが,懐良親王も重傷を負い,武光は追撃を断念して肥後に帰還。少弐氏はこれ以後勢力を回復できず,九州の南朝勢力は最盛期を迎える。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

百科事典マイペディア 「筑後川の戦」の意味・わかりやすい解説

筑後川の戦【ちくごがわのたたかい】

1359年九州の筑後川をはさんで行われた,菊池武光,懐良(かねよし)親王ら南朝軍と少弐頼尚ら足利軍との戦い。敗退した少弐軍は大宰府に引き揚げ,九州は一時南朝の支配下にはいった。
→関連項目筑後国

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

世界大百科事典(旧版)内の筑後川の戦の言及

【筑後国】より

…55年宮方は筑前に攻め入り,一色氏は長門に逃れた。59年(正平14∥延文4)8月,幕府方の少弐頼尚と宮方の菊池武光の両軍が当国大保原(おおほばる)に戦い,少弐氏は大軍にもかかわらず敗北した(筑後川の戦)。63年(正平18∥貞治2)9月には大友氏時が幕府から当国守護に補任され,守護職はそのまま子の氏継に伝えられた。…

※「筑後川の戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

脂質異常症治療薬

血液中の脂質(トリグリセリド、コレステロールなど)濃度が基準値の範囲内にない状態(脂質異常症)に対し用いられる薬剤。スタチン(HMG-CoA還元酵素阻害薬)、PCSK9阻害薬、MTP阻害薬、レジン(陰...

脂質異常症治療薬の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android