藤原豊成(読み)ふじわらのとよなり

改訂新版 世界大百科事典 「藤原豊成」の意味・わかりやすい解説

藤原豊成 (ふじわらのとよなり)
生没年:704-765(慶雲1-天平神護1)

奈良中期の官人。武智麻呂の第1子で,仲麻呂と同腹。継縄(つぐただ),乙縄,縄麻呂らの父で,《尊卑分脈》では良因,中将姫と号した女子もその子とある。妻は百能(房前の女)。737年(天平9)12月,天然痘で藤原四卿(房前,麻呂,武智麻呂,宇合)が全滅したあと参議に任じられ,藤原氏からただひとり議政官となった。また房前のあとをうけて中衛大将に就任したらしく,藤原氏の代表者の地位にあったと思われる。743年中納言,748年大納言,749年(天平勝宝1)右大臣と昇進した。しかし天平末年ごろから弟仲麻呂との対立が深まり,757年(天平宝字1)7月の橘奈良麻呂の乱では陰謀を知りながら奏上せず,事が発覚しても糾明を怠ったことを理由に,大宰員外帥に左降された。しかし彼は難波の別業にとどまって大宰府には赴任しなかったらしい。764年9月の仲麻呂の没落とともに,右大臣の地位を回復された。没時は右大臣従一位であった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原豊成」の意味・わかりやすい解説

藤原豊成
ふじわらのとよなり
(704―765)

奈良時代の政治家。南家(なんけ)の祖武智麻呂(むちまろ)の長男。弟仲麻呂(なかまろ)とともに才学あり、名は衆に聞こえたといわれ、しきりに要職を経て、749年(天平勝宝1)に右大臣となった。757年(天平宝字1)に道祖(ふなど)王が皇太子を廃されたときには、藤原永手(ながて)とともに皇太子に王の兄塩焼(しおやき)王を推したが実現しなかった。そのころすでに仲麻呂に政治の実権を握られ、同年起こった橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の変で豊成の子乙縄(おとただ)が奈良麻呂に加担し、豊成もこの陰謀を知りながら奏上しなかったとして大宰員外帥(だざいのいんがいのそち)に左遷されたが、難波(なにわ)の別邸に至って病と称してとどまった。764年に起こった仲麻呂の乱後ふたたび右大臣になったが、翌年薨(こう)じた。

福井俊彦

『中川収著『奈良朝政争史』(1979・教育社)』『岸俊男著『藤原仲麻呂』(1969・吉川弘文館)』

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朝日日本歴史人物事典 「藤原豊成」の解説

藤原豊成

没年:天平神護1.11.27(766.1.12)
生年慶雲1(704)
奈良時代の公卿藤原武智麻呂長子。母は右大臣従二位阿倍御主人の孫娘(ただし安倍貞吉の娘とも安倍真虎の娘とも伝えられる)。仲麻呂は同母弟。妻は藤原房前の娘百能。子に継縄,乙縄,縄麻呂らがいる。難波大臣とも横佩大臣とも号した。若くして才学の誉れ高く,養老7(723)年に内舎人で兵部丞を兼ね,翌神亀1(724)年には従五位下。以後順調に昇進し,天平9(737)年疫病(天然痘)で父や叔父たちが死去するなか,藤原氏からただひとり参議に選ばれた。天平勝宝1(749)年には右大臣に任じて廟堂の首班となり,天平宝字1(757)年正二位に叙されたが,道祖王に代わる新皇太子推戴会議以後弟仲麻呂と対立。同年に勃発した橘奈良麻呂の変に第3子乙縄が関与したとされて大宰府(太宰府市)の員外帥に任じられたが,病と称して難波の別荘に居座って赴任しなかったといわれる。仲麻呂が反乱を起こすと(764),再び右大臣に復帰し,従一位に叙されたが,1年余で死去。

(橋本義則)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原豊成」の意味・わかりやすい解説

藤原豊成
ふじわらのとよなり

[生]慶雲1(704).奈良
[没]天平神護1(765).11.27. 奈良
奈良時代の廷臣。難波大臣,横佩大臣ともいう。藤原南家の祖武智麻呂の子,仲麻呂の兄。天平9 (737) 年疫病で父や叔父が没すると参議,同 15年中納言,次いで大納言,天平感宝1 (749) 年右大臣となり,左大臣橘諸兄と並ぶ藤原氏勢力の代表者となった。天平宝字1 (757) 年橘奈良麻呂の乱に関係して大宰員外帥に左遷されたが,病と称して難波にとどまり,仲麻呂没落後,右大臣に復した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原豊成」の解説

藤原豊成 ふじわらの-とよなり

704-766* 奈良時代の公卿(くぎょう)。
慶雲(きょううん)元年生まれ。南家藤原武智麻呂(むちまろ)の長男。母は阿倍御主人(あべの-みうし)の孫娘。天平(てんぴょう)9年(737)父と叔父の病死により参議となり,天平感宝元年(749)右大臣にすすむ。弟藤原仲麻呂の勢力におされ,橘(たちばなの)奈良麻呂の変により左遷されたが,仲麻呂の失脚で右大臣に復し従一位となった。難波大臣,横佩(よこはきの)大臣とよばれた。天平神護元年11月27日死去。62歳。

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