薬王寺(読み)ヤクオウジ

デジタル大辞泉 「薬王寺」の意味・読み・例文・類語

やくおう‐じ〔ヤクワウ‐〕【薬王寺】

福島県いわき市にある真言宗智山派の寺。山号は、延寿山。平安初期に徳一が薬師堂を建立したのに始まるという。
東京都中野区新井にある真言宗豊山派の寺。山号は、松高山。通称、新井薬師。開創は天正14年(1586)。開基は梅原将監(法名、行春)。江戸時代以来、子育て薬師として信仰を集める。
徳島県海部郡美波みなみ町にある高野山真言宗の寺。山号は、医王山。四国八十八箇所第23番札所。弘仁6年(815)空海の創建と伝える。厄除けで知られる。

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精選版 日本国語大辞典 「薬王寺」の意味・読み・例文・類語

やくおう‐じ ヤクワウ‥【薬王寺】

[一] 福島県いわき市にある真言宗智山派の寺。山号は延寿山。大同年間(八〇六‐八一〇)の開創と伝えられる。明徳年間(一三九〇‐九四)岩城隆忠が再興。文安三年(一四四六)鏡祐が中興開山
[二] 東京都中野区新井にある真言宗豊山派の寺、梅照院の寺号。
[三] 徳島県海部郡日和佐町にある高野山真言宗の寺。山号は医王山。弘仁六年(八一五)空海が厄除けのために開創したと伝えられる。四国八十八箇所第二三番札所。

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日本歴史地名大系 「薬王寺」の解説

薬王寺
やくおうじ

[現在地名]いわき市四倉町薬王寺 塙

延寿山教王院と号し、真言宗智山派。本尊薬師如来。享保一四年(一七二九)第二二世円胤の記した「延寿護法録」によると、仁寿(八五一―八五四)の初め筑波つくば山の徳一が八茎やぐきに薬師像を刻み庵を建て寺院としたのが当寺であるとする。永仁三年(一二九五)三月の宝寿抄奥書(金沢文庫所蔵文書)に「於奥州岩城郡薬王寺宝寿院禅弁改名禅意大徳口筆也、真源於座下記之」とあり、西大寺叡尊の門弟禅弁が口述したものを真源が筆録している。現奈良県大和郡山やまとこおりやま市の額安がくあん寺境内から発掘された禅弁の骨蔵器によると、鎌倉極楽寺真言院の僧で奥州磐城で活躍したことを記している。当寺の縁起を記す諸本は岩城朝義が隆忠僧正を避け某を住職としたため、建武年間(一三三四―三八)全山焼失したと伝えるが、その時期は永和(一三七五―七九)の板碑以後の南北朝動乱末期であろう。

文安二年(一四四五)下総国八日市場ようかいちば(現千葉県八日市場市)見徳けんとく寺住持鏡照より真言宗の事相である願行流の伝授を受けた鏡祐は、岩城隆忠の帰依により翌三年当寺を再び真言密教の寺院として再建、以後岩城氏歴代の祈願所として門前と八茎村に領地を有した。鏡祐は長禄四年(一四六〇)隠退にあたり、鏡仁に願行流を伝えて第二世とし、意行流光宝方を祐信に伝えて恵日えにち寺の住持とした。

薬王寺
やくおうじ

[現在地名]日和佐町奥河内

日和佐街区の西方にある。高野山真言宗。医王山無量寿院と号する。本尊は薬師如来。四国霊場八十八ヵ所の第二三番札所で、御詠歌は「みな人のやミぬるとしのやく王寺るりのくすりをあたえまします」(四国遍礼道指南)。弘仁六年(八一五)空海の開創と伝え、天長七年(八三〇)堂宇を修復し、三度の攘厄会を行ったという。天永年間(一一一〇―一三)宥山が中興。貞治五年(一三六六)細川頼之が大檀越となって修造がなり、導師は宥海であったという(文化六年「薬王寺来由記」寺蔵文書)。応安元年(一三六八)細川氏の家臣宇佐平太左衛門尉が当寺に参籠して攘厄会を修して効験があったので、寺領五〇〇石の寄進があったとも伝える(日和佐郷土誌)

