出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
(1)漁具の名称 (a)宇治川・瀬田川に設置され,木の杭を左右に立ち並べ,中間に簀を張った簗(やな)。その漁人は古くから天皇に贄(にえ)を貢献した。宇治網代は《万葉集》に〈八十氏河の網代木〉とみえ,田上網代は883年(元慶7)の官符に近江国の内膳司御厨として現れる。《延喜内膳司式》に山城・近江の氷魚網代が9月から12月30日まで氷魚を貢すとあり,《西宮記》には,田上網代は氷魚,宇治網代は鮎を毎日進めたとある。この氷魚は重陽の宴,旬(しゆん)などに当たって,廷臣に与えられ,宇治網代の修理は山城の正税稲によって行われている(《北山抄》)。網代の贄人を統轄する網代司は蔵人所によって補任され,995年(長徳1)田上網代司には小槻重兼の死後,甲可千秋が任ぜられた(《権記》)。平安末期以降,宇治網代司目代を楽人狛氏一族が世襲,室町期まで真木島長者(惣官,村君)と呼ばれた。この長者に率いられる真木島贄人・供祭人は,天皇だけでなく,賀茂社,鴨社,春日社,松尾社,左久奈度社にも供祭物を貢献している。殺生禁断に伴う網代の破却は,1114年(永久2)から見られるが,1285年(弘安8)の叡尊の申請による破却は徹底したものであった。その後,1314年(正和3)に曾束荘民は網代を構えているが(《禅定寺文書》),網代はしだいに衰滅し,真木嶋氏は宇治川の交通路を押さえる有力な一族として戦国期まで勢威を保った。(b)霞ヶ浦・北浦の入口,利根川河口に設けられた囲網。江戸中期に現れる。春秋2期に魚の通路を遮断し,木竹の杭を立て,それに沿って垣網を張り,先端に囲網を張ったものをいく張も連設する。春にはフナ,コイ,秋にはスズキ,ウナギ,フナなどがとれる。江戸末期,水はけを妨げる漁具として,1831年(天保2)にはじまる幕府の水行直普請に当たって禁止されたが,明治以後,復活した。最近はほとんど行われない。
(2)網を設置する漁場 1256年(康元1),日吉社領讃岐国柞田(くにた)荘の実検目録に〈網代寄庭弐所一所九町余,一所五町余〉とあり(《壬生文書》),1315年肥前国彼杵荘雑掌は彼杵行蓮が〈網代用途〉を抑留したと訴えている(《尊経閣文庫所蔵文書》)。肥前国五島西浦部にも,赤浜,みつしり,河内の〈網代〉が1344年(興国5・康永3)に見いだされるが,77年(天授3・永和3)にはそのなかの赤浜の〈かますあしろ〉が売買の対象となっている(《青方文書》)。このように,網場をさす語としての〈網代〉は,中世以来用いられ,江戸時代になっても,四国・九州地方を中心に広く各地に見いだされる。ただ〈あみしろ〉といわれる場合は網の収益の配当分をさし,最近では単なる海浜や釣場まで〈網代〉という例もあり,語義に変化が見られる。
執筆者:網野 善彦
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中世よりみえる
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…その漁人は古くから天皇に贄(にえ)を貢献した。宇治網代は《万葉集》に〈八十氏河の網代木〉とみえ,田上網代は883年(元慶7)の官符に近江国の内膳司御厨として現れる。《延喜内膳司式》に山城・近江の氷魚網代が9月から12月30日まで氷魚を貢すとあり,《西宮記》には,田上網代は氷魚,宇治網代は鮎を毎日進めたとある。…
…平安・鎌倉時代に公家が使用した牛車(ぎつしや)の一種。屋形(車の箱)を竹やヒノキの薄板で網代に組んで覆ってあることからこの名称がある。大臣・納言等の公卿が直衣を着用しているときや,褻(け)のときあるいは遠所へ行くときに用いた。…
※「網代」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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