織工(読み)オリコウ

デジタル大辞泉 「織工」の意味・読み・例文・類語

おりこう【織工】[戯曲]

《原題、〈ドイツDie Weberハウプトマンの戯曲。5幕。1893年初演。シュレジエン地方の搾取に苦しむ織工たちの暴動事件を扱った社会劇。作者の自然主義時代の代表作

おり‐こう【織(り)工】

織物を織る工員。しょっこう。
[補説]戯曲名別項。→織工

しょっ‐こう〔シヨク‐〕【織工】

織物製造に従事する工員。

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精選版 日本国語大辞典 「織工」の意味・読み・例文・類語

しょっ‐こう ショク‥【織工】

〘名〙 織物の製造に従事する工員。
和漢三才図会(1712)二七「撰糸絹(せんじ)〈略〉昔唐船著泉州堺浦時、大唐織工来留于此撰糸絹

しょく‐こう【織工】

おり‐こう【織工】

〘名〙 織機を操作して織物を作る工員。しょっこう。

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改訂新版 世界大百科事典 「織工」の意味・わかりやすい解説

織工 (しょっこう)

織物の製造に従事する職人。用いる材料によって,また織り方によって職種や職人のあり方は歴史的地域的に多様であり,〈織物〉〈絹織物〉〈毛織物〉〈綿織物〉などの項目も参照されたい。また日本の古代・中世の高級織物の織成に従事した〈織手(おりて)〉については別に独立項目がある。

織物生産は古来農家の副業として婦人によって営まれ,領主館や修道院では隷属民が亜麻布を生産していた。ドイツの商人たちはそれらをシャンパーニュの大市などに運んでいたのである。織物業手工業としてはじめて言及されるのは,ドイツでは1099年のマインツのばあいであり,織工の文書がのこっている最古の例は1149年のケルンのばあいである。そこではシーツ製造工の兄弟団がすでに言及されている。

 あらゆる手工業のなかで織物業の種類が最も多い。まず亜麻布織工がおり,そこには晒(さらし)工も登場している。ブレスラウ(現,ブロツワフ)では1359年に皇帝カール4世が市に晒場を与えている。シーツ製造業においては婦人が最も多く働いていた。綾織綿布(バルヘントBarchent)は亜麻布と木綿から織り上げたもので,南ドイツで主としてつくられたが,アラブ人によってもたらされたものである。絹織物業は中世においてはパリ,ケルン以外はほとんどイタリアの都市で営まれていた。それは家内工業であるが販売は商人の手ににぎられていた。

 毛織物は11世紀のドイツではまだあまり知られておらず,毛織物業はフリースラントとライン川下流域,フランドルなどで営まれていたにすぎない。1114年にはウォルムスで皇帝ハインリヒ5世が毛織物工から税を徴収しており,52年にはマクデブルクで毛織物ギルドが言及されている。しかし毛織物業が盛んになるのは13世紀以降である。1247年のケルンの織工ツンフト(ギルド)では,毛織物工が56人,毛織物商人は24人で市内で最も豊かな家柄をなしていた。しかし亜麻布生産も毛織物生産も大きな騒音を出すために市壁のそばや袋小路の奥に仕事場がおかれることが多かった。それらはほとんど家内工業として営まれていたのだが,織物業のばあい織元Tucherが生産の中心に立っていた点に特徴がある。毛織物を例にすれば,織工は織元から原料を受け取り,加工した製品も織元の家に届けた。織工は羊毛を受け取ると剪毛(せんもう)し,織布する。織物業には職種が多かったと同時にそれぞれの生産工程の区分が厳密に定められていた。縮絨(しゆくじゆう)と染色,剪毛などはそれぞれ別々に行われ,足踏式縮絨と縮絨水車も同一人の手におかれてはならなかった。こうした規則はすべて織元と問屋商人の支配を維持するのに役だっていた。

 これらの職種のなかで,かなり特権的な地位にあった染色工や縮絨工と比べて最も下層に位置していたのが梳毛(そもう)工であった。ドイツの歴史家ドーレンAlfred Dorenは〈もし貴族的にものごとを考える短編小説家と年代記作者が,ある人間を最大の軽蔑と社会的卑賤と汚穢をこめて描写しようとするならば,彼らは梳毛工Wollkämmerをあげるだろう〉とのべている。梳毛工の労働が厳しかっただけでなく,企業家から前貸しをうけ,労賃もきわめて低かった。こうした状況は職人たちに大きな不安を生み,1378年にはフィレンツェではチョンピの乱が起こり,最下層労働者が短期間ではあるが市政に参加する権利をかちとったのである。
執筆者:

