胡藍の獄(読み)こらんのごく

精選版 日本国語大辞典 「胡藍の獄」の意味・読み・例文・類語

こらん‐の‐ごく【胡藍の獄】

中国、明の洪武帝が、建国功臣胡惟庸(こいよう)藍玉謀反(むほん)嫌疑で滅ぼした事件前者は一三八〇年、後者は一三九三年に起こり、連座する者があわせて四万五千余人に達したといわれる。

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改訂新版 世界大百科事典 「胡藍の獄」の意味・わかりやすい解説

胡藍の獄 (こらんのごく)

中国,明朝洪武時代(1368-98)の胡惟庸(こいよう)と藍玉にまつわる二つの疑獄事件をあわせた呼称。1380年(洪武13)中書省左丞相胡惟庸は謀反のかどで処刑され,御史大夫陳寧ら多くのものが連座した。累は劉基らとともに四先生と呼ばれた宋濂にも及んだ。胡惟庸が日本や北元に通謀していたことが明らかになると,90年再び関係者が追及され,その姻戚李善長をはじめ陸仲亨,費聚,黄彬らの建国の功臣が処刑され,すでに死亡していた顧時,楊璟,華雲竜らはその爵を奪われた。藍玉は武功によって涼国公に封じられたが,功を誇っての横暴不法も多く,93年謀反を理由に処刑された。そして曹震,朱寿ら明朝成立後,辺境平定に貢献した功臣とともに多くの高級官僚が連座し,故人までも爵を奪われた。この二獄によって計4万5000人が連座処刑され,その罪状は天下に公示されたが,事実のほどは明らかではなく,すべては洪武帝の猜疑心(さいぎしん)より出たともいう。ともあれこの一連の獄によって皇帝独裁体制の確立と懿文(いぶん)太子なきあとの明朝の安定がはかられた。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「胡藍の獄」の意味・わかりやすい解説

胡藍の獄
こらんのごく
Hu-lan yu; Hu-lan yü

中国,明初の「胡惟庸 (こいよう) の獄」と「藍玉の獄」とを合せた呼称。明の洪武帝は挙兵以来の協力者である功臣宿将たちを些細な理由や無実の罪で多数殺したが,その最大の疑獄事件が「胡藍の獄」である。胡惟庸は洪武帝の信任も厚く,左丞相まで進み一切の政務専断するにいたったが,洪武 13 (1380) 年謀反をはかったという名目で逮捕され,処刑された。連座して処刑されたものは李善長,宋濂 (れん) らの功臣をはじめ三万余人といわれる。藍玉も謀反を企てたという罪で同 26年逮捕,処刑されたが,その事実は疑わしい。このときも連座処刑されたものは2万人に達したといわれる。この事件で洪武帝の挙兵以来の功臣宿将たちはほとんど殺されたが,それは皇帝の独裁権力を確立するためにとられた粛清手段とも考えられる。

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旺文社世界史事典 三訂版 「胡藍の獄」の解説

胡藍の獄
こらんのごく

明の初代皇帝洪武帝(朱元璋 (しゆげんしよう) )による重臣の粛清
多くの功臣を粛清したが,特に大規模であった,宰相胡惟庸 (こいよう) とその党派の粛清(1380),軍部の実力者藍玉 (らんぎよく) とその党派の粛清(1393)という2つの粛清の中心人物の名で代表させて呼ぶ。それらの背景については多くの説があるが,紅巾から発足成長した明王朝の専制権力充実の過程で起こった事件。こののち皇帝の独裁化,宰相制廃止,辺境諸王の武力強化などが進んだが,その反面,政府と近衛軍が弱体となり,帝の死後,靖難の変を招いた。

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