結城宗広(読み)ゆうきむねひろ

精選版 日本国語大辞典 「結城宗広」の意味・読み・例文・類語

ゆうき‐むねひろ【結城宗広】

鎌倉後期・南北朝時代武将。祐広(すけひろ)の子。新田義貞に従って鎌倉幕府攻略義良親王を奉じて陸奥国白河庄(福島県白河市)に拠り、のち足利尊氏討伐転戦、途中伊勢に病死した。延元三年(一三三八)没。

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デジタル大辞泉 「結城宗広」の意味・読み・例文・類語

ゆうき‐むねひろ〔ゆふき‐〕【結城宗広】

[?~1338]鎌倉末・南北朝時代の武将。法号、道忠。新田義貞に応じて鎌倉を攻略。建武の中興後、北畠顕家とともに義良親王を奉じて奥州鎮定足利尊氏の挙兵後は畿内を転戦し、のち伊勢で病死。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「結城宗広」の意味・わかりやすい解説

結城宗広
ゆうきむねひろ
(?―1338)

鎌倉・南北朝時代の武将。孫七、左衛門尉(さえもんのじょう)、上野介(こうずけのすけ)。剃髪(ていはつ)して道忠と号す。白河(しらかわ)結城氏の祖祐広(すけひろ)の子。1323年(元亨3)北条貞時(さだとき)の十三回忌に銭を進献、32年(元弘2)好島庄(よしまのしょう)内の土地の打渡しの使節を務めるなど、北条氏と緊密な関係を結んで南奥州で重きをなしたが、翌33年護良(もりよし)親王の令旨(りょうじ)、後醍醐(ごだいご)天皇綸旨(りんじ)を得ると新田義貞(にったよしさだ)に従い鎌倉を落とした。同年北畠顕家(きたばたけあきいえ)が陸奥国司(むつこくし)に任じられるとこれを補佐し、35年(建武2)長子親朝(ちかとも)とともに式評定衆(しきひょうじょうしゅう)に列した。36年(延元1・建武3)顕家とともに陸奥の大軍を率いて西上、足利尊氏(あしかがたかうじ)を九州へ走らせ、翌37年ふたたび尊氏追討のために奥州をたったが失敗、吉野に逃れた。翌年、顕家、義貞が相次いで戦死したため、奥州における南朝勢力再建を企図し、伊勢大湊(いせおおみなと)を出航したが天竜灘(なだ)で暴風にあって吹き戻され、38年10月5日(11月21日ともいう)伊勢光明寺で病没した。なお36年4月嫡孫顕朝(あきとも)に所領を譲り、白河結城氏を継承させている。

[市村高男]

『結城宗広事蹟顕彰会編・刊『結城宗広』(1941)』『『福島県史 通史編1』(1969・福島県)』

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改訂新版 世界大百科事典 「結城宗広」の意味・わかりやすい解説

結城宗広 (ゆうきむねひろ)
生没年:?-1338(延元3・暦応1)

鎌倉末~南北朝時代の武士。下総結城氏から陸奥国白河荘を分譲された結城祐広の子。左衛門尉,上野介,上野入道。鎌倉末期北条得宗家に属して勢力をのばし,南奥の実力者として活動したが,1333年(元弘3)後醍醐天皇に応じ新田義貞らとともに鎌倉を陥れた。同年8月北畠顕家が陸奥国司となると諸郡奉行などに任じられ,翌年には子の親朝とともに奥州式評定衆に列せられた。36年(延元1・建武3)足利尊氏が後醍醐天皇を追って入洛すると顕家に従って西上,尊氏を九州に走らせた。翌年後醍醐天皇の要請により再び尊氏追討のため出陣したが,翌年5月顕家の戦死によって失敗し吉野に逃れた。吉野で奥州の南朝勢力再建の計画を練り,北畠親房らと義良親王を奉じて伊勢大湊を出航したが,途中暴風にあい伊勢に吹き返され,病死した。津市の結城神社にまつる。36年嫡孫顕朝に家督を譲っている。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「結城宗広」の意味・わかりやすい解説

結城宗広
ゆうきむねひろ

[生]?
[没]延元3=暦応1(1338).伊勢
南北朝時代の武将。祐広の子。上野介。法名,道忠。元弘の乱には,初め鎌倉幕府軍に加わったが,元弘3=正慶2 (1333) 年護良親王の令旨と綸旨を受けて後醍醐天皇方に転じ,新田義貞とともに鎌倉を攻め,幕府を滅ぼした。建武政府の奥州式評定衆となり,奥州検断職 (警察,刑事裁判の職) を兼帯した。南北朝時代,南朝方に属し,延元2=建武4 (37) 年陸奥の北畠顕家軍の侍大将として,西上の途についた。翌年顕家が戦死し,南朝は義良親王,北畠親房らとともに宗広を陸奥経営に派遣することとし,一行は伊勢大湊から出航したが,暴風雨のため宗広は安濃津 (三重県津市の港の古称) に漂着。まもなく病死した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「結城宗広」の解説

結城宗広 ゆうき-むねひろ

?-1339* 鎌倉-南北朝時代の武将。
結城朝広(ともひろ)の孫。結城祐広(すけひろ)の子。陸奥(むつ)白河(福島県)結城氏。正慶(しょうきょう)2=元弘(げんこう)3年後醍醐(ごだいご)天皇の命をうけ鎌倉を攻める。翌年奥州将軍府の式評定衆(しきひょうじょうしゅう)。建武(けんむ)3年北畠顕家(あきいえ)にしたがい京都に攻めのぼり足利尊氏(たかうじ)を九州に追う。翌年ふたたび尊氏追討のため京都をめざすが敗れ,奥州への帰途,暦応(りゃくおう)元=延元3年11月21日伊勢(いせ)で病没。通称は孫七,上野介(こうずけのすけ)。
【格言など】当今(とうぎん)御謀反(正中の変を一族に知らせた手紙。当今は今上天皇の意)

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朝日日本歴史人物事典 「結城宗広」の解説

結城宗広

没年:暦応1/延元3.11.21(1339.1.1)
生年:生年不詳
鎌倉時代末期・南北朝時代の武将。通称孫七。祐広と熱田大宮司範広の娘との子。陸奥国白河荘(福島県)を本拠として,奥州南部に勢力を張る。正慶2/元弘3(1333)年後醍醐天皇綸旨を得て,新田義貞らと共に,鎌倉を攻めて北条高時以下を滅亡させる。北畠顕家が陸奥国司として下向してくると,翌年奥州式評定衆に任命される。建武3/延元1(1336)年顕家に従って上洛し,足利尊氏を九州に追う。一旦帰国し陸奥国内の安定に努め,翌年再び顕家と共に西上し尊氏と戦ったが敗北して吉野に逃れる。南朝勢力の回復を意図して海路帰国しようとしたが遭難し,伊勢国で病没。

(佐々木文昭)

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世界大百科事典(旧版)内の結城宗広の言及

【光明寺】より

…そののち寺地は,1681年(天和1)再度現地に移った。当寺は南朝ゆかりの寺で,結城宗広(ゆうきむねひろ)が当寺に拠って衰退する南朝の再挙を計ったが,むなしく当寺で没したという悲史がある。その関係で,有名な《光明寺残篇》など南朝関係の古文書多数がある。…

※「結城宗広」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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