茶室一覧(読み)ちゃしついちらん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「茶室一覧」の意味・わかりやすい解説

茶室一覧
ちゃしついちらん

この茶室一覧は、主要な茶室を五十音順に配列したもの。⇒は、この用語集の中における関連を示す。*印は別に本項目があることを示す。


憶昔席(いくじゃくのせき)
 京都市下京区西本願寺境内の滴翠園(てきすいえん)内にある。当園内の飛雲閣(ひうんかく)に付属した茶室で、1795年(寛政7)に門主文如上人(もんにょしょうにん)が藪内(やぶのうち)家6世比老斎(ひろうさい)竹陰の指導を得て建てたものと思われる。二畳台目(だいめ)席に一畳の相伴(しょうばん)席、半畳の踏込みのある席で、床の黒塗框(くろぬりがまち)や南方産珍木を用いた床柱など聚楽第(じゅらくだい)の遺構と伝える飛雲閣にふさわしい格調を備えている。国宝。

稲荷大社御茶屋(いなりたいしゃおちゃや)
 京都市伏見(ふしみ)区伏見稲荷大社の一画にある。1630年(寛永7)に完成された後水尾院(ごみずのおいん)の仙洞御所(せんとうごしょ)に建てられた茶室を、のちに拝領したものと伝えられる。入母屋造(いりもやづくり)、檜皮葺(ひわだぶき)、七畳の一の間と八畳の二の間とがある。一の間は床、違い棚、付書院(つけしょいん)、長押(なげし)には釘隠(くぎかくし)のある書院造であるが、床柱に丸太、面皮(めんかわ)柱を用い、欄間(らんま)に菱格子(ひしごうし)がみられ、数寄屋造(すきやづくり)の意匠がよく和合している。重文。

遺芳庵(いほうあん)
 京都市東山区の高台寺境内にある。京都島原の遊女吉野太夫(よしのだゆう)をしのんで建てられ、壁面いっぱいの大きな円窓(まるまど)が特徴で「吉野窓の席」の名でも知られる。寛永(かんえい)年間(1624~44)の作と伝えられ、もとは小川通武者小路(むしゃのこうじ)上ルにあったが、大正の初めごろ当地に移され、境内でも移動しているため原形とはかなり異なっていると考えられる。

裏千家祖堂(うらせんけそどう)
 京都市上京区裏千家にある。裏千家4世仙叟(せんそう)(1622―97)が1690年(元禄3)に仏師隠達作の利休像を安置する廟堂(びょうどう)を建てた。これが三千家を通して最初の祖堂(利休堂)である。現在のものは1839年(天保10)11世玄々斎宗室(1810―77)の再建になる。寄棟造(よせむねづくり)、茅葺(かやぶき)、三畳中板入(なかいたいり)で、炉は台目切(だいめぎり)、板敷き上段の奥に利休像を祀(まつ)る。茶室としてより儀式の場となっている。重文。

恵観山荘(えかんさんそう)*
 止観亭の名で親しまれ、鎌倉市浄明寺宗徧(そうへん)流家元山田邸内にある。一条昭良(いちじょうあきよし)(後陽成(ごようぜい)天皇の第九子、法号恵観)が、1652年(慶安5)ごろ京都西賀茂に建てた山荘で、1959年(昭和34)に当地に移築した。江戸時代初期における貴族の茶の特質をよく表している。重文。

遠州別好席(えんしゅうべつごのみのせき)
 京都市東山区建仁寺(けんにんじ)久昌院の客殿仏間の背後にある。久昌院は1608年(慶長13)に美濃(みの)加納の城主奥平信昌(おくだいらのぶまさ)が三江紹益を開山として創立した寺であるが、茶室は後の改造の際につくられ、製作年代は明らかでない。五畳半向板入(むこういたいり)の座敷で、炉は向切(むこうぎり)、隅の壁面の一部に三角形の棚をつけ、床に見立てたくふうが巧みである。

燕庵(えんなん)*
 京都市下京区西洞院(にしのとういん)通にある。藪内家宗家の代表的な茶室で、初代藪内剣仲(けんちゅう)が義兄古田織部(ふるたおりべ)から譲られた茶室の写しである。本家が1864年(元治1)の兵火で焼失したため、摂津有馬(ありま)の茶室が1867年(慶応3)に当地に移築された。1831、32年(天保2、3)に忠実に写されたものと思われ、織部の創意がうかがえる貴重な茶室である。重文。

表千家祖堂(おもてせんけそどう)
 京都市上京区表千家にある。利休百五十年忌に7世如心(じょしん)斎が露地(ろじ)の一隅に利休像を祀(まつ)った小堂を建てた。簡素な草堂であったが、天明(てんめい)の大火に焼失し、翌年の1789年(寛政1)8世啐啄(そったく)斎が堂を再興し、四畳半道安囲(どうあんがこい)の座敷の北西隅に利休像を安置した。1839年(天保10)利休二百五十年忌に改造されたものが現存し、表千家最古の貴重な遺構である。重文。

皆如庵(かいにょあん)
 京都市東山区円山(まるやま)公園のほとりの西行庵(さいぎょうあん)にある。桃山時代に宇喜多秀家(うきたひでいえ)の息女が久我大納言(こがだいなごん)家へ輿入(こしい)れの際の引出物と伝える。1894年(明治27)に当地に移築された。床は正面に円窓(まるまど)をあけ、内側に障子をたて、中央に花入れの釘がある特殊な構えである。夜咄(よばなし)のときにこの窓から水屋の明りが漏れ風情を添えるので「夜咄の席」ともよばれる。

霞床の席(かすみどこのせき)
 京都市北区大徳寺塔頭(たっちゅう)玉林院にある。大坂の富豪鴻池了瑛(こうのいけりょうえい)が1742年(寛保2)に造立した位牌(いはい)堂南明庵(なんめいあん)の東に付属する書院茶室。南明庵の西側には草庵茶室蓑庵(さあん)がある。床の中央に違い棚が設けられ、これを霞に見立てて席名としたが、棟札には「鎖の間」と書かれている。重文。

雅俗山荘(がぞくさんそう)
 大阪府池田市建石町にあり、現在逸翁(いつおう)美術館に使用されている。財界一の茶人小林逸翁(一三(いちぞう))が1936年(昭和11)に営んだ山荘で、翁の収集した古美術品が保管されている。山荘内には三畳台目(だいめ)土間付茶室の即庵(そくあん)がある。即庵の土間には椅子(いす)席が設けられ、腰掛けたままで点前(てまえ)や喫茶ができる。

