華国鋒(読み)カコクホウ

デジタル大辞泉 「華国鋒」の意味・読み・例文・類語

か‐こくほう〔クワ‐〕【華国鋒】

[1921~2008]中国政治家山西省出身。1937年中国共産党入党。抗日遊撃戦に参加。中華人民共和国成立後は、国務院の中央政務につき、1976年党第一副主席首相昇進。同年毛沢東死後、党主席と中央軍事委員会主席を兼任。1980年首相を辞任。1981年党副主席に、1982年中央委員に降格。ホワ=クオフォン。

ホワ‐クオフォン【華国鋒】

かこくほう(華国鋒)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「華国鋒」の意味・わかりやすい解説

華国鋒
かこくほう / ホワクオフォン
(1921―2008)

中国の政治家。山西(さんせい)省交城県出身。1937年県職業訓練学校当時、中国共産党に加入。県党委員会書記として抗日遊撃戦に参加。1949年人民解放軍とともに湖南(こなん)省に南下。1950年毛沢東(もうたくとう)の知遇を得、1955年同省内の水利事業で成果をあげ、毛に評価される。同省文革派主流として、1969年第9回党大会で中央委員に選出された。1970年各省の先頭を切って再建された同省党委員会の第一書記となり、省革命委員会主任代理も兼任した。1971年北京(ペキン)で国務院の中央政務につき、当時の林彪(りんぴょう)事件の糾明にあたった。1973年党中央政治局委員、1975年副首相兼公安相。1976年1月周恩来(しゅうおんらい)死後首相代行を務め、同年4月の第一次天安門事件直後に党第一副主席兼首相に昇進。1976年9月毛沢東死後、翌10月四人組」逮捕に活躍、党主席と中央軍事委員会主席を兼任し、中国の最高ポストについた。1976年末第2回大寨(だいさい)会議で演説。1980年(昭和55)5月と7月に来日。1977年の経済大躍進失敗と毛沢東崇拝ゆきすぎのかどで1980年9月首相を辞任。1981年党六中総会で副主席(党内序列6位)に下る。1982年12回党大会ではただの中央委員にとどまり、2002年に退任

[高市恵之助・渋谷 司 2019年4月16日]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「華国鋒」の意味・わかりやすい解説

華国鋒
かこくほう
Hua Guo-feng

[生]1921.2.16. 山西,交城
[没]2008.8.20. 北京
中国の政治家。 1938年抗日遊撃隊に参加,中国共産党に入党。 49年から湖南省委書記などを歴任,農村合作化などを積極的に推進し,毛沢東に評価された。 68年湖南省革命委員会副主任となり,69年4月九全大会で党中央委員,70年 12月湖南省常務委員会成立とともに第一書記,73年8月十全大会で中央委員に再選されると同時に中央政治局委員,中央政治局常務委員会委員に選出された。 75年1月国務院副総理兼公安部長に就任。 76年4月党第一副主席,国務院総理に選ばれ,10月「四人組」を逮捕直後,党主席,中央軍事委員会主席に任命されて党,軍,国家の最高指導者の地位についた。四つの近代化などの政策を打出したものの,鄧小平ら古参幹部の名誉回復と復活,思想解放運動,脱文革路線に消極的であり,みずからに対する個人崇拝の提唱や独断的な経済政策の推進などで責任が問われ,78年 12月の 11期三中全会後影響力が低下した。 80年国務院総理を辞任。 81年6月 11期六中全会で党内批判を受け,中共中央主席と中央軍事委員会主席を辞任,中央副主席,政治局常務委員に降格。 82年より中央委員に再選されたが,政治的影響力はほとんどなくなった。 (→文化大革命 )

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百科事典マイペディア 「華国鋒」の意味・わかりやすい解説

華国鋒【かこくほう】

中国の政治家。山西省出身。本名蘇鋳。1937年中華抗日救国先鋒隊に参加。その隊名から華国鋒の3字を選んで姓名とした。1938年,中国共産党に入党。1949年―1970年,一貫して湖南省の党・行政活動に携わった。1975年,国務院副総理兼公安部部長となり中央政界に躍進する。文化大革命終息期の1976年周恩来の死去により国務院総理,党第一副主席に就任。さらに同年10月,毛沢東の死去により党主席兼中央軍事委員会主席となる。以後,農業,工業,国防,科学技術の〈四つの現代化〉を推進。1980年兼任の総理を辞任。1981年党副主席に降格され,さらに1982年副主席も解任された。
→関連項目中華人民共和国

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「華国鋒」の解説

華国鋒(かこくほう)
Hua Guofeng

1921~2008

中国現代の政治家。山西省交城の人。1976年1月周恩来の死去により首相代行に抜擢,4月の天安門事件鄧小平(とうしょうへい)が再び失脚すると毛沢東の指名で首相になった。毛の死去から1カ月後の10月,いわゆる四人組を逮捕し,文化大革命を終了させた。以後,党主席として一時権力を掌握したが,鄧小平に批判され81年に辞任した。

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世界大百科事典(旧版)内の華国鋒の言及

【中華人民共和国】より

…まもなく江青ら〈四人組〉が逮捕されて,10年にわたる文革期の幕が下りた。(4)第4期(1977年以降) 〈四人組〉逮捕後,党中央主席となったのは華国鋒(1921‐ )であったが,彼の地位は,天安門事件の処理に際して毛沢東から党規約にない党第一副主席に指名されたことに由来するもので,その合法性はきわめて疑わしいものであった。華国鋒は,〈四人組〉時代の行すぎを是正しつつ,大慶と大寨の2本の赤旗を軸に文革の基本路線を堅持しようとした。…

【中国共産党】より

…国内的には,73年8月の第10回全国大会で,文革の混乱を収拾するため打倒された幹部の再起用が行われたが,同時に毛沢東夫人江青を中心に王洪文,張春橋,姚文元からなる〈四人組〉が党の中枢を握り,周恩来,鄧小平に代表される行政・経済の幹部と対立した。76年,周恩来,毛沢東が死去し,〈四人組〉は鄧小平の追い落しを強行したものの党の内外で孤立し,10月,華国鋒らのクーデタによって失脚した。77年8月の第11回全国大会は文化大革命(第1次)の成功・完了を宣言し,中国を現代化された社会主義国とする新たな建設の時期に入ったことを確認して華国鋒を党主席に選出した。…

※「華国鋒」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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