藤原実資(読み)フジワラノサネスケ

デジタル大辞泉 「藤原実資」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐さねすけ〔ふぢはら‐〕【藤原実資】

[957~1046]平安中期の公卿。祖父実頼の養子。三条天皇の信任が厚く、右大臣となる。道長頼通に迎合せず、賢右府と称された。有職ゆうそく故実に詳しく「小野宮年中行事」を著す。日記小右記」は当時を知る基本史料。

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精選版 日本国語大辞典 「藤原実資」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐さねすけ【藤原実資】

平安中期の公卿・歌人。右大臣。従一位。有職故実家。祖父実頼の養子。三条天皇に信任され、藤原道長を終始批判して賢右府と称された。小野宮流礼儀作法完成。著に「小野宮年中行事」、日記「小右記」がある。天徳元~永承元年(九五七‐一〇四六

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改訂新版 世界大百科事典 「藤原実資」の意味・わかりやすい解説

藤原実資 (ふじわらのさねすけ)
生没年:957-1046(天徳1-永承1)

平安中期の公卿。父は参議斉敏。祖父実頼の養子となり,小野宮第など多くの資産を伝領,また故実に関する家説を継承した。後小野宮と称せられる。969年(安和2)元服,叙爵。以後右兵衛佐,右近衛少将等を歴任,981年(天元4)蔵人頭。翌年遵子(頼忠女)立后の際中宮亮を兼任。983年(永観1)左近衛中将。翌年円融天皇譲位,引き続き新帝(花山天皇)の蔵人頭。985年(寛和1)一条天皇受禅の際蔵人頭をやめたが,987年(永延1)再補。989年(永祚1)参議,995年(長徳1)権中納言(翌年転正),1001年(長保3)権大納言(09年転正)と昇進,兼官も左兵衛督,右衛門督,右大将と進み,その間太皇太后宮大夫や検非違使別当も務めた。また仏教信仰に厚く小野宮第にりっぱな御堂を造っている。富裕であった彼はこの邸宅にはしばしば造作を加えた。九条流の道長の勢威に対し,小野宮の主流としての誇りを保ち,道長も彼に一目置いていた。三条天皇の女御娍子(済時女)立后の際は道長の妨害に屈せず,儀式を主宰した。後一条朝には一段と重きを加え,賀茂社行幸など重要な行事を主宰した。21年(治安1)右大臣,37年(長暦1)従一位。男子はなく兄懐平の子の資平を後継者としたが,資産は女子一人に譲与した。日記《小右記(しようゆうき)》は982-1032年にわたり現存。儀式などの記事は詳細で,政治世相に対する批判も多くみられ,摂関政治最盛期のとくに重要な史料である。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原実資」の意味・わかりやすい解説

藤原実資
ふじわらのさねすけ
(957―1046)

平安中期の公卿(くぎょう)。参議斉敏(ただとし)の三男。母は播磨守(はりまのかみ)藤原尹文の女(むすめ)。祖父実頼(さねより)の養子となり、本邸の小野宮(おののみや)ほかの莫大(ばくだい)な財産を継ぎ、後小野宮殿(のちのおののみやどの)などとよばれた。981年(天元4)蔵人頭(くろうどのとう)となり、参議、中納言(ちゅうなごん)、大納言を経て1021年(治安1)右大臣、37年(長暦1)従(じゅ)一位に上り、寛徳(かんとく)3年正月18日没した。頭がよく賢人右府とよばれ、祖父以来の伝統を継承して有職故実(ゆうそくこじつ)に詳しく、『続本朝往生伝(ぞくほんちょうおうじょうでん)』には一条朝の秀(すぐ)れた公卿の筆頭にあげられている。藤原道長(みちなが)全盛期にあって、実頼に始まる小野宮家嫡流として、実頼の弟師輔(もろすけ)の孫である道長と対等の意識をもち、安易に迎合しなかった。ただし道長その人と対立するのではなく、1012年(長和1)の道長による三条天皇女御(にょうご)娍子(せいし)の立后妨害のような横車には対抗するという、朝廷を重んじて筋を通す考え方であった。日記『小右記(しょうゆうき)』、有職故実書『小野宮年中行事』を残した。