傘亭(からかさてい)*
 京都市東山区高台寺境内にある。桃山時代の建物で、伏見城(ふしみじょう)より移築されたと伝えられ、利休好みともいわれる。もとは「安閑窟(あんかんくつ)」とよばれ、その板額が掲げられているが、竹垂木(たるき)が放射状に広がった化粧屋根裏のようすから傘亭の名となった。吹き放しの土間廊下でつながれた二階建ての茶室は、傘に対して時雨亭(しぐれてい)とよばれている。重文。

閑隠席(かんいんのせき)*
 京都市北区大徳寺塔頭(たっちゅう)聚光院(じゅこういん)にある本堂の背後に建つ書院の中につくられている。1741年(寛保1)の利休百五十年忌に表千家7世如心斎が寄贈した。三畳上台目(あげだいめ)席は簡潔な構えのなかに茶の湯の厳しさがうかがえる。重文。

寒雲亭(かんうんてい)
 京都市上京区裏千家家元邸内にある。裏千家の代表的茶室今日庵(こんにちあん)とは勝手を経て続いており、宗旦(そうたん)(利休の孫)好みの八畳座敷である。一間床の隣の襖絵(ふすまえ)は狩野探幽(かのうたんゆう)になるもので「探幽手違いの襖」として知られている。重文。

官休庵(かんきゅうあん)*
 京都市上京区武者小路千家(むしゃのこうじせんけ)家元邸内にある。利休の曽孫(そうそん)一翁宗守(いちおうそうしゅ)が1667年(寛文7)に造立した。現在の建物は幾度かの火災を経てのち1926年(大正15)に原形に忠実に造り直されたものである。一畳台目(だいめ)向切(むこうぎり)で、道具畳と客畳の間に板が敷かれている。わびに徹した茶室である。

観月庵(かんげつあん)
 島根県松江市北田町普門院境内にある。江戸中期に、院主9世恵海が建てた茶室で、三斎流の荒井一掌の好みになると伝えられている。二畳隅炉(すみろ)の席で、点前(てまえ)畳の勝手付(かってつき)に肘掛(ひじかけ)窓が天井までいっぱいに開けられている。

環翠園(かんすいえん)
 京都市上京区武者小路千家にある。武者小路千家8世一指斎(いっしさい)が、会津藩御用の京商人矢倉家にあった4世直斎(じきさい)好みの座敷を移築したもので、北に祖堂を隔て官休庵(かんきゅうあん)がある。七畳に一間下座床の座敷で、欄間(らんま)に武者小路千家の定紋の独楽(こま)の透しが入っている。

菅田庵(かんでんあん)*
 島根県松江市の、松江藩の家老であった有沢家の山荘にある。1792年(寛政4)藩主松平不昧(まつだいらふまい)(治郷(はるさと)、1751―1818)の指導によって建てられた。茶室は向月(こうげつ)亭と水屋を経て続いており、躙口(にじりぐち)の藁葺入母屋(わらぶきいりもや)の深い屋根が美しい。一畳と台目(だいめ)畳からなる茶室で、中板(なかいた)、中柱を備えていながら隅炉(すみろ)となっているなど、不昧の自由な構想がうかがえる。重文。

嬉森庵(きしんあん)
 ⇒天佑庵(てんゆうあん)
既白軒(きはくけん)
 京都市右京区妙心寺塔頭(たっちゅう)桂春院(けいしゅんいん)にある。記録によると1742年(寛保2)には存在していたことになるが、作者、年代ともさだかではない。宗旦(利休の孫)の四天王の一人といわれる藤村庸軒(ふじむらようけん)の好みとも伝えられ、書院の続きに目だたないように建てられた三畳上台目(あげだいめ)席である。

化生庵(けしょうあん)
 東京都文京区護国寺境内にある三畳台目(だいめ)の席。明治から昭和の実業家馬越化生(まごしかせい)(恭平)が昭和の初め麻布(あざぶ)の邸内に広間月窓軒とともに建てた。化生の没後1935年(昭和10)に当地に移築された。月窓軒は八畳の書院造で、次の間六畳がある。

月窓軒(げっそうけん)
 ⇒化生庵(けしょうあん)
月波楼(げっぱろう)*
 京都市西京区桂離宮(かつらりきゅう)庭園内にある。離宮の草創期の遺構と考えられる。白居易の西湖詩から出た名前で、池畔の眺めを楽しめるように設計されている。

篁庵(こうあん)
 京都市北区大徳寺境内の塔頭(たっちゅう)三玄院にある。寛政(かんせい)年間(1789~1801)に西本願寺境内に燕庵(えんなん)の写しとして建てられた。明治後期に奥庭が洋風に改造された際、10世藪内休々斎紹智(じょうち)によって当地に移築された。部材が新しくなったり、外観に多少の変化があるが、古田織部の燕庵形式の遺構として貴重である。

向月亭(こうげつてい)
 島根県松江市菅田(すがた)町有沢山荘内にある。1790年(寛政2)に松平不昧の設計により、不昧流宗家となった有沢弌通(ありさわいっつう)が建てたと考えられている。四畳半台目(だいめ)の茶室に六畳、八畳、くつろぎの間と続く書院造で、水屋を経て草庵(そうあん)茶室菅田庵(かんでんあん)がある。江戸末期の代表的数寄屋(すきや)建築の遺構として重要である。重文。

弘道庵(こうどうあん)
 京都市上京区武者小路千家家元邸内にある。渡り廊下、祖堂を経て官休庵へと続く。1772年(安永1)官休庵の火災復興に際し、4世直斎宗守(じきさいそうしゅ)が多人数の茶の湯の場として十五畳の広間を考案し、弘道庵と命名した。その後、天明(てんめい)の大火、幕末の兵火にあい、現在のものは1939年(昭和14)に9世愈好斎宗守が再建したものである。

弘仁亭(こうにんてい)
 東京都渋谷区青山の根津美術館庭園内にある。明治の末、富豪村井吉兵衛(きちべえ)が建て、1931年(昭和6)大倉邸(現ホテルオークラ)に移し、1956年当地に移築した。書院造十五畳の広間で、炉は台目切(だいめぎり)。四畳半台目の草庵(そうあん)茶室無事庵と一棟になり、庭園建築としても優れている。

好文亭(こうぶんてい)
 京都市東山区青蓮院(しょうれんいん)内にある。後桜町院(ごさくらまちいん)が1788年(天明8)皇居火災の難を逃れて当地を仮御所としたときに建てた御学問所であった。1921年(大正10)に茶の座敷として使用されるようになり、茶の湯にふさわしいようくふうされてきた。貴族的な好みがうかがえる建物である。

