衡平運動(読み)こうへいうんどう

改訂新版 世界大百科事典 「衡平運動」の意味・わかりやすい解説

衡平運動 (こうへいうんどう)

朝鮮の被差別白丁(はくてい)の解放運動。朝鮮の各種民衆運動の高まり,日本の水平社の結成に促されて,1923年慶尚南道晋州朝鮮衡平社が結成された。子弟の教育,差別糾弾などの運動を進め,内部での意見対立,一般民との紛争など問題を抱えながらも,公称40万人といわれる白丁を対象に朝鮮南部を中心に組織を拡大,100以上の支部をもった。衡平社内の左派は社会主義運動との提携を推進し,30年代初めには衡平社を解消して労働組合に再編することを主張したが,あくまで身分解放闘争を第一義的課題とする主流派の反対で実行されなかった。戦時下には経済権益の拡大をめざす融和団体〈大同社〉に改編された。解放後南北いずれにおいても身分としての〈白丁〉は消滅したといわれ,衡平運動の復活も見られなかった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「衡平運動」の意味・わかりやすい解説

衡平運動
こうへいうんどう

朝鮮の被差別民である「白丁(はくてい)」(公称40余万人)の解放運動。衡平運動は1923年に晋州(しんしゅう)(慶尚南道)で開始された。衡平社は創立当初から、農民らの反衡平運動と闘いながら各地に組織を伸ばした。運動の進展とともに一時主導権争いで内部分裂したが、25年に統一を達成した。さらに同年8月の醴泉(れいせん)分社襲撃事件を契機に、衡平社は他の社会団体との提携を深め、しだいに左傾し始めた。この路線をめぐって、28年ごろから内部で急進、穏健両派が反目し、とりわけ31年から33年にかけては衡平社解消問題で熾烈(しれつ)な争いを続けた。衡平社は翌34年に大同社と改称し、運動の延命策を画したが、その後過酷な弾圧の下で、妥協的な融和主義団体へと変質していった。

[池川英勝]

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百科事典マイペディア 「衡平運動」の意味・わかりやすい解説

衡平運動【こうへいうんどう】

衡平社運動とも。日韓併合後の朝鮮において,従来からあった賤民(せんみん)(白丁)に対する差別に抵抗し,その解放をめざした運動。日本の水平社運動に刺激されて,1923年慶尚南道晋州で衡平社が創立された。以後,運動は拡大したが,幹部の不和,日本官憲の弾圧により衰微し,戦時下では融和団体大同社に改編された。

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