薄田兼相(読み)すすきだかねすけ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「薄田兼相」の意味・わかりやすい解説

薄田兼相
すすきだかねすけ
(?―1615)

安土(あづち)桃山時代の武将。隼人正(はやとのしょう)。豊臣(とよとみ)秀吉・秀頼(ひでより)に仕え、1612年(慶長17)正月には秀頼の名代として、駿府(すんぷ)の徳川家康のもとへ年賀の使に行っている。豪勇をうたわれ、大坂冬の陣では伯労淵(ばくろうぶち)の砦(とりで)の守将であったが、市中遊女屋に遊んでいたすきに、蜂須賀(はちすか)勢の奇襲を受けて砦を奪われた。夏の陣ではこの恥をすすごうと討ち死に覚悟で道明寺(どうみょうじ)に出陣。前年の汚名を償ってなお余りあるほどの奮戦のすえ、壮烈な死を遂げた。講談でおなじみの岩見重太郎(いわみじゅうたろう)はその前身というが、俗説である。

岡本良一

『岡本良一著『大坂冬の陣・夏の陣』(1972・創元社)』

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朝日日本歴史人物事典 「薄田兼相」の解説

薄田兼相

没年:元和1(1615)
生年:生年不詳
安土桃山・江戸時代初期の武功者。隼人正と称した。小早川隆景の家臣薄田重左衛門の子。剣術に優れ,鞍馬八流の剣法および気合の術を学び,諸国をめぐって武者修行をした。その後,慶長19(1614)年に大坂冬の陣が勃発するや,豊臣秀頼の招きに応じて大坂城に入り,博労ケ淵の砦を守備した。しかし敵軍蜂須賀至鎮の部隊の攻撃を受けたときには,遊所にあって防御の指揮に間にあわず砦は落とされた。翌年の夏の陣にはこの雪辱を期して臨み,道明寺の合戦において水野勝成,伊達政宗,本多忠政らの大軍を引き受けて奮戦し,ついに敗れて死んだ。その身体が並はずれて大きく,また大刀を自由に用いて力戦したところから,後世には兼相を伝説の英雄岩見重太郎に擬する説も生じた。

(笠谷和比古)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「薄田兼相」の意味・わかりやすい解説

薄田兼相
すすきだかねすけ

[生]?
[没]慶長20(1615).5.6. 大坂
安土桃山時代の武将。隼人正と称した。出身は不明であるが,大坂の陣において大坂方の武将として後藤基次らとともに活躍。夏の陣の際,大坂道明寺口片山辺において伊達政宗の重臣片倉小十郎重綱の一隊と戦い,戦死した。水野勝成の家臣河村重長に打取られたとの説もある。岩見重太郎と同一人であるとする説もあるが未詳。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「薄田兼相」の解説

薄田兼相 すすきだ-かねすけ

?-1615 織豊-江戸時代前期の武将。
豊臣秀吉,秀頼につかえる。大坂冬の陣では侍大将として伯労ケ淵(ばくろうがふち)をまもったが,遊女屋にでかけて不在中に砦(とりで)をうばわれた。夏の陣では雪辱を期して道明寺に出陣,奮戦の末,慶長20年5月6日討ち死に。岩見重太郎は兼相の前身との俗説がある。通称は隼人正(はやとのしょう)。

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