草津市(読み)クサツシ

デジタル大辞泉 「草津市」の意味・読み・例文・類語

くさつ‐し【草津市】

草津

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日本歴史地名大系 「草津市」の解説

草津市
くさつし

面積:四八・一六平方キロ

県南西部に位置。西は琵琶湖に面し、南は大津市、東は栗太くりた栗東りつとう町、北は守山市。南東部の田上たなかみ山地の丘陵と八割近くを占める沖積低地の平野部からなる。西流する河川は北から葉山はやま川・草津川・伯母おば川・きた川・十禅寺じゆうぜんじ川・おおかみ川があり、いずれも天井川の様相を呈する。市域は江戸時代の栗太郡南西部にあたる。京滋けいじバイパス名神高速道路・東海道新幹線・国道一号・JR東海道本線が通り、東海道本線には草津駅があり、甲賀郡や三重県へ向かうJR草津線が分岐する。草津の地名は、正安元年(一二九九)成立の「一遍上人絵伝」にみえるのが早い。

〔原始・古代〕

草津市はそのほとんどが低地に位置するため、主として丘陵や山地に営まれた旧石器時代の遺跡や遺物は、今のところ発見されていない。縄文時代の遺跡も、表面採集による何点かの土器片が認められるにすぎない。弥生時代になると、急速に遺跡の数が増え、中沢なかざわ遺跡からは水路跡や堰跡が発見されており、湖辺の低地に、豊富な琵琶湖や草津川の水を生かして水田農業が行われていたことがわかる。志那湖底しなこてい遺跡からは小型の銅鐸が見つかっており、農業祭祀の行われていたことが知られる。当地は古墳も多く、市内南東部の丘陵地に古い時期のものが位置し、市内最古の追分おいわけ古墳やこれに続く北谷きただに一一号墳・同一号墳がある。西部の平地はやや遅れて古墳の築造が始まったとみられ、五世紀後半には南笠みなみがさ古墳群が造られている(草津市史)。この地域の豪族は初め丘陵地を基盤とし、次いで湖辺に近い平地に進出していったと想定される。これは琵琶湖の水運をわが手におさめることによって勢力を築いた豪族たちで、文献に登場する氏族の小槻(小槻山)氏や治田氏などにつながるものであろう。とりわけ小槻氏は式内社の小槻おつき神社の存在からも推測されるように、当地域に大きな勢力をふるった。正倉院文書には小槻山君広虫の名が栗太郡の采女としてみえ(天平八年八月二六日内侍司牒)、采女は郡司など現地有力者の娘が宮廷に奉仕したものであるから、この氏族が郡司を出すような豪族であったことに疑いはない。治田氏も、「新撰姓氏録」では浅井あざい郡の出身ということになっているが、栗太郡にも早くに進出していたのであろう。

「日本書紀」にみえる葦浦あしうら屯倉は当市と守山市の境界付近に比定されているが、同地一帯は大和王権時代の豪族がその拠点を築くほどに、豊かで先進的な地域であった。任那の一小国である安羅に関係し、新羅国皇子の天日槍命を祭神とする安羅やすら神社があるように、渡来人たちが住んだことも明らかで、四世紀から六世紀にかけて重要な地域であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「草津市」の意味・わかりやすい解説

草津〔市〕
くさつ

滋賀県南西部,琵琶湖岸にある市。 1954年草津町と志津,老上,山田,笠縫,常盤の5村が合体して市制。中心市街地の草津は,江戸時代東海道中山道の交わる宿場町として発展。当時,本陣,脇本陣各2を備え,草津宿本陣は現在も当時の姿をとどめ,史跡に指定。市街地中央部を草津川が天井川となって流れ,交通機関は河床下のトンネルを通る。国道1号線沿いから東部の丘陵地にかけて工場進出が著しく,電気機器,ボイラ,食料品,塗料などの工業団地があり,出荷額は県内有数。在来工業には洋傘の柄などに用いる竹根鞭がある。農村部では米作のほか花卉,果樹を栽培。湖岸では淡水真珠養殖が行われる。石津寺の本堂,観音寺の阿弥陀堂,書院などは重要文化財。史跡野路小野山製鉄遺跡がある。矢橋は「矢橋帰帆」で知られる近江八景の一つ。湖岸一帯は琵琶湖国定公園に属する。 JR東海道本線が通る。面積 67.82km2。人口 14万3913(2020)。

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