肉食(読み)にくじき

精選版 日本国語大辞典 「肉食」の意味・読み・例文・類語

にく‐じき【肉食】

〘名〙 (「じき」は「食」の呉音)
御堂関白記‐寛仁三年(1019)二月六日「仍五十日仮申三宝、従今日食之、思歎千万念、是只為仏法也、非為身、以慶命僧都令申之、従今日肉食間、可書法華経一巻」
※浮世草子・本朝二十不孝(1686)五「いやましに肉食(ニクジキ)を好み筋骨たくましく成て」
※経済小学家政要旨(仮名付)(1877)〈永峰秀樹訳〉八「北極圏内に栖む肉食(ニクジキ)の鳥獣は」

にく‐しょく【肉食】

〘名〙
① 人間が動物、特に鳥獣の肉を食うこと。にくじき。菜食。〔書言字考節用集(1717)〕
※新聞雑誌‐一号・明治四年(1871)五月「外国人の説に、日本人は性質総て智巧なれども、根気甚乏し、是肉食(ニクショク)せざるに因れり」 〔漢書‐匈奴伝〕
② 美食すること。また、その人。
③ 動物が他の動物を食物とすること。にくじき。草食。
※日本読本(1887)〈新保磐次〉二「肉を食する獣を肉食の獣と曰ふ」

しし‐くい ‥くひ【肉食】

〘名〙 獣肉を食うこと。古くは神事の時に獣肉を食うことは禁忌とされており、それを犯せば罰せられた。文字は、獣肉一般をさす「肉」から、各地にひろく棲息する「鹿」があてられるようになり、さらに「鹿食」「猪食」などの区別がなされるに至った。
[補注]「令義解‐神祇」には、「凡散斎之内〈略〉不〈略〉食一レ宍」、「延喜式‐三」には、「凡触穢悪事忌者。〈略〉其喫宍三日」とある。

しし‐くらい ‥くらひ【肉食】

〘名〙 獣の肉を食うこと。また、その者を忌み嫌っていう語。

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デジタル大辞泉 「肉食」の意味・読み・例文・類語

にく‐しょく【肉食】

[名](スル)
人が鳥獣の肉を食うこと。にくじき。
動物が他の動物を食物とすること。

にく‐じき【肉食】

[名](スル)鳥獣魚介の肉を食うこと。にくしょく。

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改訂新版 世界大百科事典 「肉食」の意味・わかりやすい解説

肉食 (にくしょく)

鳥獣の肉を食することをいう。人類は雑食的な高等猿類の延長上にあって,単に植物食だけでなく動物食つまり肉食もするということは,あらためていうまでもない。肉食には動物の殺害が不可避であるが,他の動物を殺すことに,われわれと同じ生命の略奪を感じとるか否か,それは観念世界のあり方にかかわる。そこに人の殺害にも似た行為をみるとき,殺生あるいは肉食が,倫理的問題として浮上してくる。またそれとかかわって,肉食のための殺害法,解体法,そして調理法が,儀礼的作法として問題視される可能性をもつ。食べるとは,自然界のものをみずからの身体に摂取することである。情報を摂取するのに似て,意味を与えられたものを受容し,身体化することである。どのようなものを受容してよいか,また排除すべきか。そこにどのような動物は食べてよいか,あるいは否かという,可食性,不可食性の問題が生ずる。肉食も,これらの文化的文脈の中で,位置づけられ,特異な意味作用を担っているといえる。

ところで,肉食する以上,殺害は不可避であるといっておいた。それは生命の奪取である。もちろん狩猟民にとって殺生についての一般的是非論は論外である。しかしその他のケースで,肉食を殺生のゆえに避ける文化があることは周知である。ヒンドゥーのブラフマン層は,肉食の禁忌をみずからの生活信条としている。またこの生活倫理に発したものであるが,インドには,いわゆる菜食主義を守る人々がいる。彼らは卵は食べるが,肉食は避ける。卵にも生命がある以上,殺生だといえないわけではないが,それが認められる。殺生は流血をともなう。流血は死につながり,血は生死を分ける象徴ともなりうる。卵を食べても殺生とならず,肉食が殺生を意味するという判断は,血のこのような理解に根ざしていると考えられる。

