茅原華山(読み)かやはらかざん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「茅原華山」の意味・わかりやすい解説

茅原華山
かやはらかざん
(1870―1952)

新聞記者評論家本名は廉太郎(れんたろう)。旧幕臣の子として東京に生まれる。家運没落のため小学校を中退し、以後独学。1892年(明治25)『東北日報』記者となったのを振り出しに、新聞界に入る。『山形自由新聞』『人民』『長野新聞』『電報新聞』を巡り、しだいに文名を高めた。1904年(明治37)『萬朝報(よろずちょうほう)』に入社幸徳秋水(こうとくしゅうすい)ら辞職後の言論欄を担当した。約5年間欧米に遊んだのち、『萬朝報』紙上民本主義小日本主義を主唱し、青年学生層に強い支持を得た。また1913年(大正2)、石田友治(1881―1942)らの青年を率いて『第三帝国』を創刊し、進歩的論陣を張った。第一次世界大戦後は思想状況の変化のなかで彼の思想的魅力は薄れ、一時ほどの人気はなくなったが、多くの著作を残した。

[有山輝雄]

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改訂新版 世界大百科事典 「茅原華山」の意味・わかりやすい解説

茅原華山 (かやはらかざん)
生没年:1870-1952(明治3-昭和27)

ジャーナリスト,評論家。東京牛込に生まれる。父の死後,小学校を中退して逓信省太政官小舎人となって一家を支えながら苦学漢詩文美文で知られるにいたり,1892年の《東北日報》を振出しに,《山形自由新聞》《人民新聞》《長野新聞》などで論説記者,主筆として活躍。1904年,万朝報社に入り,翌年から同社海外通信員として8年間,欧米を中心に世界各地を訪れる。帰国後,大正政変に際し〈民本主義〉と〈小日本主義〉(満韓放棄論)を説いて活躍,13年旬刊誌《第三帝国》を創刊して,地方青年の啓蒙と組織化につとめた。14年,万朝報退社,16年《洪水以後》(まもなく《日本評論》と改題)創刊。2度目の世界旅行の後は,20年発刊の直接購読雑誌《内観》により,支持者に支えられて評論活動を続ける。一時ファシズムへの傾斜もみせたが,基本的には韜晦(とうかい)の姿勢を貫いた。戦争中は当局の弾圧を受け,《内観》も廃刊。46年,《日本人民の誕生》を岩波書店より刊行。著書は40冊を超える。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「茅原華山」の解説

茅原華山 かやはら-かざん

1870-1952 明治-昭和時代の評論家。
明治3年8月3日生まれ。改進党系の「東北日報」記者のあと,自由党系新聞の記者をつとめ,明治37年万朝報(よろずちょうほう)に入社。大正2年石田友治と「第三帝国」を創刊,民本主義をとなえた。9年個人雑誌「内観」を発刊。昭和27年8月4日死去。82歳。東京出身。本名は廉太郎。著作に「動中静観」など。

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