14世紀の歴史家イブン・ハルドゥーンは《歴史序説》のなかで,織物技術を二つに分けて理解する。一つは糸紡ぎと機織,もう一つが裁縫術である。彼の考えでは二つのものはたんなる技術の違いでなく,文明段階の相違として意識されている。糸紡ぎと機織は寒さを防ぎ,暑さを遮る,たんなる身を覆う布地を織ることに主目的がある単純で必需的な技術である。これは遊牧生活に甘んじ,羊毛から布を織ることしか知らないアラブやベルベルなどの〈田舎と砂漠の文明〉に特有のものである。これに対して裁縫術は〈都市の文明〉でないとあらわれないもので,布地を裁断・縫合して,時と場所をふまえ風俗・嗜好にあわせて衣服に仕立てあげる技術で,これは複雑にして奢侈的な要素に富むと考えられている。

 このようなイブン・ハルドゥーンの技術観は,イスラム世界における織物業の発展を,彼なりに整合的に説明する基礎になっている。つまり,織物技術において遅れていたアラブは,古代の都市文明の伝統をひきつぐギリシア,ローマ,ナバテア,エジプト,イスラエル,インド,イラン,中国から技術を学んですぐれた織物業を発展させたと考えるのである。これは事実に照らしても明らかである。エジプトからの亜麻織物,インドからの綿織物,ビザンティン,イラン,中国からの絹織物の技術の摂取がなければ,アッバース朝(750-1258)時代の手工業において,他のどの分野をもはるかにしのいだ織物業の発展はなかったであろう。また,十字軍をきっかけにした東西交流の活発化のなかでバグダードの錦織,ダマスク織(どんす織),モスリン織(メリンス),木綿の栽培がヨーロッパに伝わることもなかったであろう。とくにダマスク織,モスリン織は,当時の織物の中心地であったダマスクス,モースルの名を冠してよばれたものである。

 このようなすぐれた織物が歴史上つくられたにもかかわらず,技術を保持し,それを伝え残した職人すなわち織工の状態は今一つはっきりしない。ギルドに類する同職組合がはっきり出てくるのは,16世紀のオスマン帝国の盛期以降のことである。理念的には親方,職人,徒弟の別があったようだが,織物業の生産形態が大部分,家内工業的で小規模であったので,職人と徒弟は実際は親方の身内というのがふつうであった。16世紀におけるオスマン帝国の絹織物業の中心地ブルサのように,50台以上の織機をそなえた工場まがいの生産が行われた例もあるが,ほとんどは零細で近代になってヨーロッパの繊維製品が入ってくると,押しつぶされて工場制的な織物業に発展する芽をつみとられた。むしろ,皮肉なことに活気を呈するのは奢侈品として生きるべき道をさぐったじゅうたんである。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「織工」の意味・わかりやすい解説

織工
おりこ
Die Weber

ドイツの劇作家G・ハウプトマンの戯曲。5幕。1892年に発表した社会劇で、翌年2月ベルリンの自由劇場で初演された。1844年に作者の故郷シュレージエンのオイレンゲビルゲで起こった機織工の暴動事件を扱ったもので、環境劇、群集劇、方言で語られるプロレタリアの登場する劇としても大きな意味をもつ。工場主ドライシガーらに搾取されて人間以下の生活を強いられている家庭労働の機織りたちが、ベルリンから帰ってきた兵卒イェーガーに勇気づけられて工場主の屋敷に闖入(ちんにゅう)して気勢をあげるが、やがて出動した軍隊に鎮圧される。芝居は、暴動に背を向け、仕事場を離れなかったヒルゼ老人が流れ弾にあたって死ぬことで終わる。作者が貧しい人々に同情を示すにとどまり、変革の見通しを示さなかったことは、マルクス主義文芸論ではこの作品の限界と批判されるが、自然主義的な環境描写以上の歴史的な価値をもつ作品である。

[岩淵達治]

『久保栄訳『織工』(岩波文庫)』

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世界大百科事典(旧版)内の織工の言及

【経営・経営管理】より


[経営・管理の語意]
 〈経営〉という言葉は今日,企業をはじめ行政,教育,宗教,組合など各種組織の運営にかかわる言葉として使われているが,日本語としていつごろ定着したかは確かではない。《日本国語大辞典》1940年版には,(1)縄張りをして土台をすえいとなみ造ること,(2)工夫をこらして物事をいとなむこと,とされ,中国春秋時代の《詩経》に(1)(2)の早い使用例があり,日本では(2)の使用例が室町時代の《太平記》にみられる。…

※「織工」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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