経済思想(読み)けいざいしそう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「経済思想」の意味・わかりやすい解説

経済思想
けいざいしそう

人間が生きていくためには、生活に必要な物を生産し、分配し、消費し、廃棄する行為を不可欠とする。この行為は、今日ではさまざまな社会関係を伴っているだけでなく、同時にさまざまな経済思想に基づいて展開されている。古代、中世、近世の経済史をみてもわかるように、それは家族、民族、国家が人間の衣食住の問題をどのように解決してきたかという歴史である。そこにはいつも、経済における人間の生き方である経済思想の歴史があった。しかし、その経済思想は、倫理的、哲学的な衣をまとった形で表現されることが多く、思想として独立した形をとることはなかった。一般的にいって、経済思想が政治思想、社会思想、教育思想の土台として、一つの形をもって登場したのは、近代資本主義社会形成以後であった。ここではまず、これまでの経済思想を歴史的に概観したうえで、従来の経済思想を再生しつつ同時に新しく創造されつつある現代の経済思想をみることにしたい。

[清水嘉治]

重商主義・重農主義の経済思想

重商主義(マーカンティリズム)と重農主義(フィジオクラシー)はともに、ヨーロッパの封建社会から資本主義社会への移行期に現れた経済思想である。まず重商主義が16世紀ごろにイギリスをはじめフランス、ドイツなどヨーロッパ諸国に現れ、重農主義は18世紀のフランスに現れた。

 重商主義の経済思想を典型的に示しているのは、フランスのブルボン朝の国王ルイ14世によって1665年に財務総監に任ぜられたJ・B・コルベールであった。彼はこういった。「国家の偉大さと力とに差異を生じさせるのは、ただ国内における銀の豊富さのみである」と。重商主義は、当時の絶対主義国家の国王が貴金属・貨幣・富の獲得をめぐって、自国の経済発展を求めた経済思想であった。国王は、その目的を達成するために、国内の産業を育成するとともに、外国貿易にあたっては、輸入を制限し、輸出を奨励することによって貿易上の差額を拡大した。この貿易差額によって、国王は金銀を獲得して王室財政を強固にし、商業資本家や産業資本家は自己の立場を固めたのである。

 こうした経済思想に対して重農主義者たちは反対した。つまり重商主義の経済思想は、絶対主義国家(国王)の財政を強化し、人民を抑圧し、排外主義を強制するものであると考えた。事実フランスでは、先のコルベールが重商主義政策を強化したために、農民の生活は困窮の度を増した。重農主義の主唱者F・ケネーは、歴史的名著『経済表』(1758)を著し、農民を自立した生産者として位置づけ、農業を合理的に経営することがフランスの経済の繁栄につながることを科学的に解明した。そしてそのためには商工業の保護は撤廃されなければならず、すべての経済の営みは自由に個々人の欲するままに行われなければならないと主張した。すでに彼は、この時点で自由放任の経済思想を示した経済学者であった。しかし、この重農主義の経済思想は、フランス以外ではほとんど受け入れられなかった。

 先にも述べたように、重商主義の経済思想は、絶対主義国家(国王)の権力を維持するための富と財貨の蓄積にあったが、同時にそれは、新興資本家階級を台頭させることになった。この新興資本家階級は、やがて新しい政治体制を求めて政治的な闘争を行うようになり、市民革命、産業革命を経て、資本主義国家体制の樹立に成功するのである。

[清水嘉治]

