興聖寺(読み)コウショウジ

デジタル大辞泉 「興聖寺」の意味・読み・例文・類語

こうしょう‐じ〔コウシヤウ‐〕【興聖寺】

宇治市宇治山田にある曹洞宗の寺。山号は仏徳山。天福元年(1233)道元が深草の極楽寺跡に創建。その後廃絶していたが、慶安2年(1649)淀城主永井尚政が復興。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「興聖寺」の意味・読み・例文・類語

こうしょう‐じ コウシャウ‥【興聖寺】

京都府宇治市宇治山田にある曹洞宗の寺。山号は仏徳山。天福元年(一二三三)道元の開山。日本最初の禅寺で、はじめは深草の極楽院跡にあり、道元が「正法眼蔵」の前半を著作した。のち慶安二年(一六四九)永井尚政が現在地に移建。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

日本歴史地名大系 「興聖寺」の解説

興聖寺
こうしようじ

[現在地名]宇治市宇治山田

宇治うじ川右岸の朝日あさひ山南麓にあり、仏徳山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。曹洞宗の開祖道元が嘉禎二年(一二三六)深草ふかくさ(現京都市伏見区)極楽寺の地に興聖宝林こうしようほうりん寺を建て、曹洞宗初開の道場としたのに始まる。しかし同寺は四世の住持を経て廃絶した。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔永井氏による再興と寺観整備〕

慶安元年(一六四八)よど(現伏見区)の城主永井尚政は現在の寺地を選んで再興に着手、万安英種を迎えて中興とし五世住職に据えた。その晋山開堂が行われたのは、翌二年九月であった(本堂棟札)。本堂・開山堂(現天竺殿)・禅堂・方丈・鐘楼・監寺寮など、現存する主要な建築物が慶安元年から承応元年(一六五二)の間に次々と上棟されている。なかでも伏見ふしみ(現伏見区)遺構と伝える本堂は、桁行柱間九間、梁行柱間六間の単層・入母屋造・本瓦葺。

興聖寺
こうしようじ

[現在地名]朽木村岩瀬

岩瀬いわせ岩神いわがみ集落西の山裾にある。高巌山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。寛元元年(一二四三)朽木氏の祖佐々木信綱が上柏かみかせ村に開基したという。道元が北国下向の途上、当地の山岳・河川の姿が山城国宇治興聖寺(現京都府宇治市)に酷似していることから、信綱が一寺を建立させたという。道元を開闢とし、二世懐奘を開山とする。朽木氏歴代の菩提寺で歴代の墳墓もある。享保一四年(一七二九)岩神村にあった秀隣しゆうりん寺の地に移る。本尊釈迦如来坐像は平安時代の作で、国指定重要文化財。現興聖寺の寺域は中世朽木氏の館跡といわれる。安曇あど川河岸段丘上に位置し、北には小彦こしこ谷が、南には約一キロ離れて大彦おしこ谷があり、自然の防御となっている。

興聖寺
こうしようじ

[現在地名]国富町木脇 平原

本庄ほんじよう川の支流深年ふかどし川の左岸、平原ひらばるの小高い山の斜面にある。池王山と号し、曹洞宗。本尊地蔵菩薩。延文三年(一三五八)八月二五日の嶽翁長甫による大光寺規式(大光寺文書)に山僧開基寺庵住持職の一つとして興聖寺がみえ、一四世紀前半に創建されたと考えられる。応安二年(一三六九)三月二八日の独峰覚証案(木脇村史)に「諸県郡木脇村池王山興聖寺」とみえ、この日当寺創建に資材を提供した福山祐公とその子と思われる祐山栄公(ともに実名不詳)が死去している。当寺にある位牌によれば、開山は南陽融薫、二世住持は胡覚成代であった。永享六年(一四三四)島津氏と伊東氏は木脇きわきの却生寺門前で合戦となったが(日向記)、この却生寺は当寺のことか。

興聖寺
こうしようじ

[現在地名]宗像市田島

片脇かたわきにある臨済宗大徳寺派の寺院。多福山と号し、本尊は釈迦如来。初めは真言宗で、永禄一一年(一五六八)に大友勢の放火により焼失したあと即山が再興、臨済宗とし、崇福そうふく寺の末寺になったという(続風土記拾遺)。「応安神事次第」戊本の永享九年(一四三七)三月七日の追補には、宗像社辺津へつ宮第一宮の長日立用米事に「上八村郷二石五斗内、祝興聖寺一石六斗六升」などとある。文安三年(一四四六)に大宮司になった宗像氏正は当寺の僧宗琢の侍者であった(「宗像宮社務次第」乙本)。宝徳二年(一四五〇)一二月晦日の年中諸祭礼衣裳之事(宗像大社所蔵文書/神道大系神社編四九宗像)によると、一月(日部分破損)と一月九日に大宮司が直垂で当寺に出向いている。

