せり‐かわ ‥かは【芹川】
[一] 京都市伏見区を流れる
小川。
竹田に発し、下鳥羽、
横大路を南流する灌漑用水路(洛南三号水路)となっている。また、その川に沿った下鳥羽の
地名。旧
紀伊郡芹川村。今の下鳥羽芹川町のあたり。
※続日本後紀‐承和一一年(844)一〇月丁酉「行二幸水沼野及芹河一。山城国司献二御贄一」
※月清集(1204頃)百首「
せりかはのなみもむかしにたちかへり
みゆきたえせぬさがのやまかぜ」
[三] 滋賀県多賀町、彦根市を貫流する川。
霊仙山の南側のふもとに発し、彦根市で
琵琶湖に注ぐ。大堀川。
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デジタル大辞泉
「芹川」の意味・読み・例文・類語
せり‐かわ〔‐かは〕【芹川】
京都市右京区嵯峨を流れる小川。小倉山の北側山地に源を発し、天竜寺の東を南流して大堰川に注ぐ。現在は瀬戸川と呼ぶ。[歌枕]
京都市伏見区下鳥羽を流れていた小川。また、その川に沿った下鳥羽の地名。現在の下鳥羽芹川町のあたり。
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芹川
せりかわ
霊仙山の中腹に源を発し、カルスト地形の山中を蛇行しながら西流し、多賀町八重練付近で平野に出、ほぼ北西に流れ、彦根市街の南で琵琶湖に注ぐ。彦根市大堀町近くを流れるため大堀川、中世、川のそばに世理庄があったため世理川ともよばれ、歌枕として知られる不知也川はこの川をさすともいわれる。天文三年(一五三四)二月五日の守護奉行人連署奉書(多賀大社文書)にある「多賀川」は当川をさし、簗が作られ、鵜飼も行われている。また元和年間(一六一五―二四)から合枡立といって、毎年米四石を彦根藩に納めて漁稼をしており、その漁業権は中藪村(現彦根市)がもっていた(彦根市史)。元来の流れは現在の彦根市の東海道本線橋梁付近から北へ流れ、金亀山の東を通って氾濫原を形成しながら松原内湖に注いでいた。
芹川
せりかわ
歌枕。「和歌初学抄」「八雲御抄」「和歌色葉」に挙げられる。「後撰集」の次の歌による。
<資料は省略されています>
これは「三代実録」仁和二年(八八六)一二月一四日条に「行幸芹川野」とあるものである。ところで「八雲御抄」が「嵯峨にも深草にも在之」と記すように、芹川は嵯峨にもあり、歌に詠まれる(右京区の→芹川)。しかし「三代実録」元慶六年(八八二)一二月二一日条に、狩猟を禁じた地に「紀伊郡芹川野」とみえ、仁和の行幸の地は当地と考えられる。「類聚国史」(天皇遊猟)にも仁明天皇が天長一〇年(八三三)一二月一三日「行幸芹川野、栗隈山遊猟」とある。
芹川
せりかわ
歌枕。「後撰集」の次の歌を証歌とする。
<資料は省略されています>
これは「三代実録」仁和二年(八八六)一二月一四日条に「行幸芹川野」とある時のもので、この芹川は紀伊郡とされている。歌学書「八雲御抄」が芹川を「嵯峨にも深草にも在之」と記すように二ヵ所ある。しかし「さかの山」を嵯峨帝と解する説が古く、嵯峨の地の芹川とするのは後代である(伏見区の→芹川)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報