総社(市)(読み)そうじゃ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「総社(市)」の意味・わかりやすい解説

総社(市)
そうじゃ

岡山県の南部やや西寄りに位置する市。1954年(昭和29)吉備(きび)郡の総社町と、阿曽(あぞ)、池田、久代(くしろ)、山田、新本(しんぽん)の5村、都窪(つくぼ)郡常盤(ときわ)村が合併して市制施行。1972年に昭和町を編入。2005年(平成17)山手(やまて)、清音(きよね)の2村を合併。市名は、中心集落の総社に鎮座する備中(びっちゅう)総社宮に由来する。市域高梁(たかはし)川が南東流し、南部は岡山平野の西部を占める。北部は吉備高原で、高梁川や支流の槇谷(まきだに)川はこの山地を深く下刻し、槇谷川は国指定名勝豪渓(ごうけい)をつくる。JR伯備線が高梁川左岸を走り、総社駅で吉備線と会合する。国道では180号が吉備線と総社駅以北の伯備線に沿うほか、429号と486号が市内を走る。また、市の東端近くに岡山自動車道岡山総社インターチェンジがある。1999年井原(いばら)鉄道が開通した。南部の三須(みす)から三輪の丘陵地には大規模な弥生(やよい)集落遺跡、作山(つくりやま)、こうもり塚(ともに国指定史跡)などの古墳群があり、なかでも三須の作山古墳は古代吉備国の代表的古墳の一つ。律令(りつりょう)期には備中国府が金井戸に置かれ、付近に国分寺、国分尼寺(ともに国指定史跡)、総社が置かれた。平野部には条里遺構が広く残っている。古代から中世には三須郷(ごう)はじめ多くの郷が置かれ、総社のあった八田部(やたべ)郷は門前町が形成された。中世には大半が荘園(しょうえん)化した。市の中心部を流れる十二ヶ郷用水(じゅうにかごうようすい)が開削されたのは平安末期のことといわれる。鎌倉期には井山(いやま)の宝福寺がこの地方の禅宗文化の中心となった。戦国時代には有力国人、土豪が支配し、高松城水攻めで敗れた清水宗治(しみずむねはる)もその1人であった。江戸時代には中心部は蒔田(まいた)氏浅尾藩の陣屋町、その他は岡山、松山などの諸藩の領地であり、明治時代には吉備郡役所が置かれた。遺跡、史跡が豊富で、市の南東部は吉備路風土記(ふどき)の丘県立自然公園、北東部は吉備史跡県立自然公園に指定されている。江戸時代に再興された備中国分寺の五重塔は県内唯一のものである。かつては備中売薬や鋳物業があり、中心の総社は商業中心地であった。産業は水田農業およびブドウ、モモ、イチゴなどの園芸農業がある。第二次世界大戦後は大日本紡績(現、ユニチカ)、水島機械金属工業団地(現、ウイングバレイ)、段ボール製造のレンゴー、カルピス食品工業(現、カルピス)などの工場が立地し、県下でも有数の内陸工業地域となっている。また岡山、倉敷両市のベッドタウンとしての宅地開発も盛んである。1993年には岡山県立大学が開学した。面積は211.90平方キロメートル、人口6万9030(2020)。

[由比浜省吾]

『『総社市史』全7巻(1985~1998・総社市)』


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