紫雲寺潟(読み)しうんじがた

日本歴史地名大系 「紫雲寺潟」の解説

紫雲寺潟
しうんじがた

現在の紫雲寺町・中条なかじよう町・加治川かじかわ村の地域に江戸時代中期まであった潟湖。古くこの地域は海であったが、加治川今泉いまいずみ川・胎内たいない川などが山手から運んだ土砂とおもに冬季の季節風によって運ばれた海砂が堆積し、潟湖を形成した。正保国絵図には塩津しおづ潟とあり、長一里半・横一里半と記される。同図によれば潟湖には南西部から加治川が、中央部からは今泉川、北東部からは船戸ふなと川が流入し、築地ついじ(現中条町)付近から流出、地本じもと(現中条町)で胎内川を合せ、桃崎ももざき(現中条町)あら川に合流して日本海に注いでいた。また加治川・阿賀野川・信濃川を経て新潟湊へ至る舟運も開けていた。紫雲寺潟とよばれるようになった時期は不明であるが、元禄一三年(一七〇〇)の岩船蒲原郡絵図(新発田市立図書館蔵)にも塩津潟とあり、紫雲寺潟の名が文献に登場するのは宝永期(一七〇四―一一)以降である。

〔干拓前史〕

紫雲寺潟が享保期(一七一六―三六)に干拓される以前、湖岸には農耕や漁猟に従事する四五ヵ村ほどの村があったが、加治川などが氾濫するたびに潟の湖面が上昇して耕地を水没させる常襲の水害地帯であった。湖水を日本海へ流出させて安定的な耕地にすることは湖畔の村々の早くからの願いであったが、新潟湊の反対もあってなかなか実現しなかった。当時加治川は真野原まのはら辺りで流路を南西に変え、日本海に沿うように流れて阿賀野川に合流、さらに信濃川に合流して河口の新潟湊に注いでおり、紫雲寺潟で水を落されると、信濃川の水量が減少して河口の水位が下がり、港としての機能が損われるとして、新潟湊の人々は反対したのである。

湖岸村民の交渉の結果、紫雲寺潟に排水路を付けて湖水を海に落す工事が新潟湊の承認のもとに計画されたのは宝永六年であった。享保六年三月一七日に排水堀の開削に着手し、同年五月一〇日には長さ一千六〇〇間、深さ七尺の排水堀が竣工し、落堀おちぼりとよばれるようになる。この排水堀はそれまで長者ちようじや堀とよばれていた排水路の跡を新たに開削したもので、長者堀は以前に真野長者という人が湖水を海へ排出しようと計画したが実現しなかった排水路といわれている。しかし、落堀は深さ七尺という小規模なものであったため、両岸が崩壊したり、風のため土砂が堆積して埋没したりして、大量の水を排出するまでには至らず、しかも紫雲寺潟の水が減少すると、かえって諸河川の水は以前よりいっそう強く紫雲寺潟へ流入するようになってしまい、紫雲寺潟はあいかわらずもとの状態に近いままであった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の紫雲寺潟の言及

【紫雲寺[町]】より

…越後平野北部にあり,日本海に面する。加治川分水東岸の砂丘地帯と紫雲寺潟干拓地からなる。紫雲寺潟は東西8km,南北4kmの,蒲原低湿地中最大の潟湖であったが,1728年(享保13)から8年かけて,初めは竹前権兵衛,小八郎,その後は幕府の直轄事業で加治川の瀬替えによる干拓が行われ,広大な水田地帯となった。…

※「紫雲寺潟」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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