 イスラム世界では,狩猟で倒した動物ののどを切って血を出し,それで絶命したものでないと,食べてはならないとされる。肉食の儀礼的手順の一つであるが,これは血を流し出し,それを自然に帰すことによって肉を受容するという観念とかかわりがある。ユダヤ教世界でも,家畜であれ野生の狩猟獣であれ,血を祭壇または野で流し出したのち,はじめて肉食が許されるという規定がある。家畜の血は神に属するゆえに神に返さねばならない。また野生獣の血は自然に属するゆえに,自然に返さねばならない。このような考えにもとづいている。神や自然は,生物の生殖をうながす。血はその生殖力ないし生命力の象徴である。それは神に,また自然にもどさねば,生命力の枯渇を招く。肉食は不可避であっても,そのための殺害(屠殺(とさつ))をいかにするか。その手続が,いま述べたような観念によって制限されることがある。

 ところで,狩猟民でも,どのような動物を殺して食べてもよいとは限らない。また年齢に応じて食べてもよい動物と,食べてはならない動物がある。このような不可食性動物の規定の背景にある論理には,分類上の配慮が働いていることもある。旧約聖書にも,可食・不可食動物についての規定がある。獣類のうち,反芻(はんすう)・偶蹄(ぐうてい)類は野生であれ,家畜であれ可食とされる。しかし偶蹄だが反芻しない豚は不可食である。それは分類上の越境者だからだと考えられる。ただそれ以上に,獣類であれ鳥類であれ,あらゆる肉食動物が不可食とされている。血を食べるものはけがれているとされている。この論理は,先の肉食のための殺害において,血は神なり,自然に返すべきだ,という肉食手順についての規定と相関している。血を食べるものは,まさに自然の生命力,神に属するものを奪取することである。肉食獣は血をも共にむさぼり食う。肉食を不可避なこととしているわれわれが,もし血をも食べるなら,それは肉食獣の地位にまでみずからを堕してしまうことになる。祭壇に,あるいは大地に血を注ぎ出してのちはじめてその肉を食べてもよい,という儀礼的屠殺規定は,ここでは不可食規定での肉食獣の排除と同根である。また草食的な反芻・偶蹄類を飼養するイスラエルの牧民にとって,この肉食獣を食べることの禁止は,彼らの生活現実と矛盾しない。ただ狩猟民にとっては,必ずしも同意しかねるイデオロギーである。肉食獣あるいは肉食に対する違反条項ともいえるような意識度の強さは,中近東を中心とした牧民的伝統のうちにある一種の肉食コンプレクスとでもいえるものに根ざしているのかもしれない。

 肉をいかに食べるか。煮たものと焼いたものとの区別を問題にしたのは,レビ・ストロースである。焼いたものは自然の側に属し,煮たものは文化に属する。古代には人間はなんでも焼いていた。あらかじめ焼いた肉をゆでるのはさしつかえないが,ゆでたものを焼くのは歴史に反する,とアリストテレスはいっている。ゆでるには容器が必要である。それはうちわの料理とされ,焼いたものは外向けの料理とされる。フランスではかつて煮た肉は家族の夕食料理で,焼いた肉は宴会用とされた。

 ポポロ・グラッソとはイタリア語では,金持ち層を意味した。グラッソは太っていること,そして脂肪をも意味する。カトリックで節制すべき金曜日に白身の魚を食べるのは,脂肪がなくかつ血のない〈やせた〉肉のゆえである。ぜいたく,清貧など,肉は美的・倫理的価値を付されさえするのである。肉食の意味作用媒体としてのひろがりは決してせまくはない。
犠牲
執筆者:

人類は雑食動物である。穀食と肉食のいずれに比重がかかるかは環境による。肉食文化が成立するのは穀物栽培に不適な地域である。このような地域では,人間の消化・吸収できない自然の草類で,牛や羊,ヤギのような反芻家畜を飼育し,人間は畜産物を食用にした。穀物栽培の絶対に不可能なときは自生の草類を求めての遊牧生活が展開され,一方,不十分ながらも穀物栽培の期待できるヨーロッパなどの地域では,定住生活が保証された。といっても,ヨーロッパの麦作は日本の米作の比ではない。いまでも牧場,牧草地としてしか利用できない農地が40~80%を占めるし,同じ麦畑で毎年麦を連作することはできない。19世紀までは麦畑を3年に1回休耕させて牧場にする三圃(さんぽ)制農法が支配的であり,時とともに自生の草類が牧草に改良されたにとどまった。このような麦作の状態では,パンはとうてい主食になりようがなかった。