金地院八窓席(こんちいんはっそうのせき)
 京都市左京区南禅寺塔頭(たっちゅう)金地院境内にある。1624~1628年(寛永1~5)に小堀遠州(政一(まさかず)、1579―1647)が金地院崇伝(こんちいんすうでん)の依頼を受けて、当地にあった三畳台目(だいめ)の茶室を改造した。縁側から躙口(にじりぐち)に通じる構造や床と点前(てまえ)座を並べるなど、よく遠州好みを残した貴重な茶室である。重文。

今日庵(こんにちあん)*
 京都市上京区裏千家にある。利休の孫宗旦が1646年(正保3)に隠居屋敷を建てた際の二畳敷の茶室。台目(だいめ)畳に向切(むこうぎり)に炉を入れ、点前(てまえ)座先に向板(むこういた)のあるわびを極めた席である。天明(てんめい)の大火に類焼し、1807年(文化4)に再興されたのが現在のものである。重文。

蓑庵(さあん)*
 京都市北区大徳寺塔頭(たっちゅう)玉林院にある。位牌(いはい)堂南明庵(なんめいあん)に付属する茶室で、鴻池了瑛(こうのいけりょうえい)が1742年(寛保2)に造立した。茶事(ちゃじ)の形式で仏事が行えるようにくふうされた三畳中板入上台目(なかいたいりあげだいめ)の草庵である。表千家7世如心斎に学んだ了瑛のわび茶の厳しさがうかがえる貴重な茶室である。重文。

昨夢軒(さくむけん)
 京都市北区大徳寺塔頭(たっちゅう)黄梅院にある。江戸初期に建てられた書院自休軒の中に造り込まれた四畳半で、利休の師である武野紹鴎(たけのじょうおう)の女婿(じょせい)今井宗久(いまいそうきゅう)の好みとも伝えられる。しかし書院風の意匠をとどめながら台目(だいめ)床や墨跡(ぼくせき)窓、丸太長押(なげし)など江戸末の高名な茶人住職大綱和尚(だいこうおしょう)の好みともうかがえる。

猿面茶室(さるめんのちゃしつ)
 名古屋市中区名古屋城内にある。もとは清洲城(きよすじょう)内にあったが、1610年(慶長15)名古屋城内に移築され、待庵(たいあん)、如庵(じょあん)と並び日本三席の一つともいわれ、国宝であった。四畳半台目(だいめ)下座床の席で、床柱の節のようすが猿面を連想させることからこの名がついた。古田織部、小堀遠州、織田有楽(おだうらく)の好みがうかがえ、慶長(けいちょう)年間(1596~1615)の武家社会の茶の湯の姿勢を物語る遺構であった。戦火にあい、現在のものは第二次世界大戦後につくられた。

山雲床(さんうんじょう)*
 京都市北区大徳寺塔頭(たっちゅう)孤篷庵(こほうあん)にある。孤篷庵は小堀遠州によって造営されたが、1793年(寛政5)に焼失した。まもなく松平不昧の後援を得て再興され、そのとき密庵(みったん)を範として製作されたのが山雲床である。席名は『碧巌録(へきがんろく)』中の語尽山雲海月情(かたりつくすさんうんかいげつのじょう)から出ている。重文。

残月亭(ざんげつてい)*
 京都市上京区表千家の書院。利休の次男少庵(しょうあん)が、父の罪を赦(ゆる)されたのち、利休の聚楽(じゅらく)屋敷にあった色付九間(ここのま)書院を範として建てたと伝えられる。秀吉が上段の太閤(たいこう)柱にもたれて月を愛(め)でたという突上(つきあげ)窓は模写されていない。明治の火災にあい、現在のものは1909年(明治42)に再建されたものである。

直入軒(じきにゅうけん)
 京都市北区大徳寺塔頭(たっちゅう)孤篷庵(こほうあん)にある。小堀遠州が、1644年(寛永21)その子喜太夫(きだゆう)を弔うために建てたと伝えられ、1793年(寛政5)に焼失したが、松平不昧らの援助で1800年に再建された。一間の床、付書院(つけしょいん)のある八畳広間で、北側隣室が山雲床(さんうんじょう)、南側廊下の突き当たりが忘筌(ぼうせん)である。重文。

時雨亭(しぐれてい)*
 京都市東山区高台寺境内にある。伏見城(ふしみじょう)より移築されたと伝えられ、利休好みともいわれる。入母屋造(いりもやづくり)、茅葺(かやぶき)の二階屋で、方形造(ほうぎょうづくり)、茅葺の傘亭(からかさてい)と土間廊下でつながれている。傘に対して時雨の名があり、この二つの建物は一組となって珍しい外観を呈している。一階は勝手、二階が茶室で、竈土構(くどがまえ)の形式を伝える貴重な遺構である。重文。

慈光院茶室(じこういんのちゃしつ)*
 奈良県大和郡山(やまとこおりやま)市の慈光院にある。慈光院は片桐石州(かたぎりせきしゅう)(1605―73)が1671年(寛文11)に両親の菩提(ぼだい)寺として建てたもので、茶室は二畳台目(だいめ)に二畳の控えの間を配した簡潔な構成のものである。石州唯一の遺構として貴重である。重文。

慈照院茶室(じしょういんのちゃしつ)
 京都市上京区相国寺(しょうこくじ)塔頭(たっちゅう)慈照院にある。江戸初期に宗旦(利休の孫)の設計により建てられたと伝えられている。四畳半の茶室で、貴人口(きにんぐち)を備え、点前(てまえ)座の勝手付(かってつき)に円窓(まるまど)の仏壇と押入れがあり、居住性も備えている。老狐(ろうこ)がすみ、宗旦に姿を変え、夜な夜な茶人を訪れたとの逸話がある。

実相庵(じっそうあん)
 大阪府堺市(さかいし)堺区南旅籠町(みなみはたごちょう)の南宗寺にある。利休好みと伝えられ、もとは塩穴寺にあったものを1876年(明治9)当地に移築した。戦火で焼失したが1961年(昭和36)に再建された。二畳台目(だいめ)下座床で落掛(おとしかけ)に卒塔婆(そとうば)を用い、床の側壁は瓢(ひさご)形に壁を残し、躙口(にじりぐち)が点前(てまえ)畳寄りに設けられているなど、他と変わった形式を備えている。露地蹲踞(ろじつくばい)の手水鉢(ちょうずばち)は袈裟(けさ)形で利休遺愛の逸品である。