薬王寺
やくおうじ

[現在地名]三珠町上野

身延線芦川あしがわ駅の東方に位置する。河浦山と号し、古くは河浦山多聞院薬王寺と称した。高野山真言宗、本尊は毘沙門天。天平一八年(七四六)行基の開創、開山は藤原氏出自の観全、当初は本尊多聞天で法相宗であったと伝える。武田氏の祖源義清の帰依を受け、天治元年(一一二四)義清から寺領寄進を受ける。貞和三年(一三四七)には武田伊豆守信重から二八貫文の地を寄進された。武田晴信(信玄)は多聞天を信仰し、城内南門に多聞天を安置し、正月・五月・九月には当寺住職が招かれ祈願を行った。

薬王寺
やくおうじ

[現在地名]石川町 大室

石川市街を北に見下ろす薬王寺山の北麓にある。真言宗智山派に属し、医王山と号する。本尊は大威徳明王。境内の薬師堂とともに徳一大師により創建されたと伝え、石川氏の祈願寺といわれる。山裾からは弘法大師伝説をもつ大坊だいぼうの水が湧出しており、昭和三〇年代までは門前の旧下泉しもいずみ町内馬場ばば町の住民の飲料水として利用されていた。

薬王寺
やこうじ

[現在地名]美東町大字綾木 薬王寺

綾木あやぎの北部、鳳翩ほうべん山塊の南麓に開けた小盆地にある集落。北方矢櫃やびつ(六五三・三メートル)付近に源を発する薬王寺川が貫流する。

「陰徳太平記」に「かくて義隆卿法泉寺を出で給ひて、糸伊根いといね朝倉あさくら・大坂を越え、八小路やこうぢの谷を足に任せて落ち行き給ふ」とあり、天文二〇年(一五五一)山口から逃れた大内義隆が、途中通過した八小路は薬王寺のことと思われる。

薬光寺の地名は、明治維新で萩の大照だいしよう院に合併された禅宗若王にやくおう寺があったことによるという。若王寺について「注進案」は、俚言として「往古此薬王寺は今薬王寺村に有之、若一王子社の本地堂にて天台宗の大寺なりしが、中古若一王寺社と薬王寺を相兼、若王寺と云習はせしといふ」と記し、若一王子社の本地堂薬王寺がのちに若王寺とよばれるようになったとする。

薬王寺
やくおうじ

[現在地名]和歌山市薬勝寺

瑠璃山天平院と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。寺伝によると寺地はもと光明皇后の湯沐邑で、天平年間(七二九―七四九)聖武天皇勅願所として建立されたのが始まりという。「日本霊異記」中巻第三二話に、紀伊国名草なくさ三上みかみ村の人々が、薬王寺のために「薬分」の利殖につとめていたことがみえ、薬王寺には「今謂勢多寺也」という注がある。

薬王寺
やくおうじ

[現在地名]金屋町小川 上野

明光山普照院と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。「続風土記」は「古は七堂伽藍の地なりしに天正後衰廃すといふ」と記し、観音堂・薬師堂の二宇をあげている。当寺東方の小字来蓮寺らいれんじに古寺跡があり、阿比光山来蓮寺とよんだと伝える。薬王寺と結び付くかどうかは不明。付近から平安時代末から鎌倉時代の瓦器が出土し、古石塔の断片も残る。

観音堂(国指定重要文化財)安置の木造阿弥陀如来坐像(国指定重要文化財)は藤原期の作で、像内の背面の墨書銘により、嘉保三年(一〇九六)尾張武忠一族によって寄進されたことがわかる。

薬王寺
やくおうじ

[現在地名]佐世保市新替町

井手平いでひら城跡の西手にある。城持山と号し、曹洞宗。本尊は薬師如来。文明四年(一四七二)に没した大虚舜道が境内裏手の山中に開いた養性ようじよう庵を始まりとすると伝える(「当山歴世重興記録」寺蔵文書)。平戸松浦氏の出城として当地に築城された井手平城が天正一四年(一五八六)四月に落城するが、松浦鎮信はこの戦死者を弔うため養性庵の地に一宇を建立、薬王寺と号したという(三光譜録)

