芳沢あやめ(初代)(読み)よしざわ・あやめ

朝日日本歴史人物事典 「芳沢あやめ(初代)」の解説

芳沢あやめ(初代)

没年享保14.7.15(1729.8.9)
生年:延宝1(1673)
初代坂田藤十郎と共に元禄期を代表する歌舞伎役者。本姓斎藤。前名橘屋権七,吉沢あやめ。俳名春水。屋号橘屋。5歳で父と死別,道頓堀の色子に売られ綾之助と名乗る。丹波国亀山(姫路市)の郷士橘屋五郎左衛門に寵愛され,役者としての基礎訓練を受ける。のち水島四郎兵衛の食客となり初代嵐三右衛門に師事。その没後は山下半左衛門の門下となり,次第に人気を得た。元禄10(1697)年の評判記で位付けが若女形上上吉となる。翌11年正月布袋屋座上演の傑作「傾城浅間岳」の傾城三浦が高く評価され,女形として確固たる地位を築いた。宝永期(1704~11)に入り競争相手荻野沢之丞の死亡,水木辰之助隠退もあって女形の第一人者となり,三ケ津惣芸頭,三国無双などの称号を冠せられた。49歳の享保6(1721)年に芳沢権七の名で立役に転じたが好評は得られず,翌年女形に戻った。 所作事(舞踊)よりも地芸(演技)にすぐれ,地味で着実な演技で没年まで若女形を勤め,日本女形の開山と尊敬された。歌舞伎を写実的な演劇として発達させた功績者のひとり。その芸談『あやめぐさ』は,写実に徹した女形演技論としてきわめてすぐれる。57歳で没したのち,長男が2代目あやめを継ぎ,4男が3代目を継いだ。文化期まで5代を数えるが,5代目のみすぐれる。現在この名跡は絶えている。<著作>『あやめぐさ』(今尾哲也『役者論語評註』)<参考文献>高野辰之『日本演劇史』3巻,伊原敏郎『近世日本演劇史』

(松平進)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「芳沢あやめ(初代)」の解説

芳沢あやめ(初代) よしざわ-あやめ

1673-1729 江戸時代前期-中期の歌舞伎役者。
延宝元年生まれ。色子(いろこ)から若衆方をへて女方となる。所作より地芸にすぐれ上方歌舞伎の女方芸を確立した。元禄(げんろく)11年初演の「傾城浅間岳(けいせいあさまがたけ)」の傾城三浦が当たり役。芸談「あやめぐさ」は女方の修業や心得を説いている。享保(きょうほう)14年7月15日死去。57歳。姓は斎藤。初名は橘屋権七。前名は吉沢あやめ,吉沢菊之丞,芳沢権七。俳名は春水。屋号は橘屋。
【格言など】相手をそこなわぬようにするというは 我が当りをと心がけぬことなり(「あやめぐさ」)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android