 ただし,遊牧民族にせよヨーロッパ人にせよ,昔はなかなか肉食できなかった。牛や羊は1回に1頭しか出産しないし,とくに牛の場合,草だけで飼育すると,食べごろになるのに5~6年もかかる。いきなり〈と畜〉して食肉にしたのでは元も子もない。乳汁,乳製品を利用するほうがずっと効果的だった。一度出産した雌牛は,次の妊娠までは,量は漸減するにしても2~3年間は乳汁を分泌しつづける。なん回も妊娠,出産をくり返させれば,繁殖に役だつばかりか,搾乳中断期間はあるにしても,多くの乳量を長い間確保できた。牛乳自体は腐りやすく,搾乳後,半日ぐらいしかもたないが,バターやチーズにすればりっぱな保存食品になる。脂質やタンパク質の含有量も生の牛乳より多かった。

乳牛にならない雄牛は労働力として利用されたが,労働の内容が遊牧民とヨーロッパとでは異なっていた。前者ではせいぜい運搬用だったのに対し,後者は麦作に密着していた。播種(はしゆ)まえの深耕のために,雄牛に鉄製の重い犂(すき)を引っ張らせたりした。雌牛には耐えられない重労働だった。したがって,話をヨーロッパにかぎれば雌牛はまず乳牛として,雄牛は役牛として徹底的に収奪された。なんの役にもたたない廃牛になったとき,はじめて〈と畜〉して食肉にした。例外は役牛にも種牛にもならなかった雄牛で,それらは早めに去勢して肉牛として飼育された。ヨーロッパで牛肉として珍重されたのは肉質のやわらかい去勢雄牛の肉で,英語のビーフbeefの語源ともなった。そうした肉を口にできるのはごく一部の上流階級に限られた。このような家畜の徹底的収奪は他の地域にはあまりみられない。中国では牛は耕作用として盛んに利用されてきたが,伝統的な中国料理は豚肉が中心で,原則として牛肉は登場しない。牛は人間のために働いてくれたので,食肉にするにはしのびないとする。

 いかにヨーロッパ人が家畜を徹底的に収奪しても,一般人がめったに廃牛肉にもありつけなかったのは,飼育条件の劣悪さからくる。ロンドンで〈と畜〉される牛や羊の体重は18世紀の間に倍になったが,当時イギリスでは三圃制農法がゆらぎ,麦作の休耕地にクローバー,カブなどの飼料作物が進出しだしたのが原因だった。それまでの牧草によって飼育されていた肉牛は,骨格部分の差がさほどでないとすれば,すじ肉だらけだったことになる。18世紀までは脂身の肉のほうが高価なのがふつうだった。もっとも豚肉は別だった。豚は多産で,同時に10頭ぐらいが誕生し,生後6ヵ月から10ヵ月で食べごろになる。庶民には豚肉が頼りだったが,やっかいなのは反芻家畜ではなく,草類で飼育できないことだった。森林などに放牧しておけばどんぐりの実などを食べて自然に成長したが,冬はどうにもならない。種豚以外はすべて〈と畜〉して塩漬肉のまま春まで保存しなければならなかったため,たいへんな臭気と塩気に悩まされ通しだった。ヨーロッパ人がそうした状況から脱却したのは19世紀後半だった。アメリカ大陸から渡来したジャガイモがやっと大々的に麦作の休耕地に作付けされるようになった。同じ土地面積からのジャガイモのエネルギー収量は麦の1.5倍だった。人間が食べてあまった分は豚の飼料にまわされ,豚の大量常時飼育が可能になった。こうして豚肉の増産により,ヨーロッパ人1人当りの肉類消費量は第2次世界大戦前とほぼ同じ水準に到達した。さらに,第2次世界大戦後は,麦の連作が不可能なのは変わらなかったが,全体としての穀物生産力は上昇する一方だった。人間が食べきれない分は家畜の飼料になり,いまではわずか18ヵ月で牛を肥育することが可能になった。肉類の消費量はいちだんと増加した。穀物栽培とまったく無縁な遊牧民にはこうしたことは期待できない。穀物栽培に不適なところで肉食文化が成立するとしても,肉食文化の成熟には穀物生産力の発展が大きく寄与するといえよう。
牧畜文化
執筆者:

世界的にみてきわめて特異な例に属するが,近代になるまで日本人の多くは獣肉食を忌避していた。もちろん日本人とても縄文期の狩猟採集生活では手に入るもののすべてを食べており,弥生時代に稲作が始まってからも事情は変わらなかった。ただし,縄文・弥生の遺跡からの出土例をみると,鹿と猪が圧倒的に多く,牛や馬はひじょうに少ない。それは当時まだ牛,馬の数が少なかったこと,および,のちの741年(天平13)の詔に〈馬牛は人に代わり,勤労して人を養う〉とあるように,人を助けてくれるものとして尊重されたためであろうと考えられる。しかし,干ばつ,飢饉,疫病などの際,牛馬を殺して神を祭る習俗は古くからあり,その場合犠牲とした牛馬の肉は当然食用とされたはずであり,その肉の味わいは農民たちにとってひそかな愉楽であったと思われる。大和王権成立後の為政者は,おそらくそうした嗜食(ししよく)の拡大が牛馬の屠殺につながることを恐れたのであろう。642年(皇極1)7月には雨乞いの祭りに牛馬を犠牲とすることを禁じ,706年(慶雲3)の飢饉時には供犠にかえてはじめて土牛を用いたことが記録されている。こうした流れの中で,675年(天武4)4月17日の詔が布告された。それは前段で魚や獣の濫獲をまねく捕獲法に制限を加え,後段では牛,馬,犬,猿,鶏の食用を禁じ,それ以外の捕獲食用は禁制の限りではない,としたものである。食用禁止の理由は,牛馬については上記天平13年詔のとおりであり,猿についてはよくわからないが,犬は門を守り狩りで働き,鶏は時刻を知らせてくれるといったことのようである。とにかく,人の仕事を分担してくれる家畜の屠殺・食用を禁じたものであった。すでに豚も飼育されていたはずであるが,それも農作物に害を与える野獣一般とともに禁制の限りではなく,全体としてこの詔には農耕中心の国家意識が色濃く投影されている。

 それが聖武天皇の時代以後になると,深刻な社会不安を仏教にすがって切り抜けようとした結果,殺生戒にもとづいていっさいの殺生禁断,肉食禁制が布告されるようになった。745年(天平17)10月には以後3年間,752年(天平勝宝4)1月には1年間の期限で布告され,とくに大仏開眼を間近に控えた後者の場合は,それによって生計を失う漁民には家族1人当り1日2升のもみを給付するという条件までつけられていた。しかし,魚鳥まで含めた全面的な殺生禁断ができるはずはなく,実質は家畜の屠殺,食用を戒めるものにほかならなかった。

 だが,たび重なる禁令の発布は,まず貴族階級や都市民の間に獣肉食一般を罪悪視する感覚を醸成し,やがて日本人の多くが肉食を穢(けがれ)として,その忌避に傾いていったようである。そして,元来は薬草採取などを意味した薬猟(くすりがり)の語が野獣の捕獲の意にも拡大され,獣肉の食用を薬食(くすりぐい)とも呼んで,それに免罪符的な役割をもたせるようにもなった。《今昔物語集》などにはしばしば獣肉を煮炊きするにおいを〈くさい〉と表現しており,それは肉食忌避から進んで肉食嫌悪が拡大したことの証左と思われるが,そうした中でも《文徳実録》に見える藤原長良(ふじわらのながら)などのような肉食愛好者も,当然ながらたえず存在していた。とくに武士たちは戦闘訓練をもかねた巻狩りなどを行った。また,《百錬抄》が伝える1236年(嘉禎2)の宍市(ししいち)のように,京都市民が不浄のことと顔をそむける中で,武士たちが町中に鹿の肉を集積し飽食するようなできごともあった。一般市民などの純然たる消費者と,武士をも含めた狩猟者では肉食に対する意識は大きく相違していたようである。清少納言は動物タンパク質のない食事を〈精進(そうじ)物のいとあしき〉といっているが,獣肉食を拒否すればこのことばはそのまま魚鳥こそが〈美物(びぶつ)〉,つまり,美味なものとする意識につながる。そして平安期以降,とくに室町期には鳥料理が美物中の美物とされることが多かった。ちなみに,室町期の料理書に調理法が記載されている獣肉はタヌキとカワウソだけであるが,いずれも肉がくさいのであろうか,殺してから汁の実にするまでたいへんな手間をかけるように書いてある。

