臨済寺(読み)リンザイジ

デジタル大辞泉 「臨済寺」の意味・読み・例文・類語

りんざい‐じ【臨済寺】

静岡市にある臨済宗妙心寺派の寺。山号は、大竜山。今川義元建立の善得院を天文5年(1536)改称太原崇孚大休宗休を招いて開山とした。徳川家康が幼時人質として居住し、のち、家康が再興。庭園は太原作と伝えられる。

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精選版 日本国語大辞典 「臨済寺」の意味・読み・例文・類語

りんざい‐じ【臨済寺】

静岡市葵区大岩町にある臨済宗妙心寺派の寺。山号は大龍山。享祿年間(一五二八‐三二)創建の善得院を改称して天文五年(一五三六)開創。開基は今川義元。開山は大休宗休。後奈良天皇勅願寺。徳川家康が今川家の人質であった時、二世太原崇孚について勉学した。のち、家康が再興。

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日本歴史地名大系 「臨済寺」の解説

臨済寺
りんざいじ

[現在地名]静岡市大岩町

賤機しずはた山南東の山懐にある臨済宗妙心寺派寺院。大龍山と号し、本尊は阿弥陀如来。史料上、林際寺などとも記される。

〔創建と仏事〕

当寺の創建事情については、天正一五年(一五八七)事実上の創建者である太原崇孚(雪斎)の三十三回忌に際して、弟子の東谷宗杲が読んだ護国禅師雪斎遠諱香語(写、臨済寺所蔵)に記されている。それによると、天文五年(一五三六)三月一七日に死去した今川氏輝を、雪斎が氏輝の祖母北川殿(今川義忠室、北条早雲姉)の旧宅であったという縁で善得ぜんとく院に葬り、寺名を臨済寺と改め菩提寺としたことに始まる。善得院は雪斎に従って禅修行をしていた栴岳承芳(今川義元)が住していた所で、当時雪斎が住持を勤めていた善得寺(現富士市)とともに駿河国における臨済宗の代表的寺院であった。善得院では天文二年一月二二日の義元主催の歌会をはじめとして、同年中に四回も冷泉為和の参加した歌会が行われている(為和集)。同四年五月二〇日には義元の請いにより、義元の出家得度の導師を勤め、また雪斎の師である常庵竜崇によって善得寺前住の琴渓承舜の七回忌仏事が行われている(寅庵稿)。臨済寺となって以後、雪斎(宝珠護国禅師)に始まり、明叔慶浚・大休宗休(円満本光国師)・東谷宗杲・鉄山宗純(仏眼禅師)など臨済宗妙心寺派の高僧が次々と入寺している。

天文一〇年に琴渓承舜の十三回忌、雪斎生母の二十一日忌、氏輝の七回忌などが明叔によって(「明叔録」禅昌寺蔵)、同一七年には氏輝の十三回忌が大休によって(円満本光国師見桃録)、永禄三年(一五六〇)には義元の葬儀が東谷宗杲らによって執り行われている(儀雲和尚法語)

臨済寺
りんざいじ

[現在地名]豊橋市東田町 西郷

村域の中央にある。万年山と号し、臨済宗。本尊釈迦如来。寺伝によると、もと小笠原忠知が豊後の杵築城主の頃、亡父秀政追孝のため建てた宗玄寺(秀政の法名)を、正保二年(一六四五)吉田よしだに転封の後、承応二年(一六五三)吉田の飽海あくみに移し、さらに忠知の没した翌年の寛文四年(一六六四)その子長矩が現在地に移し、寺号を臨済寺と改めて寺領一〇〇石を与えたという。小笠原家の菩提寺で、小笠原氏は元禄一〇年(一六九七)武州岩槻いわつき(現埼玉県)に転封し、また肥前唐津からつ(現佐賀県)に移封となったが、物故三代城主の法祭には必ず当寺へ代参の礼を欠かさなかった。

臨済寺
りんざいじ

[現在地名]雫石町 雫石 下町

JR雫石駅の北にあり、北を主要地方道横手―盛岡線が通る。恵照山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊釈迦如来は延宝九年(一六八一)新渡部(新渡戸)氏ゆかりの女性による奉納。寺地にはかつて天台寺院があったともいわれ、「爽然たる恵照山の納涼」と雫石八景の一つに数えられた。興陽こうよう(現広養寺)から分離し、東禅とうぜん(現盛岡市)の桃谷を中興開山として独立したという。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「臨済寺」の意味・わかりやすい解説

