織田作之助(読み)オダサクノスケ

デジタル大辞泉 「織田作之助」の意味・読み・例文・類語

おだ‐さくのすけ【織田作之助】

[1913~1947]小説家。大阪の生まれ。大阪庶民の生活を描いた作家として知られる。小説「夫婦善哉めおとぜんざい」「世相」「土曜夫人」、評論「可能性の文学」など。

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精選版 日本国語大辞典 「織田作之助」の意味・読み・例文・類語

おだ‐さくのすけ【織田作之助】

小説家。大阪生まれ。「夫婦善哉」で世評を得たが、時局のため歴史小説に転じる。第二次大戦後は「世相」「土曜夫人」などを発表し、「織田作」の愛称デカダンス作家として知られた。大正二~昭和二二年(一九一三‐四七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「織田作之助」の意味・わかりやすい解説

織田作之助
おださくのすけ
(1913―1947)

小説家。大正2年10月26日、大阪市中央区生玉前町に生まれる。父鶴吉、母たかゑの長男。事情あって母の兄鈴木安太郎の戸籍登載。のち両親の婚姻届け出、父の認知届け出とともに織田姓に改められた。家業は鮮魚商。1931年(昭和6)高津中学を卒業し旧制第三高等学校に入学。33年、処女戯曲『落ちる』を発表。35年、同人誌『海風』を創刊。36年、三高を退学。38年、処女小説『ひとりすまう』を発表。『雨』(1938)が武田麟太郎(りんたろう)に注目された。39年、宮田一枝と結婚。40年『俗臭』(1939)が芥川(あくたがわ)賞候補となり、『夫婦善哉(めおとぜんざい)』(1940)が改造社第1回文芸推薦作品受賞作となって、新進作家としての地位を獲得。41年『青春の逆説』を刊行したが発禁となる。『動物集』(1941)は正宗白鳥(まさむねはくちょう)から賞賛された。42年から一連の歴史小説や清楚(せいそ)な名作『木の都』(1944)などが発表された。44年、一枝を失う。

 第二次世界大戦後、1946年(昭和21)『六白金星』『アド・バルーン』『世相』『競馬』と問題作を集中的に発表、流行作家の名をほしいままにし、さらに長編『夜光虫』『土曜夫人』を発表。伝統文学を超克する評論『可能性の文学』を発表と同時に喀血(かっけつ)し、翌47年(昭和22)1月10日死去。大阪楞厳(りょうごん)寺に眠る。

[伴 悦]

『『織田作之助全集』全8巻(1970・講談社)』『青山光二著『青春の賭け――小説織田作之助』(中公文庫)』『大谷晃一著『生き愛し書いた――織田作之助伝』(1973・講談社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「織田作之助」の意味・わかりやすい解説

織田作之助 (おださくのすけ)
生没年:1913-47(大正2-昭和22)

小説家。大阪生れ。家業は仕出屋であった。高津中から三高に学ぶ。同級に詩誌《椎(しい)の木》同人の白崎礼三がいて,文学的感化を受け,1年上級の青山光二などと同人雑誌《海風》を創刊,《雨》を発表し,同郷の先輩作家武田麟太郎に注目される。1940年,《夫婦善哉(めおとぜんざい)》が改造社の第1回文芸推薦作品となり,以後,新進作家として続々作品を発表。スタンダールの《赤と黒》に影響され,《二十歳》《青春の逆説》(1941)の長編2部作を書いたが,後者は発禁になる。戦争中のものとしてはほかに《西鶴新論》などがあるが,その活躍が目だつのは戦後で,混乱した世相を背景に,いちはやく《六白金星》《アド・バルーン》《世相》《競馬》《二流文学論》などを発表,一躍流行作家になった。私小説的文学を否定して《可能性の文学》(1946)を唱え,長編《土曜夫人》にその文学観の具現をはかったが,連載中喀血して急逝した。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「織田作之助」の意味・わかりやすい解説

織田作之助【おださくのすけ】

小説家。大阪生れ。三高中退。武田麟太郎に注目され,1940年《夫婦善哉(めおとぜんざい)》で文壇に出た。第2次大戦後,混乱した世相・風俗を鋭い感覚的な筆で書き,一躍流行作家となったが,長編《土曜夫人》執筆中にたおれた。評論《可能性の文学》で私小説の伝統を攻撃した。
→関連項目坂口安吾太宰治野坂昭如林忠彦風俗小説無頼派

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「織田作之助」の意味・わかりやすい解説

織田作之助
おださくのすけ

[生]1913.10.26. 大阪
[没]1947.1.10. 東京
小説家。第三高等学校に5年在学して退学 (1936) 。『雨』 (38) で武田麟太郎に認められ,結婚 (39) 後,『夫婦善哉 (めおとぜんざい) 』 (40) で作家としての地位を確立,『勧善懲悪』 (42) ほかの力作を続々発表したが,長編『青春の逆説』 (41) が反軍国主義作品として発禁処分を受けた。 1946年,『六白金星』『アド・バルーン』『世相』『競馬』など敗戦直後の混乱の世相を描いた短編を発表,また私小説の伝統に決別宣言をした評論『可能性の文学』を執筆,その実験的作品と目された長編『土曜夫人』を8月より『読売新聞』に連載したが,年末に喀血し,翌年死去した。一切の思想や体系への不信,旧伝統への反逆を目指し,固有の感覚や直観に裏づけられたスタンダール風のテンポの早い作風であった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「織田作之助」の解説

織田作之助 おだ-さくのすけ

1913-1947 昭和時代の小説家。
大正2年10月26日生まれ。昭和15年同人雑誌「海風」に発表した「夫婦善哉(めおとぜんざい)」でデビュー。戦後,大阪をえがいた「世相」「競馬」などで坂口安吾,太宰治とならぶ無頼(ぶらい)派の人気作家となる。「読売新聞」に「土曜夫人」を連載中に喀血(かっけつ)し,昭和22年1月10日急死。35歳。大阪出身。第三高等学校中退。
【格言など】天才は昔から無一文(夫人にあてた遺書の一部)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「織田作之助」の解説

織田作之助
おださくのすけ

1913.10.26~47.1.10

昭和期の小説家。大阪市出身。旧制三高中退。「俗臭」が芥川賞候補になり,「夫婦善哉(めおとぜんざい)」で作家としての地位を築く。大阪の庶民を描いた西鶴的作風が注目される。第2次大戦後「世相」で流行作家になるとともにデカダンスの生活に陥り,無頼(ぶらい)派(新戯作(げさく)派)とよばれる。評論「可能性の文学」の実験作「土曜夫人」執筆途中喀血し,急逝。

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世界大百科事典(旧版)内の織田作之助の言及

【夫婦善哉】より

豊田四郎監督作品。織田作之助の出世作であり代表作ともなっている同名小説(1940)の映画化(脚本は八住利雄)で,大阪船場の化粧品問屋の生活力のまったくない放蕩息子(森繁久弥)と水商売の女(淡島千景)との〈腐れ縁〉を笑いとペーソスのなかに描いた風俗映画の傑作として評価される。〈まるでこの作品のために生まれてきたような〉森繁久弥(1913‐ )の一つの頂点を示す名演で,〈おばはん,たよりにしてまっせ〉というラストシーンのせりふの名調子に象徴される関西弁の魅力とあいまって,大阪情緒に彩られた〈関西弁映画〉の代表作となるとともに,豊田四郎監督の〈文芸映画〉の代表作ともなっている。…

※「織田作之助」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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