菊池氏(読み)きくちうじ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「菊池氏」の意味・わかりやすい解説

菊池氏
きくちうじ

中世肥後(熊本県)の豪族、武士団。1383年(弘和3・永徳3)菊池武朝(たけとも)が肥後南朝方における自己の立場を弁明し、吉野朝廷に提出したいわゆる武朝申状(もうしじょう)以来、中関白道隆(なかのかんぱくみちたか)に始まる系譜がつくられてきた。しかし近年の研究で、菊池氏初代則隆(のりたか)の父政則(まさのり)は、大宰権帥(だざいごんそち)隆家(たかいえ)の郎等で刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)に際し功あり、大宰少弐(しょうに)、対馬守(つしまのかみ)に進んだ蔵規(まさのり)と同一人物であり、則隆やその子政隆(まさたか)は、中央で肥後国住人といわれていることが明らかにされた。一族は11世紀後半から肥後の菊池(熊本県菊池市)を本拠に在地領主として成長、源平内乱期の隆直(たかなお)は、一時平家に背いたのち、平氏方で活躍、一国棟梁(とうりょう)的存在となり菊池権守(ごんのかみ)とよばれた。以後鎌倉幕府の御家人(ごけにん)となり、武房(たけふさ)は蒙古(もうこ)合戦で活躍した。1333年(元弘3・正慶2)武時(たけとき)は鎮西探題(ちんぜいたんだい)館に討ち入り戦死、その子武重(たけしげ)は建武(けんむ)政権により肥後守に叙せられ、以来武重、武敏(たけとし)、武光(たけみつ)らは九州南朝方の中心として活躍した。両朝合一後、武朝は肥後の守護となり、能運(よしゆき)に至るまでこれを保持した。その後阿蘇惟長(あそこれなが)、大友重治(しげはる)が迎えられ名跡を継いだが、大友義鎮(よししげ)に滅ぼされた。なお能運の子孫は日向(ひゅうが)米良(めら)(宮崎県児湯郡(こゆぐん)西米良村)に逃れ、以後米良氏を名のったと伝える。

[工藤敬一]

『杉本尚雄著『菊池氏三代』(1966・吉川弘文館)』


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百科事典マイペディア 「菊池氏」の意味・わかりやすい解説

菊池氏【きくちうじ】

肥後(ひご)の豪族。1019年に刀伊(とい)の入寇を撃退した大宰府の官人藤原政則の子孫。元弘の乱では鎮西探題を攻め,以後一貫して南朝方につき,九州宮方の中心勢力となった。南北朝合一後は肥後守護となったが次第に衰え,戦国期に大友氏に滅ぼされた。のちに一族の米良(めら)氏が本姓に復して明治に至る。
→関連項目一色範氏肥後一揆隈府

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改訂新版 世界大百科事典 「菊池氏」の意味・わかりやすい解説

菊池氏 (きくちうじ)

肥後の豪族。中関白道隆の子大宰権帥藤原隆家の子孫と伝えられてきたが,先年,刀伊入寇の際に隆家とともに奮戦した大宰府官藤原政則(まさのり)(蔵則,蔵規とも書く)の子孫であると判明した。肥後北部菊池郡を本拠とし,やがて代々肥後守。鎌倉末,武時は,後醍醐天皇の命を受けて鎮西探題北条英時を攻めて討死。武時の子孫は,南北朝期,いずれも南朝方に立って征西将軍宮を奉じ,九州宮方勢力の中心となる。とくに,そのうち肥後国守・守護を兼帯した武光の軍事力は大きく,南北朝中期,九州宮方-征西府の隆盛を招いた。しかし,九州探題今川貞世の下向によって,その勢力は急速に減退し,両朝合一後は本拠菊池にしぼんだ。以後,家運衰退の一途をたどり,しばらくは本拠にあって学芸面に励んだが,戦国期大友氏に攻められて討死し,菊池氏の正統は断絶した。ただ菊池能運(よしゆき)の子重為が日向米良(めら)に逃れて米良氏を称し,やがてこの子孫が菊池氏に復し,明治に至り華族となる。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「菊池氏」の解説

菊池氏
きくちし

中世肥後国の豪族。1019年(寛仁3)の刀伊(とい)の入寇の際,大宰権帥(ごんのそち)藤原隆家に従って奮戦した,大宰府の下級官人藤原蔵規(まさのり)(政則)の子孫。その子則隆は隆家の郎等でもあり,肥後国菊池郡(現,熊本県菊池市)を本拠に武士化した。源平争乱期,隆直は平家に反抗したが,のち平家の有力武将となり,一族の多くは平家とともに滅びた。鎌倉幕府下では,承久の乱で京方となったこともあったが,御家人となり,蒙古襲来の際には武房らが奮戦。元弘の乱では,武時は鎮西探題を博多に攻めて討死。その子武重・武敏・武光らは,九州南朝方の中心勢力として活躍。南北朝合一後は肥後国守護職を保持したが,戦国期に大友氏に制圧された。子孫は日向国米良(めら)にのがれ,維新後,男爵。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「菊池氏」の意味・わかりやすい解説