自由主義・保護主義の経済思想

資本主義の経済思想にはいくつかの型があるが、18世紀後半から19世紀にかけて現れた大きな流れとしては、自由主義と保護主義の経済思想があげられる。自由主義の経済思想は、個人の利益の追求が、同時に公共の利益に一致するという思想である。この点は重商主義の経済思想と根本的に違っている。個人と社会の間には、さまざまな紆余(うよ)曲折があっても、結局は利害の一致と調和が可能なのだから、個人の判断と自由に任せればよく、政府の統制や干渉は必要ないというのである。イギリスの経済学者A・スミスはこの思想の代表者であるが、その名著『国富論』(1776)のなかで、利己心こそ経済を動かす唯一の導き手であると考え、人々は「見えざる手」の働きによって、いつのまにか社会の生産力を増大し、国富を増やし、公共の福祉と国家の繁栄をもたらすのであるという経済思想を説いた。つまりスミスは、自由競争=自由放任の経済思想こそ資本主義発展の原動力と考えたのである。だがスミスは、マンチェスター学派の人々のように、経済と政治をまったく切り離し、自由放任のみを説いたのではない。スミスは、個別産業資本家の利益が公共の福祉と一致する限りにおいて自由放任を説き、また自由競争も正義の限界を越えないように個人は道徳心をもって行動しなければならないと説いた。この自由主義の経済思想は、18世紀のイギリスにおいては、当時新しく台頭した産業資本家階級の経済思想として定着するようになった。

 しかしながら、資本主義の発達が遅れたドイツにおいては、自由主義の経済思想をそのまま受け入れえない社会状況にあり、これにかわって、国家が個人の経済活動に対して保護統制を加えなければならないという保護主義の経済思想がおこった。たとえばF・リストは、『経済学の国民的体系』(1841)を著し、スミスは国民の存在を認識せず、国民的生産力の本質を把握していないと批判し、諸国民の発展段階の相違から、先進国では自由主義原理がとられても、後進国では保護主義原理を採用しなければならないと考え、保護貿易主義的経済政策を主張した。リストにとっては、スミスのいう自由主義の経済思想は、イギリスとドイツが同じ生産力水準に到達して同等の立場にたったときに初めて有効性を発揮できる経済思想だったのである。

 スミスの自由主義とリストの保護主義の経済思想は、当時の先進国イギリスと後進国ドイツの経済発展の違いを反映したものであった。それはまたイギリス啓蒙(けいもう)主義とドイツ歴史主義の違いとなって現れた。イギリス啓蒙思想は、社会や国家よりも個人の権利を重視したのに対して、ドイツ歴史主義は、個人の権利よりも国家を重視し、伝統を重んじたのである。

[清水嘉治]

社会主義の経済思想

社会主義の経済思想は、資本主義の成熟期のなかで生まれた。資本主義の発展は、一方における富の蓄積と他方における貧困の蓄積となって現れた。すなわち、資本主義的な生産が発達するにつれて、先進各国とも生産力は目覚ましい勢いで伸び、社会の富を増大させたが、分配関係がうまくいかず、貧富の階級対立が顕著となった。

 このような状況のなかで、まず、18世紀末から19世紀初めにかけての産業革命期に、フランスのサン・シモン、フーリエ、イギリスのR・オーエンらによって、資本主義社会におけるゆがみから人間を解放するものとして、共同社会の思想が主張された。しかし、彼らの主張はユートピア的なもので、それを実現する主体については明確にされていなかった。彼らは、まだ資本主義社会を労働者階級と資本家階級の対立する社会としてとらえていなかった。したがって、主体としての労働者階級をみいだすことはできなかったのである。彼らの思想は空想的社会主義とよばれている。人間の平等を経済の仕組みのなかで考えた点は評価すべきであろう。今日、こうした社会改革の思想は、社会思想の古典思想のジャンルとして見直されている。

 その後、イギリス、ドイツ、フランスでは、資本主義体制の枠内で、貧富の階級対立を改良的に解消していこうとする社会改良主義の経済思想が生まれた。イギリスにおけるフェビアン主義などが、その代表的な思想である。一方、K・マルクスは、資本主義の基本矛盾を生産の社会性と所有の私的性格に求め、資本主義の運動法則を解明した。これが『資本論』(第1巻1867、第2巻1885、第3巻1895)であった。彼は、貧富の対立の原因を資本主義的生産関係そのものに求めたのであるから、この関係を撤廃しなければ真の解決はありえないとして、労働者階級を主体とする社会主義国家の実現を目ざした。この経済思想を「科学的社会主義」ともよんでいる。

[清水嘉治]