臨済寺
りんざいじ

静岡市葵(あおい)区大岩にある臨済宗妙心寺派の寺。大竜山(だいりゅうざん)と号する。本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)。享禄(きょうろく)年間(1528~32)今川義元(よしもと)が建立、初め善得院と称したが、1536年(天文5)住職雪斎太原(せっさいたいげん)は後奈良(ごなら)天皇の師にあたる大休宗休(だいきゅうそうきゅう)を勧請(かんじょう)開山として臨済寺と改称し、天皇の勅願寺となった。賤機(しずはた)山の山麓(さんろく)にあり、徳川家康が幼少時に今川家の人質として過ごし、雪斎の教育を受けた寺として名高い。天正(てんしょう)年間(1573~92)兵火により焼失するも家康によって再興された。方丈庭園は江戸時代作庭の三段池泉回遊式庭園で国名勝に指定されている。寺宝に絹本着色大休和尚(おしょう)画像、千鳥六曲屏風(びょうぶ)、鉄山和尚語録などが県重要文化財に指定されている。

[菅沼 晃]

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改訂新版 世界大百科事典 「臨済寺」の意味・わかりやすい解説

臨済寺 (りんざいじ)

静岡市葵区大岩にある臨済宗妙心寺派の寺。山号は大竜山。前身は今川義元創建の善得院で,1536年(天文5)守護今川氏輝が同院で逝去すると墓所を設けて寺に改め,氏輝の法名臨済寺殿用山玄公をもって寺号とした。初代住持に今川氏重臣庵原氏出身の太原崇孚(たいげんすうふ)が招かれたが,1548年(天文17)太原は師の大休宗休(妙心寺第25世住持)を開山に勧請し,みずからは2世住持となった。後奈良天皇によって勅願所とされ,今川氏は多くの寺領を寄進し,1534年には駿河・遠江に9ヵ所を確認できる。次いで武田信玄も保護し,1568年(永禄11)に324貫文の寺領を安堵している。竹千代と称した幼年期の徳川家康はこの寺で養育されたが,のち1582年(天正10)家康駿河入りのとき寺は兵火にあい,正親町(おおぎまち)天皇の皇子誠仁親王が再興を命じている。天文(1532-55)末年ごろに9塔頭(たつちゆう)44末寺を数えたが,近世期には朱印寺領100石,末寺53を有する寺勢を誇った。現在,庭園は国の名勝に指定され,《大休和尚画像》《鉄山和尚語録》や古文書を蔵し,専門道場(僧堂)では雲水が修業にはげんでいる。
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百科事典マイペディア 「臨済寺」の意味・わかりやすい解説

臨済寺【りんざいじ】

静岡市にある臨済宗妙心寺派の寺。今川義元(よしもと)創建の善徳(ぜんとく)院を前身とし,1536年今川氏輝(うじてる)(法名臨済寺殿)没後寺に改めたという。勧請開山大休(だいきゅう),初代住持太原崇孚(たいげんすうふ)。幼年期の徳川家康が当寺で養育された。庭園は国指定名勝。

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デジタル大辞泉プラス 「臨済寺」の解説

臨済寺

静岡県静岡市葵区にある臨済宗妙心寺派の寺院。戦国大名、今川氏の菩提寺で、徳川家康が幼少期の人質時代に教育を受けた寺。本堂は国指定重要文化財、庭園は国指定名勝。

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世界大百科事典(旧版)内の臨済寺の言及

【賤機山】より

…山頂には賤機山公園があり,静岡市街,日本平,富士山,伊豆半島などを望むことができる。東麓には今川義元の開山した臨済寺,南麓に賤機山古墳,浅間(せんげん)神社がある。賤機山の別名〈賤ヶ丘〉は静岡の地名の由来となった。…

【太原崇孚】より

…のち京都建仁寺の竜堂常庵に参学し,妙心寺霊雲院の大休宗休の法を継いで弟子となった。1536年(天文5)今川義元が兄氏輝の菩提のために臨済寺(静岡市)を開創すると,その開山に師の大休を招き,みずからは2世として住持に就き,善得寺,庵原郡清見寺の住持をも兼ねた。太原は今川氏の重臣の家に生まれたことや義元とともに寺院で修行したこともあって,同氏の執事として活躍し,相模,伊豆,三河へと出陣した。…

※「臨済寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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