[吉田早苗]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原実資」の意味・わかりやすい解説

藤原実資
ふじわらのさねすけ

[生]天徳1(957).京都
[没]永承1(1046).1.18. 京都
平安時代中期の廷臣。小野宮実資ともいう。斉敏 (ただとし) の子。母は播磨守藤原尹文の娘。祖父実頼の養子となった。寛弘6 (1009) 年大納言,治安1 (21) 年右大臣,長暦1 (37) 年従一位。長徳年間 (995~999) 以降,宮廷内で藤原道長に対抗する者がいなかったなかで終始公正な批判者としての立場を守り,政務を厳正に処理し,故実に精通していた。日記『小右記 (しょうゆうき) 』,著書『小野宮年中行事』。

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百科事典マイペディア 「藤原実資」の意味・わかりやすい解説

藤原実資【ふじわらのさねすけ】

平安中期の高官。祖父実頼(さねより)の養子となって小野宮(おののみや)を継ぎ右大臣に進んだ。性剛直,全盛期の道長にも追従せず,刀伊(とい)の入寇を撃退した藤原隆家の行賞を主張した。朝廷の儀式に詳しく,日記に《小右記(しょうゆうき)》がある。
→関連項目本朝世紀

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「藤原実資」の解説

藤原実資
ふじわらのさねすけ

957~1046.1.18

後小野宮(のちのおののみや)・賢人右府とも。平安中期の公卿。父は斉敏(ただとし)。祖父実頼の養子となり,小野宮嫡流として豊富な財産と儀礼を継ぐ。969年(安和2)元服し,従五位下。円融・花山・一条天皇3代の蔵人頭を勤め,989年(永祚元)参議。のち右近衛大将を兼ねる。1021年(治安元)右大臣に至り,90歳の死去まで在任。この間37年(長暦元)従一位。政務に明るく,また藤原道長に批判的だった。日記「小右記」,儀式書「小野宮年中行事」。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原実資」の解説

藤原実資 ふじわらの-さねすけ

957-1046 平安時代中期の公卿(くぎょう)。
天徳元年生まれ。藤原斉敏(ただとし)の3男。祖父実頼の養子となり,小野宮家の所領,記録文書をうけつぐ。円融朝から一条朝にいたる3代に蔵人頭(くろうどのとう)としてつかえ,永延3年(989)参議。治安(じあん)元年(1021)右大臣,のち従一位にいたる。賢人右府と称され,日記「小右記(しょうゆうき)」は摂関政治確立期の史料として有名。寛徳3年1月18日死去。90歳。

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旺文社日本史事典 三訂版 「藤原実資」の解説

藤原実資
ふじわらのさねすけ

957〜1046
平安中期の公卿
斉敏の子。祖父関白実頼の養子。右大臣。三条天皇の信任を得,道長の権勢に屈することなく娍子 (せいし) (斉時の娘)を三条天皇の皇后とした。また1019年刀伊の入寇のとき戦功のあった大宰権帥 (ごんのそち) 藤原隆家に対し,道長を恐れず論功行賞を行った。世に賢人右府と称された。『小右記 (しようゆうき) 』は彼の日記で,この時期の最重要資料。

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世界大百科事典(旧版)内の藤原実資の言及

【小野宮】より

…その後,摂関藤原実頼の領するところとなり,このため実頼の系統を小野宮家と称し,九条家(流)と対比された。実頼からこの家を伝領したのは養子(実は孫)の藤原実資(さねすけ)であった。実資の日記《小右記》に,この邸のことが散見し,いかに造作に意を用いているかがわかる。…

【小野宮年中行事】より

…1巻。著者は藤原実資。実頼(実資の養父)と師輔の兄弟は,父忠平の教命を受けて,それぞれ小野宮流,九条流の有職を確立した。…

【小右記】より

…右大臣藤原実資(さねすけ)の日記。祖父実頼が小野宮と称したのに対して実資は後小野宮と称し,右大臣であったことから《小右記》という。…

【政事要略】より

…その引用書の種類は,現存25巻のものだけでも100を超えるが,その大半は現存しない逸書である。本書の成るについては,同時代の政治家で儀式典礼についても一流派(小野宮流)をなした藤原実資(さねすけ)の依頼によるともいわれる。古写本に前田尊経閣所蔵の金沢文庫本3巻がある。…

※「藤原実資」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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