帝国主義の経済思想

1870年から1890年ごろまでのヨーロッパは断続的に大不況に直面した。この大不況克服策として、イギリス、ドイツ、フランスの各資本主義国は、それぞれ政策対応のずれをみたものの、自由競争を否定する独占組織(カルテル、トラスト、コンツェルン)を容認し、貿易政策でも自由貿易よりも保護貿易を志向するようになった。まず「世界の工場」であり「世界の銀行」であるといわれたイギリスは、帝国主義的経済政策として新しい植民地獲得政策と世界市場の再分割を志向した。イギリスの帝国主義者は、アジア、アフリカなどの植民地を、イギリス本国の原料・資源、極端に安い労働力の供給基地として、また資本輸出市場として位置づけた。当時のイギリスの保守政治家J・チェンバレンは、帝国主義を「賢明な経済政策である」と主張した。このようなイギリスの動きに対して、ドイツのO・ビスマルクは、対外的にはイギリスに対抗するために、保護関税政策を採用するとともに、国内的には、一方で各種の社会保険法を立法化すると同時に、他方で社会主義者鎮圧法を制定し、「アメとムチ」の政策を強行した。フランスでは、イギリス、ドイツと違って、巨大銀行資本を中心に対外借款による莫大(ばくだい)な収益をあげる高利貸的帝国主義の経済政策を打ち出した。当時フランスのロシアへの巨額な借款が目だっていた。

 このような19世紀末期から20世紀初頭にかけて登場した帝国主義経済思想は、厳しい批判を受けた。すなわち、イギリスの経済学者J・A・ホブソンは『帝国主義論』(1902)で、イギリス政府を南アフリカに対する帝国主義的侵略であると批判した。帝国主義の経済的寄生者は、金融業者であり、大投資家であり、高級軍人であり、高級官吏であることを明らかにした。彼は帝国主義の原因を国内での所得分配の不平等による過剰資本に求め、これを政策的に改良すれば帝国主義の侵略性を防止できると主張した。また、ドイツの経済学者R・ヒルファーディングは『金融資本論』(1910)において、銀行資本による産業資本の支配関係を金融資本とよび、この金融資本の分析を通じてドイツ帝国主義批判を理論的に展開し、帝国主義の経済思想は、独占資本主義期の支配資本である金融資本の蓄積の仕組みと密接に結び付いていることを明らかにした。さらに、ロシアの革命指導者レーニンは1917年に『帝国主義論』を著し、帝国主義の五つの特徴として、
(1)資本主義の発展の結果、生産と資本の集積・集中がおこって独占体を導き出したこと
(2)産業資本と銀行資本とが結合して金融資本となり、全産業に対する金融寡頭制をもたらしたこと
(3)資本輸出が大きな意味をもったこと
(4)国際独占体の成立によって世界の分割が完了していること
(5)資本主義強国によって領土分割が完了していること
などを指摘し、こうしたことが帝国主義列強による再分割のための戦争を必至とすると主張した。

 ホブソン、ヒルファーディング、レーニンは、共通して、当時の帝国主義経済思想または経済政策思想を、実証的、理論的に批判したのである。1914年に勃発(ぼっぱつ)した第一次世界大戦は、まさにこのような帝国主義の矛盾の爆発としての帝国主義戦争であった。そして、大戦末期の1917年にはロシアに社会主義革命が起こったのである。

 第一次世界大戦後、世界経済はふたたびかつての自由主義の状態に戻ることができるかのように思われた。しかし、1929年10月24日アメリカのウォール街のパニックに端を発した世界恐慌は、この幻想に終止符を打った。

 資本主義の危機は、当然のことながら、先進資本主義国よりも後進資本主義国において顕著であった。この危機を打開するために現れたのが、ファシズムの経済思想である。それは、国家権力で個人主義や世界主義を排して、国民、民族の立場を強調し、人民を押さえ帝国主義的な独裁制をとる全体主義の思想である。このファシズムの経済思想は、ドイツをはじめとして、イタリア、日本などで高まりをみせ、やがて第二次世界大戦へと突入したのである。1945年、ドイツ、イタリア、日本は敗北した。第二次世界大戦は人類史上最大規模の戦争であり、60か国を巻き込み、死者は3000万人を超えると推定された。