菊池氏
きくちうじ

肥後の豪族。大宰大監菊池蔵規 (政則) の子孫。菊池郡の郡司から大宰府の府官となる。隆直が平氏側に味方したが,その子孫は鎌倉御家人となり,鎌倉時代末期,武時は鎮西探題打倒に参加。南北朝時代,武重,武光,武朝らは代々,征西将軍宮 (→懐良親王 ) を擁し,九州の南朝方勢力の中核となった。九州探題今川了俊の下向で勢力が衰退し,戦国時代に大友氏に滅ぼされた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「菊池氏」の解説

菊池氏
きくちし

中世,肥後(熊本県)菊池郡を本拠とした豪族
11世紀初め,刀伊 (とい) 入寇のとき藤原隆家に従って戦った藤原蔵規 (まさのり) の子孫。源平合戦のとき,惟直 (これなお) は平家方にくみして殺され,能隆 (よしたか) は承久の乱(1221)に京方につき所領を奪われた。14世紀,元弘の変に際し武時は鎮西探題を攻めて戦死。以来子孫は南朝方の有力な武将として活躍するが南北朝合体(1392)ののちは衰え,戦国時代の1504年,大友氏により滅ぼされた。

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世界大百科事典(旧版)内の菊池氏の言及

【征西将軍】より

…親王は五条頼元以下少数の従者を率いて42年(興国3∥康永1)5月1日薩摩国に上陸し,征西将軍宮と称された。親王は薩摩国谷山郡(現,鹿児島市)の谷山城を本拠として谷山御所と称し,肥後国の菊池氏,阿蘇氏をはじめ南朝支持勢力の組織化に努めた。親王の先発として肥後に入っていた中院義定は菊池氏の軍勢を率いて筑後国に進出し,大宰府攻略を意図したが,九州管領(九州探題)一色道猷(範氏)の反撃によって失敗し,後退した。…

【筑後川の戦】より

…南北朝中期の1359年(正平14∥延文4)九州筑後川流域における宮方(征西将軍宮,菊池武光)と武家方(少弐頼尚ら)との合戦。とくに8月6日大保原(現,福岡県小郡市)での合戦は激しかった。現存する古文書によれば,この合戦には双方とも肥前・筑前・筑後など北九州の武士が多く参加している。合戦の状況は《太平記》に詳しいが,これによると宮方の主力は肥後勢の菊池一族・名和一族や筑後勢で,武家方としては少弐氏の一族・被官や管国筑前・豊前・肥後などの武士が多くみえ,宮方の兵数8000余騎,少弐方の方は6万余騎となっている。…

【筑後国】より

…南北朝の内乱期には国人層は北朝方(幕府方)・南朝方(宮方)に分かれて争ったが,当国は九州の南朝勢力の拠点の一つになっていた。そのため幕府方は当国の宮方をしきりに攻め,38年(延元3∥暦応1)鎮西管領一色範氏は菊池氏討伐のため筑後に兵を進め,40年には佐竹義尚を派遣し,またみずからも当国を転戦した。49年(正平4∥貞和5)の足利直冬の九州下向によって,九州は幕府方,宮方,直冬方の3勢力に分かれて混乱したが,当国では荒木氏,三原氏らが直冬につくなど,直冬方が優勢であった。…

【筑前国】より

…1336年(延元1∥建武3)2月宮方の菊池武敏が大宰府を攻め,少弐貞経を自殺させた。その直後に京都を追われた足利尊氏が筑前に到着し,同年3月菊池氏の大軍を多々良浜の戦で破り,大宰府に入った。尊氏は一色範氏を鎮西管領として博多に残し東上した。…

【肥後国】より

…いわゆる王朝国家の時代となり,中央では摂関政治が成立し,地方では武士団の形成と荘園の成立がすすむ。肥後の武士団の随一は菊池氏である。その出自は古来,中関白藤原道隆の後裔で大宰権帥藤原隆家の子政則に始まるとされてきたが,今日では隆家の郎等で,11世紀初頭の刀伊(とい)の入寇の際大いに活躍し,大宰大監から少弐に進み,対馬守にも任ぜられた藤原蔵規(まさのり)に出ずることがほぼ定説化している。…

【隈府】より

…旧菊池郡隈府町。南北朝初期以来,背後に山城を擁した菊池氏の本拠として存続。室町期に肥後国守護大名となった同氏の城下町として体裁を整えたとみられる。…

※「菊池氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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