花園城(読み)はなぞのじょう

日本の城がわかる事典 「花園城」の解説

はなぞのじょう【花園城】

埼玉県大里郡寄居町にあった戦国時代の山城(やまじろ)。平安時代末期、武蔵七党の一つの猪俣党の猪俣政家の子政行は藤田郷に住んで、藤田姓を称するようになったが、その居城としていたのが花園城といわれる。その後、戦国時代の天文年間(1532~54)に、藤田重利(のちの康邦)が天神山城(秩父郡長瀞町)を築いて居城を移してからも藤田氏の城(天神山城の支城)として存続した。藤田重利は武蔵支配を確立した北条氏康に降伏し、氏康四男の氏邦を天神山城に迎えて養子とし、その家督を譲った。氏邦は1560年(永禄3)以降、鉢形城(大里郡寄居町)を整備して天神山城から居城を移したが、この時、花園城は注目を集めたと推定される。花園城は鉢形城とは川をはさんで向きあうような位置にあり、敵が川をはさんで鉢形城に対して陣を構えると、花園城がその陣の背後を脅かす位置にあったためである。こうしたことから、鉢形城の支城としての整備が進められた。その後、1590年(天正18)には豊臣秀吉の北条氏攻め(小田原の役)が起こり、花園城は鉢形城や天神山城とともに降伏・開城、あるいは落城したと考えられている。なお、花園城は氏邦に家督を譲った康邦の隠居城になったという別説もある。城跡は藤田氏の菩提寺である藤田善導寺の背後の山中にあり、その主郭(本丸)は標高約200mのところにあった。主郭のあった場所には現在、石碑が建っている。花園城は中世の関東以北の城としては珍しい石積みを多用していた城郭だが、主郭から南側の曲輪(くるわ)にかけて、緑泥片岩を平積みした石組みの遺構が現存している。また、藤田氏の城独特の竪堀や腰曲輪などの遺構も比較的よく残っているが、城跡のほとんどは雑木の茂る山林で、整備されていないためたいへん歩きにくい。JR八高線・東武東上線・秩父鉄道寄居駅から徒歩約25分(城山の麓まで)。本郭跡のある山頂へは善導寺の本堂西側の墓園から山頂に続く道がある。本郭までは登城口から徒歩約20分。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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