[清水嘉治]

現代の経済思想

第二次世界大戦後、1980年代までの経済思想は、大きく三つに分けることができた。第一は、アメリカ、西ヨーロッパ、日本に代表される現代資本主義の経済思想であり、第二は、ソ連、東欧、中国に代表される現代社会主義の経済思想であり、第三は、戦後植民地体制の崩壊によって自立化を目ざしてきた開発途上国にみられる経済思想であった。しかし、1989年から1990年代に入ると、ソ連、東欧の社会主義体制が相次いで崩壊し、経済思想の世界地図は大きく塗り変えられた。

 第一の現代資本主義の経済思想は、古典的経済思想とは著しく異なり、市場経済と計画経済の混合経済体制を取り入れている点に特徴がある。先進国は、戦前と違って政府部門や公共部門の経済規模が大きくなり、その負担の増加を抱えながら経済の運営を進めることを余儀なくされている。たとえば、アメリカは依然として軍事経済を拡大してはいるが、民需部門の需要拡大策やインフレ抑止策、雇用政策福祉政策なども計画的に実行するようになった。イギリスやスウェーデンでは、労働党や社会民主党の政権が、「福祉国家」を経済政策思想の中心に置き、広範な社会保障と完全雇用を実現しようとしている。またフランスでも、一時社会党の政権によって、公共部門を拡大し、雇用政策を図ったり、地方分権化の経済を志向している。日本の政権与党も、未曽有(みぞう)の財政危機のなかで、行政改革や福祉政策や物価抑制政策をなかば計画的に採用せざるをえなくなっている。現代資本主義の経済思想は、それぞれの歴史的条件と社会的条件の違いを示しつつも、国民のニーズにこたえるために経済成長と安定を計りつつ雇用機会の拡大と社会保障政策の充実をどのように実現するかをめぐって苦心しながら展開している。

 だが、現代資本主義または世界経済は、生産力の不均等発展を示している。1980年代なかばには、アメリカ、ヨーロッパ共同体(EC、1993年以降EU(ヨーロッパ連合))、および日本の生産力は不均等に発展し、アメリカに対してEU、日本は追いつき追い越す力をみせた。アメリカの産業の競争力は低下し、日本経済の競争力が上昇し、1985年にアメリカは世界一の債務国家、日本は世界一の債権国家になった。1990年代に入ると、アメリカ、EUの産業の競争力は向上したのに対して、日本は1991年以降、長期複合不況に突入した。1990年代のアメリカは着実な成長を続け、1998年2月財政赤字をゼロにした。EUも1999年1月から通貨統合を実現し、地道な成長をみせている。だが2008年9月15日、アメリカの大手金融業リーマン・ブラザーズが破綻(はたん)し、米欧は金融大不況の深刻な危機に直面した。もちろん日本も実体経済に打撃を受け不況は深まっている。2009年1月オバマ大統領は就任にあたって積極的な新経済政策を打ち出し、とくにグリーン・ニューディールが注目されている。

 第二の現代社会主義の経済思想は、中央集権的な計画的経済運営を基本とするものである。しかし、戦後になって社会主義がソ連一国から多数の国々に拡大すると、1950年代後半以降、建設路線や方式をめぐって各国でかなりはっきりした相違が生じてきた。ソ連は中央集権的経済計画を維持してきたが、経済改革は党官僚の支配によりうまくいかなかった。ハンガリーとユーゴスラビアは、社会主義経済を前提としながらも、市場メカニズムの導入と分権的経済運営を進めてきた。1989~1991年にかけて、ソ連、東欧の社会主義体制は崩壊し、従来の集権型社会主義経済は自由市場メカニズムを導入し、複数政党制を実現した。東欧諸国も市場経済を導入し、EUへの参加を求めたため、EUは東欧へ拡大している。今日EUは東欧のチェコ、ハンガリー、ポーランド、スロバキア、ブルガリア、ルーマニアなどの加盟を認め27か国に拡大(2007)している。中国も、1978年12月から「改革開放」政策を選択し、集権型社会主義経済から市場メカニズムを導入し、社会主義市場経済のてこ入れを目ざしている。中国は、東アジアと経済協力を続け、地域経済圏を形成している。現代社会主義経済思想は修正を余儀なくされ、市場経済を導入し、社会経済の活性化を図っている。中国は2000年代に入って平均成長率約10%を維持し、世界から注目された。だが同時に都市と農村の地域間格差、所得格差も深刻になっている。さらに中国は、2008年9月のアメリカ発の世界金融恐慌のインパクトを受け、今後の成長率は約6~8%に低下するだろうといわれている。だが中国はこの危機を克服しつつ、景気回復の政策を展開している。