 室町末期から江戸初期にかけてのヨーロッパ人の来航は,日本人の食生活に対して最大級の衝撃を与えた。彼らが牛,豚,鶏をなんの罪悪感ももたずに屠殺食用する光景に接した日本人の中には,旧に倍する嫌悪感を抱いた者が多かったと同時に,奈良朝以来の呪縛(じゆばく)からの解放を感じた者も少なくなかった。長崎でも京都でも牛肉をたしなむ市民が急増したという。やがてキリシタンの禁圧と鎖国,さらに将軍綱吉による〈生類憐みの令〉の布告などによって,開花しかけた肉食文化は再びタブーの中に閉じ込められたが,江戸後期に入って新しい展開を見せるようになった。西欧の知識の洗礼をうけた蘭学者などが公然と肉食するようになり,一般にもこれを歓迎する者が多く,江戸で獣店(けものだな),ももんじ屋などと呼ばれた獣肉店が繁盛するようになった。儒医香川修徳(しゆうとく)(1683-1755)のように,〈邦人ハ獣肉ヲ食ハザル故ニ虚弱ナリ〉と栄養面から肉食の必要を説いた人もあり,寺門静軒のように,たわむれであっても来世は獣肉になりたいなどという者もあった。しかし全体としては,国学者などを中心にあくまで肉食を不浄視する保守派のほうが多く,幕末にいたるまで肉食の是非についての論議が盛んに行われた。その一人,天保期国学の大家とされる小山田与清(おやまだともきよ)は《鯨肉調味方(げいにくちようみほう)》という鯨料理一式の本の著者に擬せられてもいるが,大の肉食反対論者で,〈文化文政年間より以来,江戸に獣肉を売(うる)家おほく,高家近侍の士もこれを噉(くらう)者あり。猪肉を山鯨と称し,鹿肉を紅葉と称す。……いづれも蘭学者流に起れる弊風也。かくて江戸の家屋に不浄充満し,祝融の怒に逢(あう)事あまたたび也〉と,肉食の悪風が流行するのは蘭学者連中の始めたことだが,それが火の神祝融(しゆくゆう)の怒りにふれて江戸には火事がたえないのだと,とんでもない感情論をぶちまけている。鯨が魚であった時代であるから,彼自身には矛盾はなかったのだが,いまからみればまことにほほえましい。

 ところで,日本人の多くが肉食を避け,あるいは嫌ってきたことは,香辛料の使い方に大きな影響を与えた。たとえば,コショウは奈良時代以来輸入されていたが,室町時代以後うどんの薬味とされたくらいで,いっこうに用途がひろがらず,トウガラシが伝来するとまもなくその薬味の座をあけ渡してしまった。また,どういう使い方をされたのか不明だが,コエンドロコリアンダー)が天皇の食膳に供されるために栽培されていたことが《延喜式》に見えるが,その後はまったく使われた形跡がない。もし,日本の獣肉食がもっと盛んで多様化されていれば,これらの利用,栽培も続けられていたと思われる。また,明治以後の獣肉食をみても,すき焼,とんかつ,カレーなど,いずれも米飯に合うものが最もひろく愛好されている。米食中心の味覚が,西欧風の香辛料を排し,日本の肉料理の方向を決定したといえるようである。
鳥料理 →日本料理
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「肉食」の意味・わかりやすい解説

肉食
にくしょく

動物、とくに鳥獣の肉、また乳製品を食物とすることを意味し、菜食と対(つい)をなすことば。菜食が主義として守られ、植物性食物のみが食されるのとは異なり、肉食は植物性食物も肉も食べることを示しており、その意味では雑食ともいえる。