集芳軒(しゅうほうけん)
 京都市左京区慈照(じしょう)寺(銀閣寺)内にある。官休庵(かんきゅうあん)の半宝庵を模したもので、安政(あんせい)年間(1854~60)の作と伝えられる。四畳上台目(あげだいめ)席で点前(てまえ)座に続いて枡床(ますどこ)があり、台目三畳の次の間の境に独楽(こま)模様を入れた竹節欄間(らんま)がある。

縮遠亭(しゅくえんてい)
 京都市下京区東本願寺わきの枳殻邸(きこくてい)(渉成園(しょうせいえん))内にある。宣如上人(せんにょしょうにん)が1653年(承応2)に東本願寺の法主(ほっす)を後継者に譲ってここに隠居した。金閣寺の夕佳亭(せっかてい)を模したと伝えられ、茶室は二畳台目(だいめ)向板入(むこういたいり)である。1858年(安政5)の大火と元治(げんじ)の兵火(1864)で焼失し、その後再興したのが現在のものである。

珠光庵(じゅこうあん)
 奈良市菖蒲池町(しょうぶいけちょう)の称名寺内にある。茶の湯の開山といわれる村田珠光(むらたじゅこう)(1423―1502)が晩年郷里のこの地に建てたもので、独盧庵、香楽庵の名もある。三畳上台目切(あげだいめぎり)の席で、中柱を立て、床は洞床(ほらどこ)である。仕切り襖(ぶすま)の外に一畳半があり、そこに躙口(にじりぐち)が開けられている。現在の建物は1802年(享和2)の再建である。

須弥蔵(しゅみぞう)
 京都市下京区藪内家にある。藪内家5世紹智(じょうち)竹心(1678―1745)が西本願寺内に建てた。元治(げんじ)の兵火(1864)に藪内家が類焼し、西本願寺からこの茶室を譲り受けた。三畳敷の向切(むこうぎり)の席で、点前(てまえ)座の一畳は後方が斜めに欠け洞庫(どうこ)が備えられている。儒学者竹心の風格をもった茶室である。

澍露軒(じゅろけん)
 滋賀県彦根市(ひこねし)尾末(おすえ)町にある。彦根藩主井伊直弼(いいなおすけ)(1815―60)が江戸に出る前に居したという埋木舎(うもれぎのや)に営まれていた茶室。四畳半台目(だいめ)の広さで、床は壁床である。点前(てまえ)座の勝手付(かってつき)に吹き抜けをつくり水屋を備えるなど、直弼の茶室に対する哲学がうかがえる。

春草廬(しゅんそうろ)*
 横浜市中区三渓園(さんけいえん)内にある。伏見城(ふしみじょう)にあった茶室が宇治の上林家(かんばやしけ)から三室戸寺(みむろとじ)金蔵院(こんぞういん)に寄贈され、1918年(大正7)に当地に移築された。金蔵院にあったときは九窓亭(きゅうそうてい)とよばれていた。三畳台目(だいめ)の席で、名の示すように九つの窓がある。点前(てまえ)座と客座の格差がはっきりしているなど異色な構成から、織田有楽の好みと伝えられているが、さだかではない。重文。

如庵(じょあん)*
 愛知県犬山市犬山城の東方、有楽苑(うらくえん)にある。織田有楽が京都建仁寺(けんにんじ)の正伝院を再興し、隠居所と定め茶室如庵をつくったのは1618年(元和4)である。1908年(明治41)に東京の三井家に引き取られ、神奈川県大磯(おおいそ)の別邸を経て、1972年(昭和47)に当地に移された。躙口(にじりぐち)を正面に表さない構えや、茶道口に三角形の地板を加え、床を台目(だいめ)床とするなど、みごとな空間構造は他に例をみない。腰張りに古暦を使った「暦張(こよみばり)の席」である。国宝。

松花堂(しょうかどう)*
 京都府八幡市(やわたし)八幡女郎花(やわたおみなえし)、塚本邸内にある。茶人松花堂昭乗が1637年(寛永14)に石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の宿院滝本坊から泉坊に隠退したとき建てた方丈の草庵(そうあん)。二畳の座敷には、床、袋棚、丸炉(がんろ)、仏壇を設け、『南方録(なんぽうろく)』にみる「茶を点(た)て、仏へ供へ、人にも施し、我ものむ」の原点にかなった茶室である。1891年(明治24)に現在地に移築された。

松琴亭(しょうきんてい)*
 京都市西京区桂離宮(かつらりきゅう)内にある。桂離宮は八条宮智仁親王(はちじょうのみやとしひとしんのう)によって1620年(元和6)ごろ創建された。松琴亭は一の間、二の間、側面の三畳台目(だいめ)の茶室とその付属室を配した入母屋造(いりもやづくり)、茅葺(かやぶき)の洗練された建物である。茶室は離宮内にある唯一の草庵造(そうあんづくり)であるが、石橋の向こうの丘にある内腰掛(うちこしかけ)、ソテツを植えた築山に隠れた外腰掛(そとこしかけ)など広大な庭園との組合せは他に例をみない。

松向軒(しょうこうけん)
 京都市北区大徳寺塔頭(たっちゅう)高桐院(こうとういん)にある。細川三斎(忠興(ただおき)、1563―1645)の好みと伝えられる。利休の二畳台目(だいめ)そのままの草庵(そうあん)茶室である。二畳台目下座床、中柱は赤松皮付、天井は3段に構成され、床の隣は二枚襖(ふすま)の引き違いだてとなっているが、もとは火灯(かとう)形の給仕口であった。

成趣庵(じょうしゅあん)
 東京都新宿区遠州流宗家小堀邸内にある。昭和の初期木村清兵衛(きむらせいべえ)によって某家につくられ、1961年(昭和36)藤森明豊斎によって当地に移築された。入母屋造(いりもやづくり)、桟瓦葺(さんかわらぶき)、三畳台目(だいめ)下座床、点前(てまえ)座後方に三角形の鱗板(うろこいた)が敷かれ、給仕口が斜めについている。成趣庵は小堀遠州が伏見奉行(ふしみぶぎょう)屋敷に設けた茶屋の名で、12代宗慶の号でもある。

湘南亭(しょうなんてい)*
 京都市西京区西芳寺(さいほうじ)(苔寺(こけでら))の池庭にある。利休の子少庵が隠棲(いんせい)所として荒廃した亭を慶長(けいちょう)年間(1596~1615)に再興したものと伝えられている。茶室は深四畳に台目切(だいめぎり)の点前(てまえ)座をつけたもので、床が点前座の勝手付(かってつき)にある。客座は二枚障子に隔たれて四畳の広縁へと続く。広縁の広庇(ひろびさし)は土天井で、たいへん貴重なものである。重文。

