藤原顕広(読み)ふじわらのあきひろ

世界大百科事典(旧版)内の藤原顕広の言及

【藤原俊成】より

…平安末期の歌人。〈しゅんぜい〉ともよばれる。参議俊忠の子。幼年期葉室顕頼の養子として顕広と称したが,54歳から父の御子左家(みこひだりけ)に帰り,俊成と改名。法名釈阿。最終官は正3位皇太后宮大夫。藤原基俊に和歌を学び,《為忠家両度百首》(1132‐36ころ),《述懐百首》(1140‐41)などの力詠で崇徳院の殊遇を受け,《久安百首》の部類も下命された。そのころから六条派主導の観念的な古典追随,万葉好尚の風潮と対立,《古今集》以来の優美な抒情に和歌の芸術性を認め,さらに時代の感性をとらえた幽玄・優艶な余情美を表現して,新風の推進者となった。…

※「藤原顕広」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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