 人間は、サルから進化する途上で二足歩行、言語などいくつかの新しい特性を身につけてきたが、肉食もその一つであった。なぜならサルの多くは草食であるからである。旧石器時代の原人の遺跡からは多数の獣骨が出土し、また新人類の出現後のアルタミララスコーの洞窟(どうくつ)などには狩猟の光景が描かれている。彼らは木の実や草の芽などの植物性食物も食べてはいただろうが、氷河時代および後氷期の寒さに耐えるため、エネルギー補給源として狩猟による肉を重視していただろう。氷河が後退し、森や草原が増すにつれ、植物性食物をも大量に取り込むことになり、人間は実質的な雑食動物となったと考えられる。

 人間が肉だけでも暮らしていくことができることは、イヌイットやサーミ人の食生活が証明している。イヌイットはトナカイや海獣の生肉を食べている。またサーミ人はトナカイを加熱処理したものをおもに食している。しかし、これらの人々が肉だけを食べるのは、自然環境が寒冷なため、植物が生育しにくいことや、肉の保存がしやすい(冷凍)ことによるもので、他地域の人間は、植物採集に食料の大半を頼ったり、農耕や牧畜という他の生業形態をとっている。

[木内裕子]

採集狩猟民と肉食

現在、採集狩猟を生業としている社会は、アフリカの森林やサバナ、オーストラリアのアボリジニーの居住地域、南アメリカのアマゾン川上流などに限られている。アフリカのコンゴ民主共和国(旧ザイール)の森林地帯のピグミーやカラハリ砂漠のサン・クア、タンザニアのサバナにいるハッザ、コンゴ民主共和国東部のサバナに居住するバンボデなどの民族は、弓矢を使ってレイヨウ類やハイエナ、ハゲワシ、その他食べられる物はなんでも狩猟して食べる。実際の食生活では採集によって得られた植物性食物に依拠しているが、狩猟はその獲物の希少性のために価値が高いと考えている。また狩猟による共同労働と平等な分配とは、社会を維持する源泉ともなっている。料理方法は原始的で、土を掘って焼き石で蒸す方法が一般的であり、これはアボリジニーの社会でも同様である。一方、アマゾン川流域の人々は、バクやペッカリーカピバラアルマジロ、カメなどを食用としている。多くは煮るか焼くかして食されるが、一度に食べきれない分は煙でいぶして薫製にしている。アマゾンでは、塩は貴重なものなので、塩漬けにしたり塩をふって干したりということはしないようである。またアマゾンではアリやクモ、カブトムシといった昆虫類も食べる。採集狩猟民が非常に多くの種類の肉を食用とするのは、彼らの食料確保や保存のむずかしさを物語るものでもあるだろう。

[木内裕子]

牧畜民の肉食

いまから約1万年前に農耕や牧畜が開始されると、それまで各地に存在してきた採集狩猟社会は前記のような地域に限られるようになった。農耕社会では狩猟はスポーツもしくは娯楽と化し、大形の獣や鳥が対象とされることが多くなった。

 牧畜社会では、生業活動において動物を扱うとはいっても、それは財産でもあり、めったに殺して食べることはしなくなった。アフリカでは、サハラ砂漠、東アフリカの一部の半砂漠地帯に、アラブ、ベルベル、ソマリなどがラクダを、サバナ地域ではマサイ、トゥルカナ、ポコット、フラニなどがウシおよびそれに付属してヤギ、ヒツジを飼育している。彼らは農耕民との交易により穀物を手に入れるが、経済の基盤は家畜からとれる乳、肉、血である。とくに乳は重要視され、数日間放置してから酸乳にする。また血液は5倍の乳と混ぜて飲用にする。ウシやラクダはめったなことでは殺さない。肉を食べるときはヤギかヒツジが主であり、ウシやラクダはいけにえにするときに殺されるだけである。アフリカに限らず牧畜民に共通していえることは、手に入れた動物は徹底的に利用することで、肉を食べるだけでなく内臓を利用して腸詰めの類をつくったり、食べられない骨の部分で道具をつくったり、皮で袋類やテントをつくる。つまり、牧畜民にとって家畜は彼らの生活全体を支えるたいせつな資産なのである。南アメリカのアンデス高地では、おもにラクダ科のラマやアルパカ、モルモットの一種のクイが飼育されている。ラマやアルパカは月に一頭ぐらいの割合で殺し、ジャガイモといっしょに煮るか骨付きのまま焼いて食べる。また一度に食べきれない分は、塩をかけて天日で乾燥させて「チャルキ」とよばれる干し肉にする。クイは屋内で飼育される動物だが、祭りや客人のもてなしのときによく使われる。内臓を除いた肉は香料を加えて油で揚げたり、かまどの火で焼いて食べる。