菅田庵(すがたあん)
 ⇒菅田庵(かんでんあん)
清香軒(せいこうけん)
 石川県金沢市兼六園にある。13代加賀藩主前田斉泰(まえだなりやす)が母真龍院の隠居所として1863年(文久3)に建てた巽新殿(たつみしんでん)(現在名成巽閣(せいそんかく))に造り込まれている茶室。三畳台目(だいめ)で炉は向切(むこうぎり)、炉の先に角竹を床柱とした原叟床(げんそうどこ)があり、開放感のある端正な茶室である。躙口(にじりぐち)と貴人口(きにんぐち)の前には広い土間庇(どまびさし)を巡らし、露地(ろじ)が使えない季節の雪国らしい配慮がなされている。重文。

清漣亭(せいれんてい)
 京都市北区等持院の庭にある。等持院は足利(あしかが)氏の菩提(ぼだい)寺で、尊氏(たかうじ)の百年祭を機に修復する際、義政(よしまさ)(1436―90)が建てたと伝えられている。その後火災にあい、現在のものは江戸末期の建物である。長四畳で、一畳を上段にして床を備え、下段に台目(だいめ)点前(てまえ)座を配して炉を向切(むこうぎり)とし、前に二畳が並ぶ珍しい構造で、貴人本位の茶室といえる。

夕佳亭(せっかてい)*
 京都市北区鹿苑寺(ろくおんじ)(金閣寺)境内にある。住職鳳林和尚(ほうりんおしょう)と親交のあった茶人金森宗和(かなもりそうわ)(1584―1656)の好みと伝えられる。寄棟造(よせむねづくり)、茅葺(かやぶき)屋根の田舎(いなか)家風の外観で、内部は三畳の席を中心に広い土間と二畳の上段を備えている。曲がりくねった「南天の床柱」は有名である。江戸時代には桂月亭ともいわれた。

宗湛庵(そうたんあん)
 福岡市博多区(はかたく)崇福寺境内にある。神谷宗湛(1553―1635)が邸内に建てた茶室を、平岡浩太郎の邸に移築し、湛浩庵(たんこうあん)と名づけた。戦火に焼失し、1963年(昭和38)に現在地に復原され宗湛庵と命名された。入母屋造(いりもやづくり)風の茅葺(かやぶき)屋根で、内部は三畳半、床脇(とこわき)に宗湛所持の名物博多文琳(はかたぶんりん)(茶入)を飾った棚があり、自由で独創的なくふうのある茶室である。

待庵(たいあん)*
 京都府乙訓郡(おとくにぐん)大山崎町妙喜庵にある。妙喜庵は文明(ぶんめい)年間(1469~87)に創建された東福寺派の禅刹(ぜんさつ)で、待庵は利休作の遺構として名高い。二畳の茶室には隅炉(すみろ)が切られ、板入(いたいり)一畳の次の間と勝手が続く。躙口(にじりぐち)正面の床は天井まで土で塗られた4尺幅の室床で、床框(とこかまち)は桐(きり)の皮付き、3個の大きな節がある。天井は、野片(のね)板に細竹2本の竿縁(さおぶち)、躙口には掛込(かけこみ)天井。緊張感のある構成は利休のわび茶の真髄がうかがえる。国宝。

大虚庵(たいきょあん)
 京都市北区光悦寺境内にある。1915年(大正4)光悦会が速水宗汲の指導を得て建てた茶室。本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)(1558―1637)が洛北(らくほく)鷹(たか)ヶ峰に営んだ大虚庵をしのんで建てられた。光悦の大虚庵は文献によると八畳のうち六畳は土天井となっており、かなり異質の茶室であったと思われる。現在のものは三畳台目(だいめ)床脇(とこわき)にさらに台目一畳を添えた席である。

対流軒(たいりゅうけん)
 京都市上京区裏千家にある。13世円能斎が15世鵬雲斎(ほううんさい)の誕生の年(1923)に建てた。十四畳の座敷の三方に畳縁側を巡らし、建具を外すとさらに広い座敷になるようくふうされている。また付書院(つけしょいん)が縁側に設けられているのもそのためである。鞘(さや)の間で咄々斎(とつとつさい)とつながっている。

大炉の間(だいろのま)
 京都市上京区裏千家にある。裏千家11世玄々斎が1839年(天保10)利休二百五十年忌にあたり、咄々斎(とつとつさい)、抛筌斎(ほうせんさい)とともに建てた。咄々斎の次の間で、六畳逆勝手(ぎゃくがって)席、炉は大きく炉縁は1尺8寸(普通は1尺4寸)あり、厳寒の2月のみ開炉される。重文。

湛浩庵(たんこうあん)
 ⇒宗湛庵(そうたんあん)
聴秋閣(ちょうしゅうかく)
 横浜市中区三渓園(さんけいえん)内にある。1623年(元和9)将軍徳川家光(とくがわいえみつ)の命により佐久間将監(さくましょうげん)(寸松庵)が二条城内に建てたと伝えられ、春日局(かすがのつぼね)の稲葉家(江戸青山)が拝領し、牛込の二条公邸を経て1922年(大正11)に当園に移築された。檜皮葺(ひわだぶき)、二階建て、上階は二畳の望楼、階下が茶室と次の間になっている。座敷の付書院(つけしょいん)が斜行するなど個性的な建物である。重文。

長生庵(ちょうせいあん)*
 京都市中京区堀内(ほりのうち)家にある。堀内家初代仙鶴(1675―1748)の好みと伝えられる。内部は二畳台目(だいめ)、下座床。この時代には利休二畳台目の茶室が小座敷(こざしき)の定形として固定したと考えられるなかにあって創意工夫のうかがえる完成された構成を示している。現在の建物は1869年(明治2)再建のもの。

長流亭(ちょうりゅうてい)
 石川県加賀市大聖寺(だいしょうじ)八間道江沼神社境内にある。加賀藩藩主前田利治(まえだとしはる)が小堀遠州の設計で1709年(宝永6)に邸内に建てたもので、のちに当地に移築された。寄棟造(よせむねづくり)、杮葺(こけらぶき)で、六畳二室に畳縁側を巡らし、床脇(とこわき)の飾り棚、付書院(つけしょいん)や春慶塗の腰板障子、透彫りの欄間(らんま)など遠州好みの特徴を十分に示している。重文。

枕流亭(ちんりゅうてい)
 京都市伏見区(ふしみく)醍醐寺(だいごじ)三宝院(さんぼういん)の庭中にある茶亭。聚楽第(じゅらくだい)にあった秀吉好みとする説があるが、確証はなく補修の跡も多い。上段につくられた三畳に半間で奥行の浅い床がある。下段になった次の間三畳に水屋を2か所、続いて二畳と板間、土間のある一室がある。上下段の構成をした古い形式の茶屋である。