興聖寺
こうしようじ

[現在地名]留萌郡小平町字鬼鹿田代

田代たしろにある。宝林山と号する。曹洞宗。本尊釈迦如来。一八四八―五四年(嘉永年間)通称番屋の沢ばんやのさわに福山町(松前町)法幢ほうとう寺の門人市野智透が来て曹洞宗永平寺派出説教所を開いたことに始まる。明治三年(一八七〇)五月寺号公称の許可を得たが、同四年開拓使方に引継ぎ漏れとなった。同八年改めて説教所設立を許可され、同一六年寺号公称を許可され、宝林山興聖寺と号した。

興聖寺
こうしようじ

[現在地名]上京区上天神町

「おりべ寺」ともいう。円通山と号し、本尊は釈迦如来。もと臨済宗相国寺派に属したが、現在は同宗興聖寺派本山。「山城名跡巡行志」に、文禄年中(一五九二―九六)虚応が大昭庵を結んだのが始りで、慶長八年(一六〇三)古田織部の願により寺名を興聖寺と改めたとある。寛永六年(一六二九)後水尾天皇が勅願所となし(雍州府志)、元禄一四年(一七〇一)東山天皇が常紫衣の寺と定めた(坊目誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「興聖寺」の意味・わかりやすい解説

興聖寺 (こうしょうじ)

京都府宇治市にある曹洞宗永平寺派の寺。山号は仏徳山。道元が京都の南郊に建てた興聖宝林寺は中世の戦乱のなかで廃絶したが,その再興を目ざして,1648年(慶安1)淀の城主の永井尚政が現地に造営した寺である。中興の開山は万安英種(ばんあんえいしゆ)。道元の遺徳をしたう英種の峻厳枯淡な禅が,そののち当寺の伝統的な禅風となった。江戸時代,当寺は畿内を中心に末寺250余ヵ寺,諸国から多くの雲水(うんすい)が集まって修行し,越前の永平寺,加賀の大乗寺,能登の総持寺,肥後の大慈寺とあわせて〈日本曹洞五箇禅林〉とうたわれた。現在,寺地は平等院の対岸,宇治の清流に臨み,河畔から直線にのびる琴坂という参道を経て宋風の山門を入ると,本堂以下の創建当初の諸堂が並び,また境内には開基大檀那の尚政が選んで植えた松,桃,梅,柳,桜,モミジなどが,よく手入れされて,四季おりおりの景趣を添えている。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「興聖寺」の意味・わかりやすい解説

興聖寺【こうしょうじ】

京都府宇治(うじ)市にある曹洞宗の寺。本尊釈迦如来。宗祖道元(どうげん)が1233年深草に建てた観音導利興聖宝林禅寺が中世の戦乱の中で廃絶,1648年淀(よど)城主永井尚政(ながいなおまさ)が万安英種(ばんあんえいしゅ)を中興開山に迎え再興した。越前の永平(えいへい)寺,加賀の大乗(だいじょう)寺,能登の総持(そうじ)寺,肥後の大慈(だいじ)寺と合わせ〈日本曹洞五箇禅林〉と言われる。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「興聖寺」の意味・わかりやすい解説

興聖寺
こうしょうじ

京都府宇治市宇治山田にある曹洞(そうとう)宗の寺。詳しくは仏徳山(ぶっとくさん)観音導利院(かんのんどうりいん)興聖宝林禅寺という。曹洞宗の宗祖道元(どうげん)が、中国から帰国後の1233年(天福1)に宇治郡深草(京都市伏見(ふしみ)区)の極楽寺(ごくらくじ)跡に一寺を建て、興聖宝林寺と称したのに始まる。以後11年間、曹洞宗最初の根本道場として道元門下の修行の場となって栄えたが、1243年(寛元1)道元が越前(えちぜん)(福井県)の永平寺に移ってからは荒廃し、さらに兵火により焼失した。現在の建物は、1648年(慶安1)に淀(よど)城主永井尚政が万安英種(ばんあんえいしゅ)を中興開山として現在地に再興したものである。

[菅沼 晃]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の興聖寺の言及

【道元】より

…やがて33年(天福1)ごろ,正覚尼(しようかくに),九条教家などの寄進によって,もと極楽寺の一部であった深草の観音導利院を中心に一寺を建立し,観音導利興聖宝林禅寺とした。伽藍が整備され,入門者が増加したため,37年(嘉禎3)春に《典座教訓(てんぞきようくん)》を著して,深草の興聖寺教団の修行生活を厳しく規正した。 1234年(文暦1)冬に大日能忍門下の孤雲懐奘(えじよう)が,ついで越前波著(はぢやく)寺から大日派の覚禅懐鑑(えかん),徹通義介(てつつうぎかい)など臨済宗大恵派の人々が相ついで集団入門をとげたので,道元の深草教団は充実し,にわかに活況を呈した。…

※「興聖寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android