 ユーラシア大陸を中心に広がる遊牧民の社会では、まず北アフリカからアラブ地域でラクダが、イランやアフガニスタンではヒツジやヤギ、トルキスタンでウシ、チベットやヒマラヤの高地でヤク、モンゴルでウマが飼育されている。これらの地域の人々の主たる料理は「カバーブ」とよばれている。これは肉の串(くし)焼き、もしくは鍋(なべ)で脂肪とともに肉を炒(いた)めた料理である。

[木内裕子]

食習慣と肉

文明の発達は、人類の食習慣に多大な影響を与えてきた。生業の種類に基づいて積み重ねられた人々の嗜好(しこう)は、ある文化に固有の食習慣を生み出してきた。たとえば、現代の日本では、ウシやブタ、ニワトリ、クジラの肉は価値が高いが、ウマやイヌの肉は客人に出すことはあまりない。中国では、ブタやヒツジ、ニワトリが主で、ウシは比較的劣等な肉で値段も安い。イヌは、古書のなかでは六畜の一つとされているが、いちばん劣等な肉とされ、時代とともに食される範囲も限定されるようになり、いまでは広東(カントン)や広西などの南部に限られている。

 ヨーロッパでは、元来肉専用の家畜はブタとヒツジであった。ウシは農耕用の駄獣であり、牛肉や牛乳を生産することを主眼としてウシを飼育するようになったのはごく最近のことである。このように、食習慣は合理的な理由があるというよりは、人々の長年の無意識な嗜好の結果といえる部分が大きい。

 ところが、人々の食習慣を人工的に規制した最大のものに宗教がある。たとえば、インドを中心に多くの信者をもつヒンドゥー教の場合、その経典である『マヌ法典』の第48条には不殺生の教えが説かれている。高位のカーストの者ほど肉食をせず、菜食主義を守る傾向が強い。一般にヒンドゥー教徒は牛肉を忌避するといわれているが、牛肉のタブーは『マヌ法典』には見当たらない。しかし、ウシが労役用および乳製品の供給者として、母およびシバ神のシンボルとされたことが、ウシのと畜を神殺しにつながるものとしてタブー視する根拠となったと考えられる。

 イスラム教ではブタは『コーラン』にもあるように食べることはタブーである。さらに、イスラム教徒が好む羊肉でも、だれがどのような方法で殺したかによって食べられなくなるときもある。自分の属する派と異なる派の者の殺した肉は食べられないし、「アラーの御名においてアラーは偉大なり」と唱えながら刃物で頸(けい)動脈とのど笛を切開したものだけが正式にと畜された肉と規定されている。イスラム教徒の間では、可食な肉の種類、殺し手や殺し方の規定が、他派に対する自派、および非イスラム教徒に対するイスラム教徒としてのアイデンティティの基礎となる。また、遊牧民のイスラム教徒の間では、肉で客人をもてなすことはホストの寛大さを示す指標となる。もし客人がそれを辞するときには、「アラーに誓ってあなたが私のために肉を屠(ほふ)るならば、私は私の年老いた妻を離縁するだろう」とまでいわなくてはならない。このことばからも、肉が遊牧民にとっていかに貴重かうかがい知ることができる。

[木内裕子]

日本における肉食

日本人は、仏教国であった関係上、肉食はタブーであったと考えがちであるが、本来仏教はかならずしも肉食を禁じていたわけではない。もちろん仏教には不殺生戒が存在しているが、僧侶(そうりょ)が托鉢(たくはつ)に出て信者から肉をもらい受けた場合、けっしてそれを拒否してはならなかった。また彼らは、生き物が自分のために殺されたことを見たり聞いたり、またその疑いが濃厚な場合のみ厳しく肉食を断ったのである。現在でも上座部仏教では基本的にはこのスタイルであるが、日本や中国、朝鮮に伝わった大乗仏教圏ではいつしか僧侶は絶対肉を食べてはならないことになった。