庭玉軒(ていぎょくけん)
 京都市北区大徳寺塔頭(たっちゅう)真珠庵(しんじゅあん)にある茶室。真珠庵は一休禅師を開山とする寺で、茶室は茶匠金森宗和が生国飛騨(ひだ)高山から移築した。二畳台目(だいめ)、下座床、点前(てまえ)座には雲雀棚(ひばりだな)を吊(つ)り、色紙窓(しきしまど)を開け、墨跡窓(ぼくせきまど)には花釘を打つなど古田織部の燕庵(えんなん)風である。躙口(にじりぐち)の内部は土間で、飛石と内蹲踞(つくばい)が置かれ、雪国ならではの構成がうかがえる。重文。

点雪堂(てんせつどう)
 京都市上京区表千家祖堂(そどう)内にある。表千家8世啐啄斎(そったくさい)が1790年(寛政2)につくったと思われる。1839年(天保10)に10世吸江斎(きゅうこうさい)が利休二百五十年忌に際して利休堂の位置を現在のように改めた。四畳半座敷で、炉は四畳半切。炉の手前角に中柱を立て、袖壁(そでかべ)に火灯口(かとうぐち)を開けたいわゆる道安囲(どうあんがこい)とした構えは、利休像を祀(まつ)るにふさわしい構造である。重文。

天然図画亭(てんねんずえてい)
 滋賀県大津市本堅田(ほんかたた)居初(いそめ)家にある。茶匠藤村庸軒(ふじむらようけん)と堅田の北村幽安との合作と伝えられる。八畳間の奥に一畳の点前(てまえ)畳があり、点前畳の左八畳との境に中柱が設けられ、道具座のほうに低い結界(けっかい)をつけている。炉は向切(むこうぎり)である。琵琶湖(びわこ)の眺めを遮らないよう縁先の雨戸は板蔀(いたしとみ)となっている。

天佑庵(てんゆうあん)
 東京都台東区(たいとうく)浅草寺(せんそうじ)伝法院(でんぽういん)境内にある。天明(てんめい)年間(1781~89)に名古屋の茶人牧野作兵衛(まきのさくべえ)が不審庵を写して建てたのが初めで、1916年(大正5)に徳川圀順(とくがわくにゆき)が東京向島(むこうじま)へ移築し、嬉森庵(きしんあん)と命名した。のちに上目黒(かみめぐろ)の津村邸に移され関東大震災の難を免れたので天佑庵と名を変えた。さらに第二次世界大戦後現在の地に移された。

洞雲庵(どううんあん)
 京都市北区大徳寺塔頭(たっちゅう)玉林院にある。利休の長兄道安に茶を学んだ桑山宗仙(号洞雲、1560―1632)が当院に建てた。明治維新前後に失われたが、1944年(昭和19)に古図によって復原された。

同仁斎(どうじんさい)*
 京都市左京区慈照寺(銀閣寺)東求堂(とうぐどう)内の一室。足利義政が1483年(文明15)に建てた東山山荘の残存建築で、中世における、数少ない初期書院造の遺構として重要である。夢窓(むそう)国師を祀(まつ)った六畳に接して四畳半の茶室があるが、これは供茶(くちゃ)のためのもので、後世の四畳半茶室の起源とされている。国宝。

燈心亭(とうしんてい)*
 大阪府三島郡島本町水無瀬神宮(みなせじんぐう)にある。後水尾(ごみずのお)上皇の好みと伝えられる。寄棟造(よせむねづくり)、茅葺(かやぶき)屋根、茶室は三畳台目(だいめ)席であるが、床脇(とこわき)には付書院(つけしょいん)があり、天井は格天井(ごうてんじょう)であるなど書院造の構えを残している。天井の格間(ごうま)にアシ、オギ、ガマなど灯心になる材料を張り詰めているので燈心亭の名とした。重文。

東陽坊(とうようぼう)*
 京都市東山区建仁寺本坊の背後にある。秀吉の北野大茶会(1587)のとき、紙屋川の土手に、利休の弟子、東陽坊の住職長盛が建てたと伝えられる。大正年間に当地に移された。二畳台目(だいめ)下座床、曲がりのある中柱や雲雀棚(ひばりだな)、勝手付(かってつき)の色紙窓(しきしまど)など利休流とは異なった作風を示すのは再三の移転によるものと思われるが、旧材も残され、古格を保っている。

咄々斎(とつとつさい)
 京都市上京区裏千家にある。1839年(天保10)利休二百五十年忌にあたり、抛筌斎(ほうせんさい)などとともに大増築された茶室の一つ。八畳広間で南と北に畳廊下を配し、次の六畳が大炉(だいろ)の間である。床は7尺あり、床柱は宗旦手植えの五葉松、框(かまち)と落掛(おとしがけ)はツタ材、座脇(ざわき)は板敷きで銅鑼(どら)を吊(つ)るようになっている。天井は小丸太格縁(ごうぶち)で、天井板は大徳寺の老松を交互の向きに張ってある。重文。

中之坊茶室(なかのぼうのちゃしつ)
 奈良県葛城市(かつらぎし)當麻(たいま)の當麻寺中之坊にある茶室。寺伝は庭園茶室を石州流茶道の開祖片桐石州の好みと伝えている。書院に続いて建てられている四畳半で、隅に三角形の出床を設け、続く一間の壁面に5尺2寸の大円窓(まるまど)を開けている。重文。

南明庵(なんめいあん)
 京都市北区大徳寺塔頭(たっちゅう)玉林院にある。1742年(寛保2)に大坂の富豪鴻池了瑛(こうのいけりょうえい)が位牌(いはい)堂南明庵(なんめいあん)を建てた。当庵の東に霞床の席(かすみどこのせき)、西側に蓑庵(さあん)がある。入母屋造(いりもやづくり)、杮葺(こけらぶき)、楽焼瓦(らくやきがわら)四畳半敷の土間がある。座敷は二方に縁を巡らした六畳敷で、西側二畳分は板の間、正面に仏壇がある。敷瓦は楽焼7代長入(ちょうにゅう)の作である。重文。

白雲洞(はくうんどう)
 神奈川県箱根町強羅(ごうら)公園白雲洞茶苑(ちゃえん)内にある。近代実業界の巨頭益田鈍翁(ますだどんおう)(孝(たかし)、1847―1938)の創案による茶室で、巨岩怪石の間に、農家を再構築した風情は珍重される。大炉(だいろ)に自在鉤(じざいかぎ)をかけ畳縁のない田舎(いなか)風の席で、鈍翁の唯一の遺構といわれている。茶苑室群背後には代表的茶花2000種が植えられている。

