精選版 日本国語大辞典 「美濃部亮吉」の意味・読み・例文・類語
みのべ‐りょうきち【美濃部亮吉】
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経済学者、東京都知事。東京生まれ。憲法学者美濃部達吉の長男。1927年(昭和2)東京帝国大学経済学部卒業後、東大助手、東京文理科大学講師を経て1932年法政大学教授。1938年人民戦線事件で大内兵衛(ひょうえ)らとともに検挙されたが6年の歳月をかけて無罪が確定した。第二次世界大戦後、1949年(昭和24)東京教育大学教授となり、1957年から1964年まで行政管理庁統計基準局長を兼任。1967年4月、革新統一候補として東京都知事に当選。史上最初の「革新都知事」として1979年まで連続3期務め、都民との対話と福祉を重視する政策を実施した。1980年6月参議院議員(全国区)となるが任期中の1984年(昭和59)12月24日、80歳で急逝した。美濃部達吉・亮吉所蔵書は兵庫県高砂(たかさご)市公民館で「美濃部親子文庫」として公開されている。
[荒 敬]
『美濃部亮吉著『苦悶するデモクラシー』(1960・文芸春秋新社)』▽『美濃部亮吉著『都知事12年』(1979・朝日新聞社)』▽『都民党編集委員会編『市民自治への鼓動――美濃部都政を生んだ草の根の記録』(1985・八月書館)』
経済学者,政治家。美濃部達吉と菊池大麓の娘多美との長男として東京に生まれる。1927年東大経済学部卒。法大教授,内閣統計委員会事務局長,教育大教授などを歴任。67年4月,恩師の大内兵衛や社会党,共産党,各種革新団体の支持を得て東京都知事に当選,79年まで3期12年間在職。平和憲法を都政に生かすことと,都民との〈対話〉により地方自治体を住民に近づけることに努めた。また都職員に〈寝た子を起こせ〉と,因襲を破り,すべてまず都民の立場から考えるよう説いた。老人医療費無料化や未認可保育所助成など福祉政策や自動車排ガス規制など公害対策に力を注いだ。また財政面でも大企業適正課税の実現を図り,全国自治体さらに国政に大きな影響を与えた。さらに朝鮮大学校認可,世界大都市会議開催など市民外交を推進し,全国革新自治体行政をリードした。しかし,とくに任期後半に至り,国の起債制限などによる財政難,同和問題などで困難に直面し,支持母体である,〈明るい革新都政をつくる会〉運営にも支障をきたした。79年4月都知事退任。80年6月参議院議員に当選,各地の公害対策運動支援に努めた。
執筆者:柴田 徳衛
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1904.2.5~84.12.24
昭和期の経済学者・政治家。東京都出身。美濃部達吉の長男。東大卒。大内兵衛に師事し,日本資本主義論争に労農派の一員として参加した。第2次大戦後は統計委員会事務局長などを務め,「日本経済図説」などの編著書や経済学の啓蒙活動で知られる。1967年(昭和42)東京都知事に当選,大阪・京都の両府知事とならび,全国革新自治体の象徴的存在として3期12年務めた。80年参議院議員。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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