薬王寺
やくおうじ

[現在地名]久世町台金屋

岡松山と号し、本尊薬師如来。真言宗御室派。「作陽誌」によると、承安二年(一一七二)讃州善通ぜんつう(現香川県善通寺市)の住持がきて寺務を執行。嘉暦二年(一三二七)の火災によって衰退し長光ちようこう寺、天福てんぷく寺の南房・持宝房・塔婆などの跡が残るのみと記す。寛永年間(一六二四―四四)に宥阡が楼門と銅鐘を設け、寛文七年(一六六七)に宥猛が楼門の修復とこの銅鐘を改鋳(「銅鐘銘」作陽誌)、貞享元年(一六八四)京都仁和寺と本末関係を結んだ(同書)

薬王寺
やくおうじ

[現在地名]辰野町大字伊那富 北大出三谷

桑沢くわざわ川の扇状地の北側の桑沢山麓にあり、真言宗桑沢山薬王寺と称し、高野山金剛頂院の末寺。寺伝によれば建久三年(一一九二)源頼朝の再興で、往時は西方約二キロの桑沢山の山腹にあったといわれ、今そこを堂平どうだいらといっている。明治一六年(一八八三)火災にあったが、本尊及び十二神将・四天王などは難をまぬかれ今に伝わっている。

薬王寺
やくおうじ

[現在地名]鹿沼市石橋町

医王山阿弥陀院と号し、真言宗智山派。本尊薬師如来。弘長年間(一二六一―六四)の創建と伝える。慶長一七年(一六一二)の関東八州真言宗諸寺連判留書案(醍醐寺文書)に寺名がみえ、当地方真言宗の拠点寺院であった。元和三年(一六一七)徳川家康の遺骸は駿河久能山から日光に移葬の際、三月二九日から四月三日まで当寺にとどまった(徳川実紀)

薬王寺
やくおうじ

[現在地名]津市片田薬王寺町

風呂屋ふろや川の谷奥にあった小堂。もと真言宗、医王山と号した。薬師三尊を祀る。中尊の薬師如来坐像は像高九七センチ。檜材の一木造で、両膝のみ別木ではぎ付け、重厚な平安初期の特徴をよく示している。脇侍の日光・月光立像は一木造で像高一〇センチ。中尊と同時の作とみられ、三尊とも国指定重要文化財。

薬王寺
やくおうじ

[現在地名]岡崎市宇頭町 北側

東海道筋北側きたがわにあり、寺域は全長六〇メートル余の前方後円墳上にある。和志王山と号し、浄土宗。本尊薬師如来。寺伝によると、本尊は景行天皇の皇子五十狭入彦命の後胤豊阿弥長者の念持仏という。和銅年間(七〇八―七一五)七堂伽藍を建て行基を開祖とした。天文一一年(一五四二)の戦禍で焼失。

薬王寺
やくおうじ

[現在地名]三和町東山田

東山田ひがしやまたの西北部、下妻―栗橋くりはし街道の南に所在。東医山宝珠院と号し、天台宗。本尊阿弥陀如来。創立は寛永元年(一六二四)頃といい、開山は舜豪または豪海と伝えられる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「薬王寺」の意味・わかりやすい解説

薬王寺
やくおうじ

徳島県海部(かいふ)郡美波(みなみ)町奥河内寺前にある高野山真言(こうやさんしんごん)宗の寺。医王山無量寿院と号する。本尊は薬師如来(にょらい)。四国八十八か所第23番札所。815年(弘仁6)空海が42歳の厄除(よ)けのため薬師如来像を刻み、伽藍(がらん)を建立して安置したのに始まると伝える。その後たびたび火災にあったがそのつど復興された。1188年(文治4)の火災のとき本尊自ら今の奥之院(玉厨子(ぎょくずし)山)に飛び移った。のち後鳥羽(ごとば)院は堂宇を再建するとともに新たに薬師像をつくったところ前の本尊が戻ったといわれ、現在は本尊が二体ある。女厄坂、男厄坂の石段があり、厄年の男女が多く参詣(さんけい)する。

[祖父江章子]


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デジタル大辞泉プラス 「薬王寺」の解説

薬王寺

徳島県海部郡美波町にある寺院。高野山真言宗別格本山。山号は医王山、院号は無量寿院。815年、弘法大師(空海)の開創と伝わる。本尊は厄除薬師如来。四国八十八ヶ所霊場第23番札所。

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