八窓庵(はっそうあん)
 札幌市中島公園にある。小堀遠州が晩年に居城であった近江(おうみ)の小室(こむろ)城内に建てたと伝えられる。その後移築を重ね、1971年(昭和46)に当地に寄贈された。切妻造(きりづまづくり)、銅板葺(ぶき)、二畳台目(だいめ)下座床の茶室で、連子(れんじ)窓3、下地(したじ)窓4、突上(つきあげ)窓1と八つの窓をもつ遠州好みの草庵風茶室である。重文。

八窓庵(はっそうあん)
 奈良市登大路町奈良国立博物館苑(えん)内にある。もと興福寺大乗院の庭内にあって、含翠亭(がんすいてい)とよばれていたが、1892年(明治25)に当地に移築された。江戸前期の作と思われる。長三畳台目(だいめ)席に床と一畳の貴人(きにん)座を付している。点前(てまえ)座の雲雀棚(ひばりだな)や色紙窓(しきしまど)、床の花明り窓などの織部好みと、躙口(にじりぐち)が壁面の中央に開けられる遠州好みなどが混在している。

半桂の席(はんけいのせき)
 京都市中京区堀内(ほりのうち)家にある。長生庵(ちょうせいあん)のすぐ北にある一畳台目(だいめ)向板入(むこういたいり)、向切(むこうぎり)の逆勝手(ぎゃくがって)席。天井はすべて化粧屋根裏、縁のない畳、壁床、反古張(ほごばり)とわびに徹した座敷である。堀内鶴叟(ほりうちかくそう)(1780―1854)の好みで、席名は大徳寺拙叟和尚(せっそうおしょう)の命名である。

半床庵(はんしょうあん)*
 京都市中京区久田(ひさだ)家にある。久田家の代表的な茶室で、3世久田宗全(1647―1707)の好みと伝えられ、1864年(元治1)の兵火に焼失し、1886年(明治19)に再建された。畳4枚の台目(だいめ)構えの席で、床前の一畳に台目畳が2枚縦に並び、点前(てまえ)座との間に中板(なかいた)を入れ、床脇(とこわき)に給仕口がある。不審庵式の構えを保ちながら室内を広くした端正な茶室である。

半宝庵(はんぽうあん)
 京都市上京区武者小路千家にあり、環翠園(かんすいえん)の西側に続いている。文化(ぶんか)年間(1804~18)に5世一啜斎宗守(いっとつさいそうしゅ)が建てたと伝えられる。嘉永(かえい)(1848~54)の火災で焼失し、1881年(明治14)に一指斎宗守によって再興された。点前(てまえ)座の先に枡床(ますどこ)のある四畳座敷で、炉は上台目(あげだいめ)に切られ、中柱はほぼ真直のこぶし丸太、端正な茶室である。

飛濤亭(ひとうてい)*
 京都市右京区仁和寺(にんなじ)本坊の庭内にある。寛政(かんせい)年間(1789~1801)に建てられた光格(こうかく)天皇遺愛の茶室と伝えられる。庭園建築を兼ねた茶室で、入母屋造(いりもやづくり)、茅葺(かやぶき)で、腰付障子(こしつきしょうじ)の貴人(きにん)口の隣にみえる円窓(まるまど)など、添景の要素も十分である。内部は四畳半に踏込み式の洞床(ほらどこ)や、網代(あじろ)、蒲(がま)、化粧屋根裏の3段に区画された天井など、草庵(そうあん)風なくつろいだ雰囲気となっている。重文。

富士見亭(ふじみてい)
 東京都世田谷区(せたがやく)五島(ごとう)美術館内にある。1957年(昭和32)五島慶太(ごとうけいた)の案で建てられた。切妻造(きりづまづくり)で、内部は長四畳の南側に床があり、西側窓寄りに隅炉(すみろ)が切られている。南北に長く土間があり、土間には腰掛を置き、座敷に接して長い卓を備えているので腰掛けたままの形で茶を喫することができる。

不審庵(ふしんあん)*
 京都市上京区表千家にある。利休の孫宗旦が床なしの一畳半をつくり不審庵と称していたのを、その子江岑(こうしん)が平三畳台目(だいめ)に建て替えた。これが現在の不審庵の始まりであるが、1906年(明治39)に焼失し、13年(大正2)惺斎(せいさい)の代に再建された。三畳台目で、点前(てまえ)座の勝手側に板畳を添えて広くし、茶道口を風炉(ふろ)先のほうに開けた特殊な構えである。このため襖(ふすま)は釣襖となっている。

不昧軒(ふまいけん)
 東京都文京区護国寺境内にある。石州流不昧派の開祖松平不昧の墓が大正の末当寺に移された際、高橋箒庵(たかはしそうあん)らの手で不昧軒をはじめ数々の茶室が寄進された。八畳の茶室で、一間の床と琵琶(びわ)台がある。一方に鞘(さや)の間がつき、そこから玄関、円成庵(えんじょうあん)の水屋へと続いている。

蓬庵(ほうあん)
 京都市右京区妙心寺天球院にある。当院の薩門和尚が親交のあった幕末の茶人藪内竹猗(やぶのうちちくき)に諮って建てた茶室で、藪内流の燕庵(えんなん)を写したものである。三畳台目(だいめ)相伴(しょうばん)席付であるが、本堂に接して建てたため相伴席は畳廊下として通路も兼ねているなど多少の違いはある。

忘筌(ぼうせん)*
 京都市北区大徳寺塔頭(たっちゅう)孤篷庵(こほうあん)にある。1608年(慶長13)に孤篷庵は小堀遠州によって龍光院内に創立された。1643年(寛永20)当地に移築、遠州晩年の作として貴重な遺構であったが、1793年(寛政5)に焼失した。しかし、忘筌は忠実に復原された。八畳に一間の床と一畳の点前(てまえ)畳が並び、三畳の相伴(しょうばん)席が続く。書院様式を備えながら草庵露地(ろじ)を巧みに導入している。重文。

抛筌斎(ほうせんさい)
 京都市上京区裏千家にある。裏千家11世玄々斎が利休二百五十年忌に際し増築した十二畳の茶室で、利休の斎号を席名とした。一間の床の隣に地袋と一枚板の棚をつくっている。床前の二畳は高麗縁(こうらいべり)となって貴人(きにん)座を意味している。点前(てまえ)座は床からいちばん離れたところにある。重文。

