藤原頼忠(読み)ふじわらのよりただ

改訂新版 世界大百科事典 「藤原頼忠」の意味・わかりやすい解説

藤原頼忠 (ふじわらのよりただ)
生没年:924-989(延長2-永祚1)

平安中期の廷臣。父は実頼,母は藤原時平女。公任の父。963年(応和3)参議,以後中納言,権大納言を経て971年(天禄2)右大臣,977年(貞元2)左大臣となった。同年弟藤原兼家と不和であった関白兼通は弟との対抗上,強引に外戚でない頼忠を後任推挙して没した。このため関白となり,翌年太政大臣を兼ねた。女遵子は円融天皇皇后となったが子に恵まれなかった。花山朝でも外戚でない関白をつとめたが,986年(寛和2)一条天皇即位とともに関白をやめ太政大臣のみを帯した。諡(おくりな)は廉義公
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「藤原頼忠」の解説

藤原頼忠

没年:永祚1.6.26(989.7.31)
生年:延長2(924)
平安中期の公卿三条太政大臣と称される。諡号は廉義公。従一位(贈正一位)。摂関実頼と左大臣時平の娘の次男従兄弟の兼通,兼家兄弟の確執のはざまで政権を掌握した兼通により図らずも左大臣に据えられ,死去直前の兼通の推挙で貞元2(977)年には円融天皇の関白(氏長者)となった。天元1(978)年,太政大臣となったが,天皇に入れた娘遵子に皇子の誕生がなく,「よそ人」に終始した。そのため寛和2(986)年兼家が外孫一条天皇の即位で摂政となるにおよんで,9年間務めた関白の辞任を余儀なくされた。死の直前,子の公任の手で剃髪,受戒し,遺骸は京外東の帝釈寺に埋葬された。邸宅は平安京左京の三条殿と四条宮である。過度の倹約家であったらしい。

(朧谷寿)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原頼忠」の意味・わかりやすい解説

藤原頼忠
ふじわらのよりただ
(924―989)

平安中期の公卿(くぎょう)。摂政(せっしょう)実頼(さねより)の二男。母は左大臣藤原時平(ときひら)の女(むすめ)。右大臣を経て円融(えんゆう)天皇の977年(貞元2)左大臣となる。この年の10月、死を前にした関白藤原兼通(かねみち)は、自分の死後、対立している弟の兼家(かねいえ)を関白にさせまいと、仲のよい従兄弟(いとこ)の頼忠に強引に関白を譲った。翌978年(天元1)太政(だいじょう)大臣となり、花山(かざん)朝でも関白を続けたが、986年(寛和2)一条天皇の即位で辞めた。永延(えいえん)3年6月26日没し、正一位を贈られ駿河(するが)国に封ぜられ、諡(おくりな)を廉義公(れんぎこう)という。三条に住み三条太政大臣とよばれた。

[吉田早苗]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原頼忠」の意味・わかりやすい解説

藤原頼忠
ふじわらのよりただ

[生]延長2(924).京都
[没]永延3(989).6.26. 京都
平安時代中期の廷臣。実頼の次男。母は藤原時平の娘。公任や円融天皇の皇后遵子,花山天皇の女御あき子らの父。天禄2 (971) 年右大臣,同3年伊尹 (これただ) が没すると,あとをうけて氏長者となったが,天延2 (974) 年これをとめられて関白藤原兼通と代った。貞元2 (977) 年左大臣,次いで兼通の死によって弟兼家と不和であった兼通の遺志から関白,氏長者の地位を継いだ。同3年太政大臣,同4年従一位。寛和2 (986) 年兼家の策略によって外孫一条天皇が践祚すると,関白,氏長者を免じられた。廉義公と諡 (おくりな) された。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「藤原頼忠」の解説

藤原頼忠
ふじわらのよりただ

924~989.6.26

三条太政大臣とも。平安中期の公卿。左大臣小野宮実頼の次男。母は左大臣藤原時平の女。子に公任(きんとう)・遵子(じゅんし)(円融天皇皇后)・諟子(ていし)(花山天皇女御)がある。諡号は廉義公。参議・中納言・権大納言をへて971年(天禄2)正三位右大臣。976年(貞元元)一上(いちのかみ)の宣旨をこうむる。翌年4月正二位左大臣,10月には藤原兼通が没し円融天皇の関白となる。978年(天元元)太政大臣。981年従一位。984年(永観2)に花山天皇が即位してからも関白にとどまるが,実権を藤原義懐(よしちか)ににぎられ公事には従わなかった。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原頼忠」の解説

藤原頼忠 ふじわらの-よりただ

924-989 平安時代中期の公卿(くぎょう)。
延長2年生まれ。藤原実頼(さねより)の次男。母は藤原時平の娘。応和3年(963)参議。貞元(じょうげん)2年(977)左大臣となり,関白藤原兼通(かねみち)が弟兼家と不和だったため,同年兼通から関白をゆずられた。翌年太政大臣を兼務。円融天皇皇后となった娘遵子(じゅんし)に皇子が生まれず,外戚(がいせき)とはなれなかった。歌が「拾遺和歌集」以下の勅撰集に4首はいっている。永延3年6月26日死去。66歳。贈正一位。通称は三条殿。諡(おくりな)は廉義公。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

今日のキーワード

青天の霹靂

《陸游「九月四日鶏未鳴起作」から。晴れ渡った空に突然起こる雷の意》急に起きる変動・大事件。また、突然うけた衝撃。[補説]「晴天の霹靂」と書くのは誤り。[類語]突発的・発作的・反射的・突然・ひょっこり・...

青天の霹靂の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android