(読み)ショク

デジタル大辞泉 「蜀」の意味・読み・例文・類語

しょく【蜀】

中国の地名・国名。
現在の四川省、特に成都付近の古称。
三国時代の王朝。→蜀漢しょっかん
五代十国の王朝。→前蜀ぜんしょく後蜀こうしょく

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精選版 日本国語大辞典 「蜀」の意味・読み・例文・類語

しょく【蜀】

[一] 中国四川省の古名。
[二] 中国の三国時代の王朝(二二一‐二六三)。正式の国名は漢。蜀漢はその通称。前漢の景帝の後裔と称する劉備が蜀(四川)にたてた国。魏・呉と天下を三分したが、劉備の子の後主劉禅が魏軍に降伏して滅亡した。蜀漢。
[三] 中国の五代十国の一つ。前蜀九〇七‐九二五)、後蜀(九三四‐九六五)。いずれも節度使が自立して、四川に建国した地方政権。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「蜀」の意味・わかりやすい解説


しょく

中国、三国時代の王朝(221~263)。正式には漢というが、蜀、つまり四川(しせん)省を中心とする地域を版図としたので蜀、蜀漢と通称される。後漢(ごかん)末の混乱期に劉焉(りゅうえん)が益州牧(えきしゅうぼく)として半独立の勢いを示したが、劉備(りゅうび)は焉の子劉璋(りゅうしょう)に迎えられて、211年荊州(けいしゅう)から益州に入り、ついで璋を攻めて成都を占領した。220年後漢の献帝が魏(ぎ)に禅譲すると、自ら漢室の後を継ぐものとして、221年成都で帝位につき、諸葛亮(しょかつりょう)を丞相(じょうしょう)に任じた。蜀は、劉備が荊州から連れてきた人々と土着人士との連合の政権であった。

 劉備は、その将関羽(かんう)を殺して荊州を奪った呉(ご)に対して報復の軍を出したが、白帝城で病没し(223)、子の劉禅(りゅうぜん)が即位した。これを後主(こうしゅ)という。これに対して劉備を先主という。諸葛亮が引き続き丞相となり、呉と同盟を結び、南中雲南)遠征を行い、227年より数次にわたって魏との戦争に出陣した。234年、五丈原(ごじょうげん)で亮が病死したのち、蒋琬(しょうえん)、費褘(ひき)が相次いで内政を担当し、姜維(きょうい)が軍事面を指導したが、物資も少なく、人材も欠乏し、内紛が相次いだ。そのうえ宦官(かんがん)の黄皓(こうこう)が専横であったため国力はしだいに衰亡し、263年、魏の攻撃を受けて劉禅は降服、蜀は三国のなかでいちばん早くに滅んだ。

 蜀は三国のなかでは領土も小さく、滅亡したときには戸28万、口94万、帯甲将士10万2000、吏4万であったという。しかし天府の国とよばれる国土と、おそらく南中を通じての、いわゆるビルマ・ルートによる交易を財政的基礎とし、漢の正統な後継者として、中原(ちゅうげん)回復を国の方針として、他の2国と鼎立(ていりつ)していた。

[狩野直禎]

『森鹿三他著『東洋の歴史4 分裂の時代』(1966・人物往来社)』『宮川尚志著『諸葛亮』(1940・冨山房)』『狩野直禎著『諸葛孔明』(1966・人物往来社)』

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百科事典マイペディア 「蜀」の意味・わかりやすい解説

蜀【しょく】

(1)中国,三国の一つ。221年劉備(りゅうび)が蜀(四川)の地に建国。正式の国号は漢で,漢朝の正統を継ぐと称したことから蜀漢という。劉備と諸葛孔明の死後は国勢衰え,263年に滅ぼされた。→三国時代(2)中国,五胡十六国の一つ。国号は成。ふつう蜀または後蜀と呼ばれる。306年【てい】族の李氏が蜀の地に建国。338年国号をと改めたが,347年東晋に滅ぼされた。(3)中国,五代十国の一つ。前蜀とも。唐の武将王建が891年蜀に入って自立,907年唐が滅ぶと帝位につき,蜀と号した。文化が栄え,印刷術が発達した。王建の死後,925年に後唐に滅ぼされた。(4)中国,五代十国の一つ。後蜀とも。後唐の武将孟知祥が934年蜀に入って自立,前蜀の故地を領したが,965年にに滅ぼされた。
→関連項目関羽魏晋南北朝時代蜀江錦

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改訂新版 世界大百科事典 「蜀」の意味・わかりやすい解説

蜀 (しょく)
Shǔ

中国の三国時代にと鼎立した国。221-263年。正式の国号は漢であるが,蜀すなわち四川省を中心版図とするので,普通に蜀漢とよんで他の漢国と区別する。前漢景帝の末裔と自称する涿郡(たくぐん)(河北省)出身の劉備は,後漢末黄巾の乱につづく群雄割拠の中で各地に転戦したのち,三顧の礼をもって諸葛孔明(しよかつこうめい)を幕下に迎え,その献策に従って208年(建安13),呉の孫権と同盟し,南下する曹操を赤壁に破って荆州(湖北,湖南)を確保し(赤壁の戦),天下三分の計の実現に着手する。やがて益州(四川省)に入った劉備は,その地の長官劉璋を追い,成都を占領して独立態勢を整えた。かくて220年(黄初1)曹操の子の曹丕(そうひ)が漢の禅譲を受けて魏の帝位につくと,劉備はこれを不当とし,みずから漢の正統をつぐと称して,221年(章武1),成都で漢の帝位についた。昭烈帝と追尊される。223年,荆州を奪った呉との戦いに敗れた劉備が白帝城(四川省奉節県)で病死したあと,丞相の諸葛孔明はその遺志をつぎ,後主劉禅(在位223-263)を補佐して,南は雲南地方を経営し,北は陝西地方に進出して魏を悩ませたが,234年(建興12)に諸葛孔明が死ぬと,あとは国勢が衰退して,263年,司馬昭に実権を握られた魏の軍隊の侵入を受けて滅ぼされた。
三国時代
執筆者:

蜀 (しょく)
Shǔ

中国,五代十国の一つ。後蜀ともいう。934-965年。前を滅ぼした後は,その地支配のために孟知祥を派遣したが,彼が自立して建てたのが後蜀である。堅固な天然の要害である四川盆地により,中原王朝の統制がゆるむと容易に自立しえた。五代十国期において,江南の南とともに最高の文化水準を保持し,経済でも著しい発展が見られた。965年(乾徳3)にに併合され,宋はこの地の富を徹底的に中央に吸い上げたため,四川農民の均産一揆(993-995)を引きおこした。
執筆者:

蜀 (しょく)
Shǔ

中国,五代十国の一つ。前蜀ともいう。891-925年。軍卒より身を起こした王建が四川に建てた国。王建は891年(大順2)に西川節度使となり,東川,山南西道,さらに荆南の一部をも併せて自立化を強め,907年(天祐4)に唐が滅ぶと,みずから帝位につき国号を蜀と号した。前蜀政権には在地土豪層の支援が見られ,唐の旧貴族らが任用されたが,政権中枢を掌握したのは120人にのぼる王建と仮父子関係を結んだ存在であった。王建没後,後継者争いの混乱が続き,後荘宗に滅ぼされた。
執筆者:

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「蜀」の解説

蜀(しょく)
Shu

①〔三国〕221~263 蜀漢ともいう。中国の三国時代の王朝。漢朝の遠縁という劉備(りゅうび)が蜀(四川)に建てた国。後漢末に劉備は群雄の間を放浪した末,荊州(けいしゅう)の劉表の客となったが,表の死後曹操(そうそう)が荊州を攻めたとき赤壁の戦いでこれを破り,みずから荊州を領有した。四川は後漢末赴任した劉焉(りゅうえん)の子劉璋(りゅうしょう)の領土であったが,劉備はその招きで入蜀し,璋に代わって益州牧(えきしゅうぼく)となり,が建国すると,漢の正統を継ぐと称して帝位についた。その死後子の後主劉禅(りゅうぜん)は無能であったが,丞相(じょうしょう)諸葛亮(しょかつりょう)が国政をとり,雲南を開拓し魏と戦った。亮の死後魏に滅ぼされた。

②〔五代十国〕前蜀907~925,後蜀934~965 五代十国の王朝。四川に拠った地方政権。891年に王建が独立。907年帝位についてから925年に後唐の荘宗(そうそう)に滅ぼされるまでを前蜀,934年荘宗の部下孟知祥(もうちしょう)が帝位についてから965年に宋に滅ぼされるまでを後蜀という。五代の産業,文化の一中心であった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「蜀」の解説


しょく

魏(ぎ)・呉(ご)とともに中国の三国時代の王朝の一つ(221~263)。漢の正統と称して漢・蜀漢(しょくかん)ともよぶ。前漢の景帝の後裔という劉備(りゅうび)は,後漢末の黄巾(こうきん)の乱の平定に功をあげ,蜀(現,四川省)に勢力を築く。関羽(かんう)・諸葛亮(しょかつりょう)(孔明)らを得て,呉の孫権(そんけん)と結び,華北の曹操(そうそう)を赤壁(せきへき)に破り,中国を三分。曹操の子曹丕(そうひ)が後漢の禅譲をうけ魏の王朝を開くと,劉備は成都で帝位につき,章武の年号をたて,蜀を開いた。その死後,国勢は振るわず,魏軍に降る。

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旺文社世界史事典 三訂版 「蜀」の解説


しょく

①三国時代の国 221〜263
②五胡十六国の一国 306〜347
③五代十国の一国 907〜925
④五代十国の一国 934〜965
蜀漢 (しよくかん) ともいう。➡ 蜀漢
成 (せい) または大成国の通称。➡
通称は前蜀。➡ 前蜀
通称は後蜀。➡ 後蜀

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動植物名よみかた辞典 普及版 「蜀」の解説

蜀 (イモムシ)

動物。チョウ・ガの幼虫の毛虫に対する俗称

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世界大百科事典(旧版)内のの言及

【魏晋南北朝時代】より

…しかしやがて州牧の地位は軍閥勢力に奪われる。このような経過によって,の三国政権が生まれた(三国時代)。 曹操の子曹丕(そうひ)が漢帝の禅譲を受けて魏王朝を建てると(文帝),呉・蜀もそれぞれ帝国を称し,ここに漢帝国は完全に崩壊した。…

【三国時代】より

…3世紀の中国で(漢)の3国が鼎立していた時代をいう。統一帝国として400年の命脈を保った漢王朝の瓦解によって生まれた政局で,魏晋南北朝の分裂時代がここに始まる。…

※「蜀」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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