藤田農場争議(読み)ふじたのうじょうそうぎ

改訂新版 世界大百科事典 「藤田農場争議」の意味・わかりやすい解説

藤田農場争議 (ふじたのうじょうそうぎ)

岡山県児島郡藤田村小作争議。1920年代の日本農民運動の代表的事例。藤田村は藤田組により1899年から干拓された農場の一つで,1911年までに過酷な小作契約のもとに入植者を募集し,22年には農場の耕地1287町歩,小作農439戸に達した。農場の経営は直営,耕作請負小作農に分かれ,農民は一般に会社の農舎に住み,債務奴隷的な状態におかれていた。1921年,会社が肥料代貸与を中止したことを契機に小作争議がおこり,以後1921年8~12月,22年10月~23年5月,25年1~6月,27年12月~30年6月と争議が頻発した。1922年10月には日本農民組合(日農)支部が創設され,立入禁止反対闘争を強力に展開した。日本農民組合,日本労働総同盟は総力をあげて応援し,第2次争議への弾圧は起訴が82名にものぼり,全国的波紋をなげかけた。この争議は,最終的に大日本国粋会調停に介入して解決した。
小作争議
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤田農場争議」の意味・わかりやすい解説

藤田農場争議
ふじたのうじょうそうぎ

1921年(大正10)に起きた岡山県児島(こじま)郡藤田村(岡山市南区)の農民争議。藤田村は合資会社藤田組が開墾、経営する農場の一つ。水田1277町歩を入植農家511戸に小作、請負、直営(分益)の三制度で経営させ、大農具、農舎などは会社が所有し、農民はなかば雇用人の地位にあった。1921年春、会社が肥料代などの貸与を中止したため、農民の集会の自由を認めないなどの誓約条項の緩和、直営農には生産額から生産費を差し引いた残額の25%、請負農には生産額の35%から生産費を引いた残額を分配する制度の改善などを求める大字都(みやこ)の請負農、直営農と対立、7月争議化したが、翌年1月小康状態となる。しかし9月にふたたび争議化し、10月日本農民組合藤田村聯合(れんごう)会が発足、脱穀作業を控えてにらみあいとなる。1923年1月争議団の脱穀強行に立入禁止処分がとられて騒擾(そうじょう)化し、農民側は日本農民組合や日本労働総同盟の支援を受けて多彩な戦術で対抗したが、同月大日本国粋会の調停に屈服した。この争議は創立直後の日本農民組合が指揮して全国の注目を集め、その後の運動に大きな影響を与えた。また藤田村では、その後1930年(昭和5)まで断続的に争議が続いた。

[田崎宣義]

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