枡床の席(ますどこのせき)
 京都市北区大徳寺塔頭(たっちゅう)聚光院にある。利休百五十年忌に建てられた閑隠席(かんいんのせき)と水屋を隔てて建てられている。表千家9世了々斎の墨書きが水屋の物入れの襖(ふすま)に「文化七年」(1810)とあることから、そのころ増築したものと思われる。点前(てまえ)畳の先に方形の枡床のある四畳向切(むこうぎり)の席で、全体が簡潔で開放性のある端正な構えである。重文。

曼殊院茶室(まんしゅいんのちゃしつ)
 京都市左京区一乗寺にある。曼殊院は桂宮智仁親王(かつらのみやとしひとしんのう)の子良尚法親王によって1656年(明暦2)に営まれた。茶室は小書院に付属して建てられた三畳台目(だいめ)で、桜皮付の中柱、黒塗框(くろぬりかまち)で天井の高い床、窓の多い壁面など燕庵(えんなん)にみる織部の好みがうかがえ、八窓軒の名でもよばれている。曼殊院は江戸初期の貴族住宅の貴重な遺構である。重文。

密庵(みったん)*
 京都市北区大徳寺塔頭(たっちゅう)竜光院にある。創建は寛永(かんえい)の初めころ(1624~35)で、当時は独立した建物であった。現在のように書院と一体化したのは、本堂の建てられた慶安(けいあん)年間(1648~52)と推定される。四畳半台目(だいめ)で、床、違い棚、密庵床など書院造の中に、台目切(だいめぎり)の炉、中柱、雲雀(ひばり)棚など草庵造(そうあんづくり)が和合したみごとな遺構である。国宝。

無色軒(むしきけん)
 京都市上京区裏千家にある。今日庵(こんにちあん)から寒雲亭(かんうんてい)を経て無色軒へと続く。裏千家4世仙叟の好みと伝えられ、全体六畳の広さで、一畳が向切(むこうぎり)の点前(てまえ)畳、続いて一畳の板の間がある。床は壁面に掛物釘(くぎ)を打った壁床である。点前座と板の間の境の袖壁(そでかべ)には下地(したじ)窓が開けられ、勝手付(かってつき)に仙叟好みの釘箱棚がつけてある。重文。

又隠(ゆういん)*
 京都市上京区裏千家にある。利休の孫宗旦が隠居屋敷を四男仙叟に譲った際に建てた、又(また)の隠居という茶室である。天明(てんめい)の大火後、1789年(寛政1)に再建されている。利休の完成した草庵(そうあん)風四畳半を再現しながら、点前(てまえ)座の入隅に楊子柱(ようじばしら)をみせ、柳釘(やなぎくぎ)を打つなどわびの趣(おもむき)を一段と強調している。重文。

夕顔亭(ゆうがおてい)
 石川県金沢市兼六町兼六園にある。1774年(安永3)加賀藩前田家11代治修(はるなが)が造成した。瓢(ひさご)池に臨むので瓢亭、滝見亭の名もある。相伴(しょうばん)席を設けた三畳台目(だいめ)の茶室で、武家好みの燕庵(えんなん)形式をとっているが、二方が障子で開放され、景色を楽しむ茶屋としてくふうされている。大きな「邯鄲(かんたん)の手水鉢(ちょうずばち)」は有名である。

又新亭(ゆうしんてい)*
 京都市上京区大宮御所から仙洞御所(せんとうごしょ)に入る付近にある。裏千家11世玄々斎の好みで、又隠(ゆういん)を範としてつくられたと伝えられる。もとは近衛(このえ)家の邸内にあったが、1884年(明治17)近衛家の東京移転に伴い当地に移された。

澱看の席(よどみのせき)*
 京都市左京区金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)西翁院にある。茶匠藤村庸軒が1685、1686年(貞享2、3)に建てたと伝えられる。これは、祖父宗徳が当院を1584年(天正12)に創立させた縁による。内部は三畳敷で、宗旦の三畳敷とよく似ている。客座から火灯口(かとうぐち)とその先の下地(したじ)窓を通し淀川(よどがわ)をはるかに眺めたということから澱看の席の名があるという。

利休堂(りきゅうどう)
 三千家には千家の祖である利休像を祀(まつ)る利休堂(祖堂)がある。裏千家4世仙叟が1690年(元禄3)利休百年忌に利休堂を建てたのが最初である(⇒裏千家祖堂)。表千家では利休百五十年忌に7世如心斎が利休像を祀った小堂を建てた(⇒表千家祖堂)。武者小路千家ではいつ利休堂を建てたか明らかでないが、現在のものは11世一指斎によって建てられた。

溜精軒(りゅうせいけん)
 京都市上京区裏千家にある。裏千家11世玄々斎が1839年(天保10)利休二百五十年忌に際して増築した。廊下の一部を巧みに茶室としたもので、六畳の広さがあり、畳一畳を点前(てまえ)座にあて、逆勝手台目切(ぎゃくがってだいめぎり)とした。風炉(ふろ)先の正面に一枚板の棚を取り付け、その下は下地(したじ)窓で、この窓の格子(こうし)は古い柄杓(ひしゃく)の柄(え)を用いている。重文。

遼廓亭(りょうかくてい)
 京都市右京区仁和(にんな)寺本坊にある。尾形光琳(おがたこうりん)(1658―1716)の好みで、もとは弟乾山(けんざん)の住居にあったものと伝えられる。茶室は屋敷内にある二畳半台目(だいめ)の向切(むこうぎり)である。これは如庵(じょあん)の写しであるが、有楽(うらく)窓が連子(れんじ)窓に、袖壁(そでかべ)の円(まる)窓が方形の窓にかえられているなど、芸術家光琳の創意がうかがえる。重文。

六窓庵(ろくそうあん)*
 東京都台東区(たいとうく)東京国立博物館内にある。奈良興福寺慈眼院内に1648~1652年(慶安1~5)金森宗和の好みで建てられ、数奇の運命のすえ、1875年(明治8)に博物館に移された。入母屋造(いりもやづくり)、茅葺(かやぶき)、内部は三畳台目(だいめ)で、点前(てまえ)座が客座の中央部に位置し、6個の窓を備えている。

露滴庵(ろてきあん)*
 広島県尾道市(おのみちし)東久保町の浄土寺にある。最初伏見城内にあり、本願寺を経て向島の富島家に移り、1814年(文化11)に当寺へ移建されたと伝えられているが、富島家以前の経路は明らかでない。入母屋造(いりもやづくり)、茅葺(かやぶき)、三畳台目(だいめ)の席で、三畳を挟んで点前(てまえ)座と一畳の相伴(しょうばん)席がある燕庵(えんなん)形式の茶室である。重文。

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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