築地ホテル館(読み)つきじほてるかん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「築地ホテル館」の意味・わかりやすい解説

築地ホテル館
つきじほてるかん

東京・築地に建てられた日本人の手による最初の西洋風ホテル兼貿易所。築地鉄砲州(てっぽうず)の幕府海軍操練所の跡地に外国人居留地が設けられ、そこに、アメリカ人ブリジェンスR. P. Bridgens、2代目清水喜助(しみずきすけ)設計による2階建て洋風建築が、1868年(慶応4)落成した。敷地約7000坪(約2万3000平方メートル)、建坪約830坪(約2700平方メートル)、間口42間(約76メートル)、奥行40間(約73メートル)で、木造、瓦(かわら)屋根、外装生子(なまこ)壁、内壁は漆食(しっくい)塗り、木部はペンキ塗りであった。客室は102室で、1泊3ドルであったという。1872年(明治5)銀座方面の大火の際に類焼し、わずか4年で姿を消した。

[大藤時彦]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「築地ホテル館」の意味・わかりやすい解説

築地ホテル館
つきじホテルかん

慶応4(1868)年東京の築地居留地に建てられた,半官半民のホテルを兼ねた貿易所。第一国立銀行(→第一銀行),為替バンク三井組(→三井銀行)などと並んで明治初期の洋風建築の先端をいく建築物として錦絵にもなった。中央に塔屋がそびえる木造 2階建て,日本固有の土蔵造りで,腰壁にはなまこ壁が採用された。設計はアメリカ人技師 R.P.ブリジェンスと清水喜助合作。3年後の明治4(1871)年民営に移ったが,翌同 5(1872)年2月26日京橋一帯の大火のため焼失した。

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世界大百科事典(旧版)内の築地ホテル館の言及

【近代建築】より

…それらは大工棟梁や職人の活躍に負うもので,在来の構法を駆使しつつ洋風らしさを表現しようとした。築地ホテル館(1868,東京)や第一国立銀行(1872,東京)などを造った清水喜助はその代表的人物である。またそのような木造洋風建築は,学校,病院,役場などを対象として全国的に普及した。…

【清水建設[株]】より

…1804年(文化1)初代清水喜助が江戸神田で大工(だいく)業を創業したことに始まる。2代目清水喜助のときに洋風建築を手がけるようになり,68年(明治1)には日本初の西洋式ホテル築地ホテル館を,72年には三井組ハウス(後の第一国立銀行)を建設した。その後も,明治,大正,昭和を通して建築業務を中心に事業展開し,第一生命館(皇居前),日比谷公会堂など有名な建築物を建設している。…

【築地居留地】より

…居留地は,そこだけ外国人の居住・営業を許し,治外法権を認めた特別地域で東京の中の外国であった。69年にはこの居留地内の運上所隣接の電信局と横浜裁判所東角の電信局との間にはじめて一般公衆用の電信が交わされるようになったり,教会やミッション・スクール等が開設されたり,また近くには外国人専用の築地ホテル館(1868完成,72焼失)ができるなど,居留地周辺は独特の開化風俗がただよい,錦絵の題材ともなった。居留地廃止の翌1900年には,それまであった築地病院が宣教師によって整備され,聖路加国際病院が創立されるなど,のちのちまで旧居留地の異国情緒は濃厚に残されていた。…

【ホテル】より


[日本のホテル]
 日本におけるホテルは,江戸時代末期から明治初めにかけて,外国人のための宿泊施設として建設された。本格的なものとしては1868年(明治1)に東京で竣工したホテル館(別名,築地ホテル館)が最初とされる。そして90年には日本を代表するホテルとして帝国ホテルが開業した。…

【レストラン】より

…当時ホンコンで刊行されていた年刊の《ザ・クロニクル・アンド・ダイレクトリー》1864年版に〈Adair Henry,Clerk“Golden Gate”restaurant,Yokohama〉と見える。江戸では68年(慶応4)に築地ホテル館が竣工した。このホテルのシェフはフランス人のベギューで,その料理は外国人客に好評であったとサムエル・モスマンはその著《ニュー・ジャパン》に記している。…

※「築地ホテル館」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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