 第三の開発途上国における経済思想は、貧困、低開発の状態から抜け出し、持続的な経済成長を目ざすものである。開発途上国の多くは戦後まもなく独立をかちとったが、帝国主義的植民地政策のもとで宗主国に従属させられてきたという歴史的経過から、経済的にはモノカルチュア(単一作物への専門化)の低所得国がほとんどであった。そのため、独立以来、先進国の経済援助によって経済開発=工業化に力を入れてきたが、思わしい成果は得られなかった。1960年代に入って、開発途上国の国際的発言力が強くなってくると、主として国際連合の場で、開発のための国際経済秩序確立の動きが活発となった。その結果、「国連開発の10年」計画の決議(第一次1961、第二次1970)、国連貿易開発会議(UNCTAD(アンクタッド))の発足(1964)を経て、1974年には「新国際経済秩序の樹立に関する宣言」が国連特別総会で採択され、開発途上国の立場にたった新しい国際経済秩序の実現を目ざすこととなった。開発途上国は一方で漸次成長を続けているが、人口増、格差の拡大、貧困の累積、エイズ患者増などに直面し、国際機関を通じて経済援助の拡大を要望している。

 1980年代から1990年代にかけて、東アジア諸国はアメリカ、EU(ヨーロッパ連合)、日本などの先進国との経済協力、とくに貿易、投資の拡大を受け入れて成長を図ってきたのであるが、東アジア諸国間の貿易、投資の拡大も図り、地域経済の相互協力を通じて所得水準をあげ、市場の活性化を目ざしている。さらに開発途上国自身も相互経済協力を通じて貧困を解消するよう努力している。今後、先進国、中進国、途上国は環境保全を前提に経済成長の問題を解決していくために相互に協力すべきであろう。さらに1990年代から2000年代のグローバル化の進展のなかで、新興国が注目されるようになった。2003年ごろからブラジル(B)、ロシア(R)、インド(I)、中国(C)の4か国がBRICsとよばれ、人口、資源、政治大国として注目され、欧・米・日の各国に対して高い経済成長をするというのである。

 以上にあげたような現代の経済思想を総合してみると、その基本課題は、各国とも自国にもっとも適した経済体制を追求しているのであるから、互いにその立場を認め合うこと、先進国は世界軍拡から世界軍縮へ向かって全力を尽くし、平和、福祉、文化を政策目標にした経済体質に改革していくこと、そして協力して開発途上国の自立のための諸条件をつくっていくこと、にあるのではないだろうか。さらに環境保全、所得格差、貧困の克服、福祉の充実のための成長の思想を新しく定着していくことではあるまいか。

[清水嘉治]

『宮崎義一著『転換期の資本主義』(1982・日本放送出版協会)』『清水嘉治著『転機にたつ世界経済』(1991・新評論)』『清水嘉治著『世界経済の統合と再編』(1996・新評論)』『上野格・和田重司・音無通宏編『経済学の知のあり方を問う』(1997・新評論)』『清水嘉治著『改革の経済思想――J・A・ホブスン研究序説』(1998・白桃書房)』『浅野栄一著『ケインズの経済思考革命』(2005・勁草書房)』『森嶋通夫著『思想としての近代経済学』(岩波新書)』『伊東光晴著『現代に生きるケインズ』(岩波新書)』『小林英夫著『BRICsの底力』(ちくま新書)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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