 日本では、6世紀に仏教が伝来し、天武(てんむ)天皇(在位673~686)の時代にウシ、ウマ、イヌ、サル、ニワトリの肉を食べることが禁じられ、次に聖武(しょうむ)天皇のときには家畜のと畜を禁じ、違反者は処罰されることとなった。ニワトリは愛玩(あいがん)用や闘鶏用と称して後の時代にも食べ続けられ、またイノシシやシカも食べたようだが、他の大形の家畜については、しだいに食べなくなった。しかし、日本人が肉食をしなかったのは、単に仏教の影響だけではなく、本来日本の自然環境として動物タンパクは魚貝類でまかなうことができ、山奥へ入って危険を冒して動物を狩猟する必要がなかったことを考慮する必要がある。仏教導入以前の神道(しんとう)においても、儀式の供え物は魚と野菜と鳥がよく用いられ、四つ足動物はほとんど使われなかった。日本人が公然と肉食を始めたのは幕末から明治初めのことである。当時の西洋通の人々は、肉食が西洋人の優越の源と考えた。初めに流行したのは牛鍋(ぎゅうなべ)で、これはそれまでの膳(ぜん)による食事形式から、鍋の中のものを好きなだけ各自自由にとるという新しい食事形式を生み出すことになった。そして牛肉の流行に続いてブタなど他の肉も食べられるようになり、洋食が日本人の食生活のなかに浸透していった。

[木内裕子]

『鯖田豊之編『週刊朝日百科世界の食べもの 124号 肉食の文化』(1983・朝日新聞社)』『筑波常治著『米食・肉食の文明』(NHKブックス)』『中尾佐助著『料理の起源』(NHKブックス)』

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普及版 字通 「肉食」の読み・字形・画数・意味

【肉食】にくしよく

美食。〔左伝、荘十年〕曹(さうけい)見(まみ)えんことをふ。其の人曰く、(高官)之れを謀る。何ぞせんと。曰く、は鄙(いや)し。未だく謀ること能はずと。乃ち入りて見ゆ。

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世界大百科事典(旧版)内の肉食の言及

【食事】より

食品食器料理
【食事と社会】

[共食と分配]
 動物は特定の集団の成員のあいだで食物を分かちあって共に食べることはせず,個体単位に食物を摂取するのが原則である。集団で狩猟をする肉食獣が大型の獲物にむらがって食べることが観察されるが,それは一見食事を共にしているようであっても,食物を分かちあって食べているわけではない。巣立つ以前の小鳥の雛に親鳥が餌を運ぶことが知られているが,それは親子関係以上に拡張されないし,一時期のあいだのことであり,雛が成長すると個体単位に摂食行動をすることになる。…

【卵】より

…ニワトリのほうは天武天皇時代に牛馬犬猿とともに食用が禁止されているが,卵についてはそうした禁令は出されなかった。それにもかかわらず卵を食べることが少なかったのは,それを肉食同様の殺生とする感覚があり,《日本霊異記》や《沙石(しやせき)集》に見られる因果応報譚――卵を食べたために恐ろしい報いを受けるといった話が庶民の間に流布し,浸透していたためではないかと思われる。中世末期になって,いわゆる南蛮料理,南蛮菓子が伝えられ,ヨーロッパ人や中国人がまったく罪悪感をもたずに肉や卵を食べるのを実見してから,多くの日本人が卵に対して抱いていた観念は崩壊し始めた。…

【日本料理】より

…その狭義の日本料理は,世界的にみてかなり特異な性格のものであり,本項目は主としてその性格形成の過程とその特徴について略述する。日本料理の構成要素である個々の食品などについてはそれらの各項目を,また,世界の中での日本料理のありようを確かめるためには,人類の食生活の諸形態の分析解明を試みた〈食事〉〈料理〉〈肉食〉〈宴会〉などの諸項目を参照されたい。
[性格]
 日本料理の性格を特異なものとした第1の要因は,日本の食生活が米食中心主義であったことに由来する。…

※「肉食」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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