継体欽明朝の内乱(読み)けいたいきんめいちょうのないらん

改訂新版 世界大百科事典 「継体欽明朝の内乱」の意味・わかりやすい解説

継体・欽明朝の内乱 (けいたいきんめいちょうのないらん)

6世紀前半の継体朝末年に皇位継承をめぐって勃発したと想定されている内乱。《日本書紀》では継体天皇の死をその25年辛亥(531)のこととし,安閑天皇1年(534)までの2年間は空位とされる。一方,仏教公伝を《日本書紀》が壬申年(552)とするのに対し戊午年(538)として伝える《上宮聖徳法王帝説》や《元興寺縁起》によれば,欽明天皇即位は辛亥年となって先の継体没年とつながり,その間に安閑・宣化2天皇の治世をいれる余地がない。これらのことは明治期の紀年論において問題とされ,《日本書紀》の紀年よりも《古事記》の天皇崩年干支を重視する立場からは,継体の死を崩年干支の丁未年(527)のこととし,欽明即位の辛亥年(531)との間に安閑・宣化2天皇の治世をくりあげる解釈が出された。しかし,この解釈は安閑天皇の死を記紀ともに一致して乙卯(535)とすることと矛盾する。このように相矛盾する欽明と安閑・宣化の二つの紀年の併存を認め,そこから,欽明朝と安閑・宣化朝という2朝併立を構想したのが昭和初期の喜田貞吉の説である。喜田は継体紀25年条に引く《百済本記》に〈日本天皇及太子皇子俱崩薨〉とあるのを重大な政変(辛亥の変)と推定した。戦後,喜田の2朝併立論林屋辰三郎によって,継体朝末年の磐井の乱とあわせて対朝鮮半島政策をめぐる全国的内乱状況としてとらえ直され,〈継体・欽明朝の内乱〉と呼ばれることになった。津田左右吉記紀批判により帝紀・旧辞の成立期とみなした継体・欽明朝の時期に全国的な内乱状況を想定する林屋説はそれまでの歴史通念を破るもので,同時期に提唱された継体新王朝説とともに賛否両論をまきおこした。説の出発点である継体以下4天皇の紀年問題はもとより,4天皇の陵墓の比定,いわゆる和風諡号(しごう)が安閑天皇から始まること,また《日本書紀》の安閑・宣化両紀にみえるミヤケ設定記事などの評価・解釈は,いまだ賛否の立場が大きく分かれている。
王朝交替論
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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